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土浦市の善応寺は「ぜんのうじ」と読みます。「ぜんおうじ」と思っていたのでちょっとびっくり。
と、こんな感じで身近でも知らないことってたくさんありますよね。わたしは土浦に長らく住んでいますが、真鍋の善応寺のことを調べていたら新発見がいくつも!
なんとなく知っていること。改めて調べてみると意外と面白いですよ。興味深いことをいくつかまとめておきます。土浦市民は特にチェックして欲しいです!
善応寺とは

本堂
善応寺は土浦市の真鍋にある真言宗のお寺。大日如来をご本尊としてお祀りしています。創建は定かでありませんが、寺伝によると室町時代以前といわれています。
1670年に土浦藩主の土屋数直が鬼門除けの祈願寺として再興。それから代々歴代の城主によって保護されてきました。後ほど紹介する照井に関しては土屋氏の前に土浦城主だった朽木氏との逸話もあります。土浦との関係の深さがわかりますね。

梵鐘に彫られた文字
境内の梵鐘には菩提発願功徳主として、『真鍋小学校同窓会 中川延四郎 外一同』の名前が。いまある中川ヒューム管の創業者。現市長のお父さんでもあります。
小学生の頃、土浦の名産品はれんこんとヒューム管と教わったので感慨深い。。やはり土浦の人々に大切にされた場所なのでしょう。

市重要文化財の観音堂
写真の建物は観音堂。佐久良東雄の書いた扁額は市の指定文化財。屋根の棟(てっぺんの平らな部分)には土屋氏の家紋『三ツ石紋』があります。
関東八十八ヶ所霊場の第三十五番目にも数えられています。真言とご詠歌はこちら。
真 言:おんあびらうんきゃん
ご詠歌:かぜきよく あかるくまなべの だいしそん まいりねがわん よきこたえをば
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御朱印などでは正確な「善應寺」の文字が使われています
佐久良東雄との関係

佐久良東雄の書『聖観音』
善応寺の文化財といえば後ほど紹介する照井と観音堂の扁額。扁額を書いたのは勤王の志士佐久良東雄です。
この名前でピンとくる人はかなりの歴史通。私はお名前と石岡市で生まれたことくらいしか知りませんでした。じつは善応寺の第18代住職です。
佐久良東雄は幕末に活躍した国学者。とはいえ、この時代の教養人はなんでもやりました。もともと僧侶でしたが水戸学や国学を学び、歌も得意だったそう。東雄は歌人としての名前なんですね。
土浦にいた際は色川三中や藤森弘庵と交友がありました。土浦藩を代表する文化人ですね。それに水戸藩の藤田東湖や会沢正志斎とも。。
東雄の最期は獄中死。井伊直弼を暗殺した桜田門外の変に参加した水戸藩士を支援したりかくまった罪で投獄。そのまま自らの意志で断食して亡くなりました。
東雄が亡くなったあとも故人を偲んで善応寺に訪れる方がたくさんいました。戦中には超大物もいらしたようですね。長くなるので別の機会に。。
照井の伝説

史跡の照井
善応寺の山号は照井山。境内にある照井はもちろん重要な場所。井戸にはありがたい伝説と土浦藩との深いつながりがあります。
公式サイトに次のようにあります。
観音堂左手下にある照井は弘法大師が掘ったという言い伝えがあり「臼井鏡井」とも呼ばれており、現在でも昼夜問わずこの井戸水を汲みに来る方で賑わっています。是非一度お越し下さい。
善応寺
なるほど。さすが真言宗のお寺。弘法大師のご利益全開といったところ。『民話100話 土浦ものがたり』だとこんなお話も。
はじまりは少々ミステリアスですが、1670年(寛文10年)には土浦藩主の土屋数直によって城内に引き入れて利用されたそう。なんでも松の木で水道管を作ったとか。市の郷土博物館で保存されている。。はず。
井戸の周辺には水を組みやすいように桶が用意されています。伝説の井戸のお水。召し上がってみてはいかがでしょうか。
境内の史跡は照井の他、佐久良東雄の墓 大久保要の墓 木原老谷の墓があります
御朱印

善應寺の御朱印
善応寺の御朱印はこちら。初穂料300円です。
ご本尊の大日如来が書かれていますね。右上の関東三十五番は関東八十八ヶ所霊場の、という意味です。
アクセス
名称 | 照井山 善応寺(真言宗豊山派) |
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住所 | 茨城県土浦市真鍋3丁目12−1 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
まとめ
土浦市の善応寺は歴代土浦城主など、土浦の歴史と深い関わりがあります。
境内の照井は鹿島の神様や弘法大師が掘ったとも云われる伝説の井戸。自由にお持ち帰りできますので、容器を持ってお越しください。(水をすくう道具は用意されています)
参考文献
民話100話 土浦ものがたり/著:本堂清
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