阿見大空襲と霞ヶ浦神社(阿見町・土浦市)

6月10日は阿見町と土浦市にとって特別な日。戦中だった1945年に大空襲がありました。

当時、阿見は海軍のまちで航空隊と予科練がありました。となりの土浦も海軍のまちで軍人や予科練生が休日を過ごす場所でした。2つの町は共に発展し苦難も経験しました。

阿見の予科練平和記念館のブログで当時のことに触れていましたので、それを元にわたしが調べたものをご紹介します。平和を考える参考になればと思います。

6月10日の大空襲

予科練平和記念館の入り口

6月2日、予科練平和記念館のブログが更新されました。タイトルは『阿見大空襲の日と第50回予科練戦没者慰霊祭』。そこで空襲の悲惨さについて触れています。ブログから一部引用します。

予科練生の死亡者や負傷者は、土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校)へ運ばれて治療を受け、また荼毘に付されたと言われています。
死傷者を運ぶため民家の戸板が使われましたので、周辺の家の戸板は、ほとんど無くなってしまったそうです。また衣類も死傷者を覆うのに利用されました。阿見大空襲の日と第50回予科練戦没者慰霊祭|予科練平和記念館ブログ

空襲があったのは1945年6月10日の午前7時37分。阿見にあった土浦海軍航空隊の軍事施設を狙われました。爆撃機(B29)が約1時間に渡って250キロの爆弾を投下しました。

建物だけ狙うことは不可能で中の人はもちろん、周辺地域や避難先の防空壕ぼうくうごうまで破壊。施設全体と周辺が被害を受けたので被災者は少し離れた土浦まで運ばれています。

歴史上のできごとは地域で区切れません。空襲は阿見と土浦の境目あたり。”土浦”海軍航空隊が被害を受けて被災者は”土浦”市内に運ばれました。わたしは土浦市民ですが、隣町のことと思えません。軍人・予科練生・民間人を合わせ374名が亡くなっています。

予科練平和記念館と回天模型

記念館内でも空襲について触れています。それによるとアメリカ軍は3月20日に偵察機を飛ばして、5月26日付けで施設上空から撮影した写真を残しています。6月10日に空襲をして25日にはその報告書が出されています。

偵察から空襲までわずか2ヶ月足らず。日本は制空権を完全に失っていました。それを知っているはずの航空隊員はどういう思いだったのでしょうか。

報告書には爆弾投下後の写真があります。写真の中央は真っ白。建物が吹き飛んでなにもないからです。

記念館の6番目の展示『窮迫』では、当時の空襲のようすを映像で再現しています。被災者の生々しいインタビューも残っていて、とても悲しい気持ちになりました。しかし、心から平和な世界を目指すなら事実に目を向けなくてはいけません。

アクセス

名称予科練平和記念館
住所茨城県稲敷郡阿見町廻戸5-1
Webサイト予科練平和記念館公式

法泉寺

法泉寺

空襲と土浦の関係を辿ります。写真は6月10日に法要のある法泉寺です。土浦三高のとなりにあって予科練平和記念館から車で5分ほど。

法泉寺の慰霊碑と墓誌

お寺に面した道路沿いに航空隊の慰霊碑と墓誌があります。空襲によって亡くなった方は荼毘だびに付されて遺族に遺骨が渡されました。一部残った遺骨がありましたので、それらは当時の法泉寺の和尚が葬り、それからずっと供養を続けています。

亡くなった方々は石碑に名前が残されています。予科練生たちは隣の学校の生徒とちょうど同じくらいの年齢でした。

アクセス

名称法泉寺
住所茨城県土浦市大岩田1616
駐車場あり

霞ヶ浦神社

航空隊員や予科練生、海軍関係者として亡くなった方は英霊として神社に祀られていました。戦没者を祀るといえば靖国神社ですが、霞ヶ浦航空隊と土浦航空隊は殉職者に対する供養と慰霊のため、自分たちで神社を建てました。それが霞ヶ浦かすみがうら神社です。海軍殉職者の靖国神社ともいえる神聖な神社でした。

1925年に建立のための建設調査委員会が発足して、当時、霞ヶ浦航空隊に所属していた山本五十六いそろく(のちの海軍元帥)が委員長になりました。山本はそのあとすぐに阿見を離れてしまうのですが、神社は1926年に霞ヶ浦海軍航空隊の敷地に建立。

霞ヶ浦神社には全国の海軍関係者の英霊が祀られて、終戦までに5573柱になりました。霞ヶ浦神社のご神体は英霊たちの名簿。霊名録れいめいろくといいます。

終戦後の霞ヶ浦神社

阿彌神社(中郷)の入り口

終戦すると航空隊のあった場所に進駐軍(GHQ占領軍)がやってきました。進駐軍は神社の撤去と霊名録の焼却を命じましたので、神社を残したかった残務指揮官は阿見町に協力を要請。

当時の阿見町長・櫻井文太郎さくらい ぶんたろう氏は進駐軍の指揮官と直接対話して真意を確かめたのち、霞ヶ浦神社の社殿を中郷の阿彌あみ神社(中郷)に移し、霊名録を信頼できる農家に預けて、進駐軍にはいずれも処分したと報告をしたそうです。

つまり進駐軍は説得できないと判断したのでしょう。当時の阿見町長の努力と大胆な判断により霞ヶ浦神社は残りました。

霞ヶ浦神社です。阿彌神社の拝殿から向かって左手側にあります。ただし、ご神体である霊名録はありません。霊名録は複雑な事情と経緯があって阿見町の中郷保育所のとなりの敷地にあります。

海軍航空殉職者慰霊塔

霊名録の納められた石碑

霊名録の納められた石碑・海軍航空殉職者慰霊塔です。彰往察来しょうおうさつらいと文字が彫られています。意味は「過去を明らかにして未来を考える」。短い言葉ですが、たくさんの想いと意味があるように感じました。

アクセス

名称海軍航空殉職者慰霊塔
住所茨城県稲敷郡阿見町阿見3999
駐車場なし

ご神体を守った阿見町と土浦市

霞ヶ浦神社のご神体は英霊たちの名前が書かれた霊名録だと書きました。しかし、終戦後は進駐軍によってご神体が失われる危機となりました。すると今度は阿見町が中心となってご神体を守りました。

第一の危機は前述の通り阿見町長によって救われています。霊名録は町長から理由を聞かずに受け取った数軒の農家が大切に保管。その後、連合国と平和条約(サンフランシスコ条約)が締結されたので、焼却されることがなくなった霊名録は再び一箇所に集められました。しかし、すぐに霊名録の処遇は決まらず陸上自衛隊武器補給処(土浦市内)の元に渡っています。

それも長くは続きませんでした。国の機関が宗教(?)と関わることが問題とされたからです。そうした中、阿見町と土浦市は協力しながら霊名録を納める場所を探し続け、管理する組織を考えました。場所は一旦決まったものの反対運動があって断念。困り果てたところに、再び阿見町長の櫻井氏の配慮によって保育所の土地を慰霊塔の建設地にすることができました。

その後、管理する組織(奉賛会)も決まり、海軍航空殉職者慰霊塔はいまの場所に完成しました。1955年(昭和30年)のこと。終戦から10年経過してやっと英霊たちを祀る場所が決まりました。

それから十数年がたつと、慰霊塔の関係者が少なくなってきました。そこで奉賛会は将来を見据えて慰霊塔の管理について阿見町と話し合いをしました。それにより慰霊塔の管理は奉賛会から阿見町へ移管されています。そのときの町長は元霞ヶ浦航空隊の海軍士官だった丸山銈太郎けいたろう氏でした。

MEMO
慰霊塔の完成から続いている慰霊祭は、いまも毎年4月の第2日曜日の午後1時から行われているそうです。

霞ヶ浦神社の石碑

海軍航空殉職者慰霊塔のある敷地には霞ヶ浦神社の石碑があります。石碑の側面には昭和12年4月30日と書かれています。終戦が昭和20年ですから当時のものが処分されずに残っていたんです。心ある方が掘り起こして保管していました。

さらに敷地内には山本五十六元帥の歌碑もあります。これは終戦後に土浦市の神龍寺に移されていました。当時の秋元梅峰ばいほう和尚が航空隊と懇意だったからと思われます。

まとめ

阿見町にはかつて航空隊と予科練があり、アメリカ軍に空襲されたことがあります。

亡くなった軍人は英霊として霞ヶ浦神社に祀られましたが、戦後ご神体である霊名録が失われる危機がありました。阿見町と土浦市によって難を逃れ、いまは町内でお参りできる場所にあります。

今回の記事は、あみ観光ガイドの筧田聡さんに情報提供していただきました。
ご協力に感謝いたします。


参考図書
続・阿見と予科練/発行 阿見町
爺さんの立ち話〜阿見原と海軍にまつわる話ほか〜/発行 阿見町

2 Comments

アバター 小松﨑優

先人達が大切に守ってくれた大切な、貴重な記録を拝見させていただきました。
私も一昨年「記念館」を訪れ、大空襲の記事等は読ませていただきました。
戦争は悲惨であり決して二度と起こしてはならない事象です。
理由は何であれ戦地に行く者、銃後で家庭や地域を守る者、想像を絶する事があったと思います。
しかし、他方、他国からの無理難題の言われ無き圧力には、私、日本男児として、将来のある子供や孫そして、この美しき日本国のために、自己を投げ捨てて戦います。
土浦駅前にて軍歌を流していた叔父さんも、同じ気持ちで予科練に「甲飛」入隊し、厳しい訓練に明け暮れたことと推察しています。
有難うございました。

wata wata

コメントありがとうございます。
こちらこそ、貴重なご意見をいただけて感謝しています。

仰るとおり、戦争は悲惨なことなので繰り返してはいけません。
私も当時の方々の気持ちを考えるのですが、好きで戦争に参加する人はいなかったと思います。
平和を望んでいたのにそうなったのですから、その理由を考えることが大切です。

どうすればいいのか、すぐに結論が出ないのは当時と同じですが、私たちには先人が残したものがありますので、そこから改めて考えてみたいですね。

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