2月17日(水)『うなぎ地蔵』(城里町)の記事を公開しました。次回更新は2月21日(水)の予定です。

土浦の花火大会はどんな時代に始まった?神龍寺と秋元梅峰和尚を知るとわかる(土浦市)

イラスト『神龍』

もうすぐ土浦の花火大会ですね。土浦市民には恒例のことですが、やはり楽しみです。

正式名称は土浦全国花火競技大会。日本全国から集まった花火職人が内閣総理大臣賞を目指して腕を競います。職人にとっては来年の仕事に関わる大会なので、採算を度外視した豪華な花火を見れます(*^^*)

今年は10月7日(土)に開催です。(雨天時は順延)天気が心配ですが、過去自粛以外で中止になったことはありません。少々の雨では決行しますので、今年も予定通り開催されることでしょう。

この花火大会は今年で86回目です。非常に長い歴史があって、その起源についてもよく知られています。市内にある神龍寺じんりゅうじ秋元梅峯ばいほう和尚が中心となりました。大会のWebサイトや公式パンフレットにもありますので、ぜひご覧ください。

さて、花火大会については各所でさまざまなことがわかります。でも、神龍寺や秋元和尚についてはどうでしょうか。神龍寺はWebサイトがありませんし、和尚に関することはネット上に少ないはず。そこで、今回は花火をより楽しむため、大会と深く関係する神龍寺と梅峯和尚をご紹介します♪

神龍寺とは

神龍寺外観3

神龍寺は土浦市の文京町にある曹洞宗のお寺です。1532年に当時の土浦城主菅谷すがのや勝貞が創立したと伝えられています。菅谷氏や江戸時代の土浦城主土屋氏の菩提寺としても知られています。土浦城のそば、そして土浦藩の中心にあったことで、土浦の歴史と深く関わってきました。(土浦城は現在の亀城公園の敷地にありました)

江戸時代に活躍した商人で町人学者色川三中みなかの日記にもよく出てきます。交友関係の広い三中は、冠婚葬祭のたびに神龍寺を訪れました。

墨僊の雲龍図

土浦の奇才沼尻墨僊ぼくせんは旧本堂の天井画を描きました。画は1.6m四方の板に水墨で立派な龍を描いたもので、この雲龍図は市の指定文化財です。当時、住職だった大寅だいいん和尚と親しかった証でしょう。

なお、現在のたいへん立派な本堂は1998年に新築されたものです。

梵鐘

神龍寺の梵鐘

梵鐘ぼんしょうは小田部鋳造の製造です。小田部鋳造は創業800年!関東で唯一梵鐘を製造している会社です。昭和46年とありますので、かつての梵鐘はなくなってしまったのですね。戦時中に失ったと聞いたことがあります。

神龍寺の梵鐘は土浦八景に詠まれたことがあります。八景というのは、その地方で優れた景色を8つ集めて俳句や漢詩・和歌にしたものです。近江八景や金沢八景が有名ですが、土浦にもあるんです。八景は読む人によって違いますが、先ほどご紹介した沼尻墨僊も神龍寺を詠んでいます。

あけの鐘 さえて馬子唄 鈴の音

夜明けを知らせる鐘の音のことですね!歴史を感じる一句です(*^^*)

見どころは他にもありますが、花火に関することに移ります。

2つの慰霊塔

鳶職人の慰霊塔

神龍寺の正面の駐車場付近に2つの塔があります。1つはとび職の方々の慰霊塔です。土浦はとびの方々が活躍したおかげで発展しました。いまあるたくさんの建物、巨大な建造物はとびなしで考えられません。石碑には土浦若鳶会、土浦鳶職組合、そして歴代市長の名前が続いています。

海軍殉職者供養塔

もう1つは霞ヶ浦海軍航空隊の航空殉職者供養塔です。現在の阿見町にあった航空隊の殉職者を供養をしています。

航空隊ができたのは1922年。当時の航空隊には大きな悩みがありました。飛行機事故です。その頃の日本は飛行機の製造も運転技術も不十分なものでした。霞ヶ浦航空隊は発足してから3年ほどで、25名の殉職者を出しています。全国で約60名いた内の25名なので、指揮官はかなり悩んだことと思います。

悩んでいたのは、当時海軍大佐だった山本五十六いそろくです。ほとんど説明不要の人物だと思いますが・・・山本はのちに連合艦隊司令長官としてアメリカの真珠湾を攻撃しました。ブーゲンビルで戦死されたあとは、海軍元帥の称号が贈られています。

山本は1924年に霞ヶ浦海軍航空隊にやってきて、25年まで副長と教頭職に就きました。・・・かなり悩んでいたようですね。海軍は心理学を用いた適性試験まで導入して、なんとか事故をなくそうとしていました。しかし、事故は一向になくなりませんでした。そんな状況でしたので、神龍寺の秋元梅峯和尚を頼りにしたのだと思います。

秋元梅峯和尚

梅峯和尚の像

お堂のすぐそばにある梅峯和尚の石像です。細かく彫刻されていて、優しい人柄が伝わってきます。

山本五十六は阿見の霞ヶ浦海軍航空隊にやってきたとき40歳でした。神龍寺の山門の近くにある民家に下宿していたので、梅峯和尚との交流があったのでしょう。当時の和尚は42歳でしたから、年が近くて親しめたのかもしれません。

それから、殉職者の供養を相談し、花火大会へと繋がるわけですが・・・寄り道して、梅峯和尚について知りましょう。本堂清著『民話100土浦ものがたり(常陽新聞発売)』からかいつまんで紹介します。

注意
本の中では梅峰という文字が出ますが、使い分けがわからないので梅峯に統一します

和尚になるまで

梅峯和尚は1882年(明治15年)に神龍寺の第23代和尚の次男として生まれました。もともとは、峰之助という名前です。
お兄さんがいましたので、住職を継ぐ予定ではありませんでした。お父さんは住職を長男に継がせて、峰之助を軍人か学者にしたかったそうです。

峰之助少年は利発でした。7歳ですでにお坊さんになろうとしていて、自らの意志で梅峯と改名しました。・・・!?いまではありえませんが、明治のはじめは理由を説明すれば簡単に改名できましたΣ(゚∀゚ノ)ノ

少年の説明は以下です。

「僕の理想は、雪を割って咲く梅のように、香ばしい人になりたいんだ、そして将来偉いお坊さんになるんだから、梅峯として下さい」
民話100 土浦ものがたり/本堂清著

以来、名前を梅峯とし、勉強に運動に励みました。

中学校を卒業したあとは、東京の曹洞宗の学校に通いました。しかし、宗教界が堕落していると感じ、医術を学んでお寺に役立てようと考えます。ところが、その頃にお兄さんが病気で亡くなってしまいました。お父さんはすでに亡くなっていましたので、神龍寺に戻り住職を継ぐことになりました。

すでに激動の人生ですが、まだ始まったばかりです。和尚になったとき(1904年)は日露戦争のさなかでした。そのため、和尚は看護手として戦地に送られています。戦地での活躍はめざましいもので、二等看護長に抜擢されました。(まだ22歳!)そのあと無事に帰国し、勲章(勲七等青色桐葉章)を受けています。戦地での活躍は医術への志があったせいかもしれませんね。

土浦に戻ってからは、名寺の主人として人々から尊敬を受けました。

大日本仏教護国団を組織

梅峰和尚が住職となった頃、人々の仏教に対する考えは良くありませんでした。明治はじめにおきた廃仏毀釈はいぶつきしゃくの運動が土浦にも影響していたからです。全国的なできごとでしたが、茨城は特に激しかったといいます。

和尚はそんな時代からこそ、み仏の教えを広めようとあえて厳しい道を進みます。1912年(大正元年)、筑南慈済会を結成し、罪人の更生保護に取り組みます。具体的には、刑務所を出た方をお寺で預かって、更生させてから社会復帰をさせました。(20年以上続けて、数百人を社会復帰させています)

そして、翌年1913年には大日本仏教保護団を組織します。ここで和尚は団長として、本格的に布教、貧民救済、産業の振興などに力を注ぎはじめます。

1915年、行方郡に欠食児童がいると新聞で報道されました。それを知った和尚と護国団は、土浦警察署と各寺院に協力してもらい問題解決にあたります。そして、政府と交渉し、外国のお米を安く手に入れることに成功します。お米は無料配布されたり、安く販売されて人々を救いました。(その日は4月8日。お釈迦様の誕生日です)

MEMO
貧しい人が増えた原因はお米の価格が高くなったことでした。

同じ年、日露戦争で傷ついた元兵隊と政府の間に入って交渉を成功させます。当時、物価の上昇によって生活に困る廃兵が大勢いました。

廃兵とは戦争によって手足を失うなどした兵のことです。もちろん働けませんので政府から与えられるお金が頼りでした。しかし、物価が上がると受け取る金額が同じままでは貧しくなっていきます。一般の家庭でも困窮者がでていましたので、働けないとさらに苦しかったのでしょう。そこで、廃兵たちは明治神宮の前で絶食をして訴えていたのです。

和尚は兵と警官が衝突しないように、政府や各政党にお願いをしてまわりました。そのこともあって、兵たちの一時下賜金の願いが政府に受け入れられたのです。

関東大震災の避難民の救済

1923年9月。関東大震災がありました。土浦の被害は大きくありませんでしたが、東京周辺には大勢の犠牲者がいました。東京の家や建物は激しく壊れましたから、人の住める状況ではありません。そのため、震災の避難民が土浦へたくさんやってきました。

神龍寺では境内にテントを張って、1日300人を宿泊させました。避難民は9月から12月までで2000人以上。護国団と青年団が立派に救済活動をしたので、たくさんの人が救われています。

2年後に開催される花火大会は、震災の犠牲者の冥福を祈るためでもありました。

花火大会の誕生

震災から2年後の1925年(大正14年)。土浦ではじめて花火大会が開催されました。初代主催者は梅峯和尚個人とも大日本仏教護国団ともいわれます。どちらでもいいでしょう。間違いなく、どちらも深く関わっています。

花火大会の目的はいくつもありました。不況に苦しむ土浦の町を救うため。国家のために命を捧げた英霊たちを慰めるため。護国団でなくなった方に対しての追善供養。そして、関東大震災で犠牲となった方の魂の冥福を祈るため。

MEMO
一般的な花火大会より遅い時期なのは、農家の繁忙期を避けたからです。

立派な考えでしたが、花火大会の案は周囲にすぐに理解されませんでした。でも、和尚が少しずつ説得してまわり、やっと第1回目を迎えたのです。ただし、その頃の花火大会は専門職の方が集まるようなものでありませんでした。花火は農民の手作り品で、いまと比べるとかなり未熟・・・ところが、たくさんの方が呼びかけに応じたので、回を重ねるごとに規模が大きくなっていきました。

はじめの頃は霞ヶ浦の湖畔で開催されていました。会場が桜川の方に移ってから名前を競技大会に変えて、いまのようになりました。

建設中の桟敷席

先週の花火大会の桟敷席です。職人の方々が頑張って設営していました。完成までもう少しといったところ。先が見えないほど立派なことがわかります来場客が多いので、この席に座れるのはほんの一部だけ。ほとんどの方はシートを敷いて座ったり、立ち見です。

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和尚の目標は10万人の来場者でした。それが昨年は70万人ですから、予想を大幅に超えた大当たりになりました。この桟敷席を見れば、和尚は喜んでくれたことでしょう。

まとめ

花火大会がはじめて開催された大正時代は激動でした。

国の経済は不安定で、人々は食べ物に困ることさえありました。また、関東大震災によってたくさんの命が失われ、東京を中心に国土は大きく破壊されました。そして、海の向こうでは世界大戦が起きていて、日本も戦争への関わりを強くしていきます。だれも明るい未来を描くのが難しかった時代ですね。

でも、そんな時代だからこそ、だれかが前向きな気持ちを示さなくてはいけません。このときは梅峯和尚が活躍しました。しかし、これからはいまの世代が頑張っていかなくてはいけませんね!花火を見ながら考えることができたらと思いまして、今回のブログとなりました。長文になりましたが、楽しんでもらえたらうれしいです。

アクセス

神龍寺外観2

名称 宝珠山 神龍寺
住所 〒300-0045 茨城県土浦市文京町1-27
Webサイト 曹洞禅ナビ
駐車場 あり

イラスト『神龍』

イラスト『神龍』

Illustration by 熊井くまこ

わたしは神龍寺という名前、とても好きです。ドラゴンボールが好きなこともありますが・・・神と寺の文字が一緒にあるって面白いです。神社にいるのが神様で、お寺にいるのは仏様のイメージがあるからですね。

神龍寺はやはり龍に守られているのんじゃないか。神の龍だから、もっとも格上の黄色で・・・そんなことを想像しながら、熊井さんに描いていただきました。とても神々しい龍が境内を飛び回っています。

この龍は先にご紹介した墨僊の雲龍図と梵鐘を吊るしてある天井の画を参考にしています。雲龍図は見られませんが、鐘の上の画はいつでも見れます。お寺に起こしの際には、ぜひご覧ください。

ところで、イラストの龍は炎をまとっているように見えます。龍は川や水に関わりのある存在なので、火との組み合わせは珍しいですね。でも、花火とゆかりのある神龍寺らしくて、とっても気に入っています!

それに、神龍寺は土浦の火葬の歴史にも関わっているんですよ。

おまけ 火葬場の建設

和尚と護国団の功績で、土浦市民が知っておきたいものがあります。火葬場の建設です。
土浦の市営斎場は花火大会の会場のすぐそばにあります。その場所に初めてできた火葬場は、もともと和尚率いる護国団のものでした。

土浦は大正時代まできちんとした火葬場がありませんでした。そのため伝染病でなくなった方は山などで焼いていたんです。また、土浦は大雨や利根川の逆流によって霞ヶ浦が氾濫し、たびたび水害のある町でした。水害で亡くなった方はたいへん悲しい姿だったので、和尚は火葬場の必要性を訴えていました。

1918年、そうした経緯から土浦の有力者の後援を得て、火葬場の建設を行いました。お金を集めて、敷地を購入し、最新の火葬場を建設できたのは和尚の活躍あってのことでした。なお、火葬場の管理は1928年まで護国団が行いました。以降は土浦町に譲られて、後に市営斎場となります。

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いまの斎場は昨年新しくなりましたね。ピカピカでまだ馴染みがありませんが、とても歴史的な場所にあります。

参考図書
民話100話土浦ものがたり/本堂清
土浦全国花火競技大会公式パンフレット/土浦全国花火競技大会実行委員会
沼尻墨僊/土浦市文化財愛護の会
爺さんの立ち話/阿見町