wata
ちょっとだけ怖い頭白上人伝説の続編をお届け!おそらく茨城の民話ファンか県南地域の方しか耳にしたことがないでしょう。
なかなか不気味なところもあるので敬遠していましたが、小田(つくば市)の解脱寺で真相に迫ってから気になって仕方ありません。この伝説の背景には一体何があるのか。
この記事では土浦市の金嶽神社と頭白上人ゆかりの五輪塔をご紹介します。上人伝説の本場は土浦なのかもしれないと思える内容をお届けします!
金嶽神社は土浦市の小高に鎮座しています。流鏑馬で有名な日枝神社から車で5分ほど。沢辺郵便局前の53号から少し入ったところです。
昭和48年に発行された茨城県神社誌に当社の由緒は書かれていませんが、近年(1998年)境内の石碑に記載されるようになりました。そこから創建の部分を抜粋します。
この金嶽神社は、小高地区の氏神です。長い間、小高集落の平和を見守ってきてくださいました。
室町時代の末、天正二年(1574年)小田城主・小田氏治の臣、小高知常が当地に移り住んだとき、奈良県吉野の金峰山の蔵王大権現より御神像を勧請し、石崎の蔵王山頂に創建しました。
翌年、小田城が佐竹氏に攻められ落城したとき、小高知興が臼井字立野に移しました。立野集落ではこの御神像をいまも蔵王神社にお祀りしています。
金峰山、蔵王大権現。なかなか興味深い言葉ですね。修験道や神仏習合に関係するのでご存じない方が多いかも。修験道は明治の『神仏分離』で禁じられました。おそらくそうした経緯もあって現在のご祭神は少彦名命です。
境内社には稲荷社と諏訪社があります。よく目にする神社ですよね。それぞれ宇迦魂命と建御名方命をお祀りしており、蔵王権現と同様に山の神の性質を持っているとされます。
元来、「氏神」は血縁である氏で祀る神様を指しますが、ここでは土地の神を意味しています。
アクセス
名称 | 金嶽神社 |
住所 | 土浦市小高石崎211 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
境内
53号から鳥居の前を通り過ぎて駐車スペースへ。山を切り崩したような場所に位置しています。平成9年(1997年)に本殿の大修復と拝殿の再建をしました。昔から氏子の信仰が篤かったようです。
初参拝のときは気づかなかったのですが、鳥居にはこのような飾りを配する決まりになっているようです。しめ飾りの一種で「酒樽」などと呼ばれています。政宗は銘柄に由来するのかもしれません。
機械彫の狛犬が凛々しくありました。修復と再建に合わせて「御神像」も新しくなったそうです。「御神像」は蔵王権現由来なのでしょうか。見てみたい!
拝殿の装飾のように見えるこれが神紋なのかは定かではありません。一見して笹竜胆かと思いましたが、花の部分が違います。はてさて。神紋は右三つ巴のようです。縁のある家紋でしょうか。
本殿には菊花紋が見えますね。皇室を連想しますが、特別な意図はないように思います。
少彦名を祀る神社は比較的少ないでしょうか。大国主命と一緒になって国造りをしたことで知られ、茨城ではひたちなか市の酒列磯前神社が有名です。
そのため産業発展のご利益があるといわれます。大洗磯前神社では水難避け、笠間の常陸国出雲大社では薬神として祀られていますよ!
五輪塔
境内の駐車場へ向かう途中、とても大きな五輪塔を見かけました。社殿の左側、鳥居の外にありますから神社と別に考えられていると思われます。
じつはこの五輪塔こそ今回足を運んだ目的です。そもそも金嶽神社のことはつくば市の解脱寺の民話で知りました。
解脱寺は頭白上人という高僧の育ったお寺なのですが、上人は母親の菩提を弔う場所としてこの地を選びました。そして母親の供養をしているところに小田左京大夫が家来と共に馬に乗って現れ、墓を荒らして回ったといいます。
激怒した上人は生まれ変わって小田氏を滅ぼすと言い残し、その後小田氏は佐竹氏によって滅ぼされます。滅ぼした佐竹義宣が上人の転生した姿だとか。。
金嶽神社の五輪塔は上人が母の供養のために建てたといわれます。そばの立て札から抜粋します。
石造五輪塔
五輪塔とは、仏教思想で宇宙を生成する五大要素を形に現したもので、上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の各部分に分かれる。中世から近世にかけて、墓や供養塔等として石像の五輪塔が盛んに造られた。
この五輪塔は花崗岩製で、高さ約3.6メートルとこの地域周辺の石塔の中では極めて大きい。空輪と風輪がやや大きいが、全体の調和もとれ、安定感がある。地輪に「功徳王 頭白上人 大工本郷 永正十二天 二月三日」と刻まれている。
平成十八年/土浦市教育委員会
永正十二年は、西暦1516年に当たる。
この五輪塔は、室町時代の天台宗の名僧 頭白上人が母の供養のために建立したもので、千部経をあげて七日間供養を行ったと伝えられる。
たしかに巨大な五輪塔です。ふつうは人間の背丈を超えることはないと思います。建立には大変な労力ですから、それだけ深い意味があるのでしょう。
じつは頭白上人の存在自体少し疑っていましたので、こうして名前が出てきて俄然興味がわいてきました。
ただ、伝説を事実とするのはさすがに早い。髪が白かったというのはともかく、幽霊に育てられていますからね。佐竹義宣に生まれ変わったというのも。
ところで、先の五輪塔の立て札で気になる言葉を見つけました。『天台宗』です。
頭白上人と東城寺との関係
五輪塔の紹介で頭白上人は天台宗の僧侶とわかりましたが、わたしは浄土宗だと思っていたのです。上人の育った解脱寺が浄土宗だったので、同じ宗派に違いないと。
これは勝手な思い込みですが、なぜ天台宗なのでしょうか。ここではその根拠となる史料については触れません。
ただ、以前解脱寺の記事を書いたときから、上人は東城寺と関係があるのではないかと考えていました。天台宗ならその考えは正しいように思います。
以下が理由です。
- 民話によると上人の両親は東成寺(東城寺)の鎮座する山ノ荘に住んでいた。
- 東城寺は小田氏に保護されるようになってから真言宗だが、以前は天台宗だった。
- 上人は母親の件で小田氏に恨みを持っていた。同じ恨みを持つ者に小田氏に滅ぼされた平氏がいる。平氏は東城寺を保護していた。
平氏と頭白上人は立場が重なります。平氏を象徴する天台宗の僧侶が、平氏を倒した小田氏に復讐する。しっくりきます。
ちなみに、東成寺(+小田氏)と佐竹氏の戦いは凄まじかったそう。当時の東成寺は小田氏に味方しましたが、500の僧兵は全滅。五輪塔になっていまも東城寺の境内で供養されています。
歴史とは勝者が残すもの。。しかし、この場合、勝った佐竹氏は『恨み』や『伝説』を口にしないでしょう。もちろん、敗者はなにも語りませんし語れません。
だとすると、頭白上人伝説は小田氏の敗北を自業自得とする第三者。山ノ荘の天台宗ゆかりの人々だったのではないでしょうか。真相はわかりませんが、色々と考えを巡らせることができる気になる伝説ですよね!
五輪塔の異説
『新治村の昔ばなし』に頭白上人のことが詳しく書かれていました。これまでのお話と違う点をご紹介しましょう。
まず、上人の母(おしの)を殺めた賊の正体が明らかになっています。東城寺の辺りに住んでいた浪人・集助です。夜叉の如き妻と気ままに暮らしていましたが、ついに立ち行かなくなり追い剥ぎに至りました。
ちなみに事件のあった場所は五輪塔のある『石崎』とハッキリ書かれています。
次に上人が預けられた寺は解脱寺ではなく小田氏の菩提所である千光寺となっています。同寺は小田氏と佐竹氏の争いによって焼失。天正13年(1585年)につくば市の大曽根に移設され、いまも天台宗の寺院として健在です。
さらに驚くお話として集助(犯人)は上人の父(左源次)と筑波山の中禅寺の宿でばったり会っています。そのとき集助は事件の後悔から出家しており、生涯をかけておしのの供養をする身でした。
おしのの位牌と自らの命を差し出す集助に対して左源次は涙ながらに罪を許します。翌日、山を降りた2人は麓で千光寺で修行を積む頭白という少年の話を耳にして。。
親子の再会を果たし、左源次と集助は和尚に許しを得て千光寺に住み込み、頭白の成長を見守ることになったということです。
・土浦市の金嶽神社は奈良の金峰山から勧請した蔵王大権現を祀った。現在の御祭神は少彦名命
・敷地内には大きな五輪塔は頭白上人が母親を供養するために建てたといわれる
・上人の伝説は山ノ荘や東城寺との深い関係を感じさせる
新治村の昔ばなし|伊藤三雄
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
御朱印巡りをされる方へ