wata
わたしは将来『庵』に住みたいです。。
庵とは小さくて簡素な住居のことで隠居した僧侶が住んだりします。たまにお蕎麦屋さんの名前についてたりしますよね。
土浦市の新治地区にある向上庵はわたしの理想的な場所でした。静かな場所で自然に囲まれて悠々自適に過ごせそう。それでときどき車で遠出。。ああ、待ち遠しい。
この記事では向上庵とゆかりの伝説をご紹介します。どんな方でも歓迎してくれますので、ぜひ気軽にお訪ねください。
翠巌山 向上庵とは
向上庵は土浦市の小野にある臨済宗の『庵』です。旧新治地区に位置していまして小町の館から車で5分ほどです。
境内に建長寺の案内がありましたので建長寺派かと思います。ご本尊は釈迦牟尼仏です。
どんな場所かいまひとつイメージがつかめない方は、茨城新聞の動画をご覧ください。国際交流の場としての向上庵を紹介しています。
場所は小町の里から車で10分かかりません。里から続く看板に従っていけば無事に到着できますよ♪駐車場は数台であれば駐車できました。
馬祖碑・如意輪観音
駐車場に停めるとすぐにこの石段。関東ふれあいの道とありました。ふれあいの道はよく寺社の参道などに見られるのですが、どこも険しいイメージが。。
でも、ここは大丈夫。手すりもありますのでゆっくり登れば安全です。
境内ではいくつもの石仏を目にしました。写真の左は馬祖碑、右は如意輪観音象です。馬祖大師は中国(唐)の臨済宗の僧侶です。この碑の不思議な伝説は後ほど紹介します。
ちなみに大師の舌はとても長かったそう。石にも舌に見える部分があるのですがわかるでしょうか。
右は天保3年(1832年)に女人講中が建立した如意輪観音像です。
如意輪観音は十九夜講の主尊(守り本尊)です。十九夜講はほとんどの場合安産や子宝を祈願する女性たちの集まりです。
十九は月の満ち欠けを意味しており、月に祈りを捧げると講は解散となります。信仰には違いありませんが、女性たちの交流の場としても機能していたようですよ。
本堂
さらに石段を上ると正面に庵が現れます。とてもシンプルで美しいと思います。通路を覆うようにもみじが伸びていて日差しの強い日は和らげてくれるそうです。
中央にちょこんと香炉がありまして、お参りの際には1本お線香をあげてお祈りをします。お線香とライターは香炉の下の引き出しにありました。
壁を見ると早朝禅の集まりをされているとのこと。後でご住職に伺いましたが、たしか月に一度日曜日だったような。。気になる方、お問い合わせください。
雨の降る日でしたが、しっとりと落ち着いた境内だったので穏やかな気持ちお参りできました。色濃い春もみじが味わい深くて印象に残っています。ふだんの生活には少々不便かもしれませんが、侘び寂びを感じられるのがいいですね。
御朱印をいただく際、ご住職と少しだけお話させていただきました。自然や植物のこと、名物だったしだれ桜のことなど。
野草というと人が手を加えなくても勝手に育つと思いませんか?じつはそんなことなくて、放って置くと繁殖力の強い植物が優先的に増えて、競争に負けた方はなくなってしまいます。
つまり、人が住み分けるなどしてあげないと生きていけないんです。動物や魚、それに人間も同じなんですよね。植物は自分で移動できないのでなすがままですが、人間は逃げたり助けを求めることができます。
苦難を乗り越えるために耐えたり我慢するのも時には必要なことでしょう。でも、自然界では少々不自然な考え方なので、やはり無理はよくないな〜なんて思いました。
御朱印
向上庵の御朱印です。御朱印料は300円。ご住職がいらっしゃれば書いていただけます。本堂の柱にあるインターホンからお申し出ください。
『常州小野』は清瀧寺の御朱印にもありました。常州は常陸国の異称。茨城県が誕生する前からあるというニュアンスが含まれているのでしょうか。なんとも風流ですね♪
民話『向上庵のばた石』
向上庵の馬祖碑には次のような伝説があります。
あるとき村の若者の茂吉は年老いた両親のためせっせと畑仕事に勤しんでいたが、朝になって畑にやってくると自分の畑が荒らされている光景を目の当たりにした。
じつはこうした被害はしばらく前から続いていて、原因は人々が寝静まった夜中にやってくる獣の集団だとわかっていた。とりわけイノシシが多く、その中でも子牛ほどの大きさの白い毛をしたイノシシが集団を率いているといわれていた。
「それにしても今回はひどい。芋が根こそぎなくなっている。。」
1年間丹精込めて育てた作物をなくなっているのを見て、両親や村人は茂吉にかける言葉を失っていた。茂吉は怒りのあまり自ら獣たちを退治することを決意した。名主を通じて藩から貸し下げた鉄砲を準備して、夜になると村の畑で待つようにした。
数日後の夜、やはり獣の集団はやってきた。集団の中心には白い塊も見えた。近づいてくると仔牛どころではない大きさだった。月明かりに照らされた毛は輝き、山の主ともいえる姿をしていた。
集団が畑で立ち止まり、ムシャムシャと作物を食べ始めたので動きが止まった。茂吉はここぞとばかり鉄砲を構えて放った。恐ろしいと思ったが、狙いは被害の元凶ともいえる山の主だった。
発射された弾丸は腹に命中。音に驚いたイノシシたちはすぐに逃げ去っていったが、主は怒りに燃える眼差しを茂吉に向けて突進してきた。茂吉は恐ろしくて次の弾の込める手をひどく重たく感じていた。
なんとか弾を装填して2発目を発射。次の瞬間、主の体当たりを受けた茂吉の体は数メートル宙に浮いた。ところが、主は茂吉に止めを刺さすに反対の方向に歩き出した。そして途中でドスンと大きな音を立てて倒れた。
銃声を聞いた村人が集まってきて主を見ると額の中央を射抜かれていた。茂吉は気を失っていたが、2発の弾丸によって主を仕留めていたのだ。
茂吉は村を救った英雄として讃えられた。イノシシによる被害も減って村には平和が戻った。仕留められた主はふつうのイノシシのように猪鍋として食べられることはなく、山の王として丁重に葬られた。
しかし、その年の暮、大雨と雷が三日三晩続いた。村では主の祟ではないかと噂が立ち、茂吉は主を殺した悪人に仕立てられてしまった。
茂吉自身は祟りなど信じていなかったが、周囲からの目が辛かったので、数日前に向上庵の下寺である聴松庵にやってきた忍顕という僧に頼ることにした。
忍顕は茂吉の話を聞くと、主の供養を快く引き受け、主の眠る塚の前で一心不乱に経を上げた。ところが、経を読み上げている最中に落雷があり、山火事まで発生してしまった。忍顕は自分の非力さを感じて、向上庵の宗仙和尚に相談することにした。
宗仙和尚は聴松庵にある馬祖大師の碑を主の塚に置いて経を上げよと助言した。忍顕が教えに従い7日間祈願すると結願の日に雨が止み、主の霊は静まったという。
その後、聴松庵はなくなり、馬祖大師の碑は向上庵に運ばれてきたそうです。小野の日枝神社にも怪物の伝説がありますよね。新治地区はこのような伝説巡りも楽しいと思います♪
向上庵のしだれ桜(二代目)
向上庵といえば立派なしだれ桜。ネット上では樹齢300年とありますが、ご住職は400年だったと仰っていました。『茨城県の桜』によると、県指定の天然記念物でエドヒガンとヤマザクラの交配品種といわれていたそうです。
残念ながら2011年(平成23年)の台風で根本から折れてしまいました。でも、県が保存していた接ぎ木によって直系の二代目が歴史を引き継いでいます。すくすくと育っているので将来が楽しみです!
アクセス
名称 | 翠巌山 向上庵 |
---|---|
住所 | 茨城県土浦市小野1171 |
駐車場 | あり |
まとめ
この記事のまとめ
- 県内で珍しい臨済宗の寺院。小田氏ゆかりの寺
- 美しい草花に囲まれた境内で春のしだれ桜が名物
- 御朱印は本堂柱のインターホンから声掛け
小野の向上庵は自然に囲まれた美しい境内。名物のしだれ桜と不思議な伝説を持つ馬祖碑があります。
新治村史/新治村史編さん委員会
新治村の昔ばなし/伊藤三雄
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
寺院巡りにどうぞ