wata
- 平成29年時点の由緒(解釈)
- 神仏習合時代の跡
- 御朱印のいただき方
神仏習合(神仏混淆)。明治以前は一般的でしたが廃仏毀釈によってその多くが失われました。
それが良かったのか悪かったのかはわかりませんが、いまに残る神仏習合に出会ったときなんともいえない新鮮さを感じます。珍しくもあり、ぜひ気づいていただきたいですね。
この記事では土浦市の東光寺をご紹介します。よく見ると「あれれ?」がいくつも見つけられるので、ぜひ探してみてください!
醫王山 東光寺とは

東光寺の境内
東光寺は土浦市の大手町にある曹洞宗の寺院です。土浦駅から徒歩15分。最寄りICの土浦北からおよそ10分といったところでしょう。
駐車場は本堂の西側にありますが、わかりにくいので以下の地図を参考にしてください。
過去帳によると東光寺は慶長12年(1607年)に心庵春伝和尚によって開山しました。和尚は同市内の神龍寺の五世なので東光寺は神龍寺の末寺ということなります。
ただし、平成29年(2017年)に東光寺が発行した『新版 東光寺について』では、当寺でもっとも古い仏像が薬師如来立像(鎌倉時代後半に作)であることや山号の”醫王山”から、かつては薬師如来がご本尊と考えられるそうです。
つまり、曹洞宗ではない別の宗派の時代があったということですね。どうも真言宗のようですが、記録がないため不明です。
享保2年(1717年)、二世・享山元和尚によって中興されました。心庵春伝から100年以上経っていることから享山元和尚が開山し、勧請開山によって師(心庵春伝和尚)の名前を残したのが実際のところのようです。
ご本尊は釈迦牟尼仏です。お参りの際には「南無釈迦牟尼仏」とお唱えしましょう。
”勧請開山”とは遠慮して師の開山とすることです。師ではなく尊敬する人物の場合もあります。
辯才天堂

辯才天堂
境内に入るとまず朱色の瑠璃光殿に注目しますが、そこに向かう途中左手にあるのが辯才天堂(弁才天堂)です。小さな池に囲まれているのですぐにわかるかと思います。
いつ建てられたかは不明ですが、堂前の石灯籠のひとつには享保7年(1722年)に寄進されたとありますので、辯才天堂も同時期でしょう。建物が比較的新しく見えるのは中にある厨子と共に昭和54年(1979年)に新築されされたためです。
なんとこちらの辨才天は腕が8本あるんです!2本の腕で琵琶を持った辨才天はよく目にしますよね。8本腕は宇賀辯才天といって中世以降に辯才天と宇賀神が習合した姿です。
宇賀神は宇迦之御魂神(稲荷様)と同一視されるんですが、「宇賀」の場合は蛇神としての性格が強いようです。蛇の胴体と翁の顔を持った姿で描かれたり。。ほんと怖いんですけど。
東光寺にはこうした神仏習合時代の名残がいくつも見受けられます。難しいのでうまく説明できません。興味のある方は調べてください。そして教えてください!
乃木壽子刀自霊堂

乃木壽子刀自霊堂
もしかしたら東光寺でもっとも有名なのはこちらの霊堂(納骨堂)かもしれません。
中に安置されているのは陸軍大将・乃木希典のお母さん、乃木壽子刀自のご遺骨です。(刀自は敬称)
詳細は別記事としましたが、非常に多くの物語の込められた霊堂です。隣には壽子刀自のお父さんで土浦藩士・長谷川金太夫のお墓もあります。
ぜひ以下の記事をご覧になってからお参りされてください。
瑠璃光殿

瑠璃光殿(薬師堂)
本堂の手前にある大きな朱色の建物が瑠璃光殿(薬師堂)です。
薬師如来は”薬師瑠璃光如来”を短くしたものなので建物に「瑠璃光」とあったら薬師堂と思ってほぼ間違いありません。薬師如来が安置されています。
薬師如来は東光寺でもっとも古い仏像です。作られた正確な年代はわかりませんが、鎌倉時代後半と考えられています。
瑠璃光殿は元文4年(1749年)に建立されました。様々な記録によってそれ以前からあったことがわかっており、薬師如来も当然同時代ということですね。

瑠璃光殿の扁額
扁額は神龍寺の大寅和尚の友人である豪潮和尚が文政9年(1826)に書きました。神龍寺の本堂の扁額も豪潮和尚だそうですよ。

十二支(ねずみ)の彫刻
上部のケヤキの板には十二支が彫刻されています。ちょうど年末にお参りしたので来年の干支を探してみました。ネズミ発見!

天の邪鬼の彫刻
もうひとつの注目ポイントが天の邪鬼です。わかりにくい写真なのですが、妻虹梁に天の邪鬼がいて屋根支えているんです。どんな悪さをしたかわかりませんが、すごく辛そうです。。
本堂の2F、もしくは駐車場から見れます。これは教えてもらわないとわからないはず!?
内田野帆の歌碑

内田野帆の歌碑
瑠璃光殿の手前に2つの句碑があります。向かって左は土浦出身の俳人・内田野帆(1781-1855年)の代表句です。野帆は”土浦八景”を残しましたので、土浦の俳句の歴史には欠かせない人物です。
聲耳身越 持勢て揚る 雲雀哉
句碑は安政2年(1855年)に野帆の門徒が追善供養のために建てました。野帆はかつて東光寺で俳句を教えていましたので、門徒たちは野帆との思い出の場所に尊敬する松尾芭蕉の命日(10月12日)にあわせて建立したそうです。
土浦は江戸時代の中期辺りから町人が集まり俳句を楽しむようになりました。歴史の片鱗をのぞかせる歌碑ですね。
向かって右は野帆の書による松尾芭蕉の句です。
八九間 空傳雨降 柳加奈
俳諧を広めた超有名人。土浦には来ていていませんが、鹿島神宮には参拝したことがあるそうです。
芭蕉が没してから50年ほどしてから土浦で俳句が広がりましたから、偉大な人物として残されていると思います。
稲荷堂

稲荷堂
辯天堂に神仏習合の名残ということでしたが、稲荷堂にもあるんです。まず鳥居があることにビックリ。お寺なのに!?
そして扁額をご覧ください。読めたらけっこうすごい。荼枳尼尊天とあります。
稲荷には笠間稲荷や伏見稲荷のように神道の神をご祭神とするものと豊受稲荷のように神仏習合している2パターンがあります。
神仏習合で荼枳尼天をご祭神としている場合、信仰をおこたると少々厳しい「おしおき」が待っていることも。。だからといって人々が嫌がらないのも面白いですよね。
例えば、夏になると各地で祇園祭がありますけど元々は牛頭天王のためのお祭りです。牛頭天王は神仏習合の神。ないがしろにすると病気を振りまく困った性格なんですが、それでも多くの方に愛されていますよね。
稲荷堂にはその荼枳尼天が祀られているわけですが、どのような姿をしているのかはぜひ実際にご覧ください。非常にユニークなお姿です!
稲荷堂と荼枳尼天像は平成28年(2016年)に新築されました。稲荷堂自体はそれ以前からありましたので、荼枳尼天がどんな姿だったか見てみたかったなぁ。。
wata
本堂
境内の一番奥にある建物が本堂です。すみません。なぜかカメラに写真データがないっ!
平成14年(2002年)に竣工。1Fの納骨堂が鉄筋コンクリート製で2Fの本堂が木造入母屋造・銅板葺です。
一般の方はほとんど中に入ることはないでしょう。奥の中央にご本尊の釈迦牟尼仏が安置され、向かって右に文殊菩薩、同じく左に普賢菩薩が並んでいます。釈迦三尊ですね。
釈迦牟尼仏は本堂とあわせて新たに作られました。それ以前のご本尊である宝冠阿弥陀如来像は納骨堂に安置されています。
東光寺は長い歴史の中でいくつもの変化を見て取ることができます。背景を想像しながらですとより深いお参りができるかと思いますので、ぜひお試しください!
御朱印

東光時の御朱印
東光寺の御朱印です。御朱印料は300円。
わたしはお掃除中のご住職に直にお声掛けしていただいたのですが、本来は本堂の1Fからかと思います。
ご住職には大変親切にしていただきました。またのんびりとお参りしたいですね♪
アクセス
名称 | 醫王山 東光寺(曹洞宗) |
---|---|
住所 | 茨城県土浦市大手町3-14 |
駐車場 | あり |
まとめ
この記事のまとめ
- 寺の由緒は過去帳にあるものより古いかも知れない
- 境内の辯才天堂と稲荷堂は要チェック
- 御朱印は本堂1Fから声掛け
参考文献
新版 東光寺について/醫王山 東光寺
寺院巡りにどうぞ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。