醫王山 東光寺と乃木壽子刀自の霊廟|土浦市

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この記事でわかること
  • 東光寺に乃木希典の母のお墓がある理由
  • 乃木希典と両親の関係

”乃木大将”こと乃木希典のぎ まれすけをご存知でしょうか。大日本帝国の陸軍大将です。清廉潔白で勇猛果敢。尊敬できる偉大な人物だと思います。

学習院の院長を務めたこともあって軍人以外の面でも多くの方に親しまれました。その功績や人柄については後に学校の教科書でも紹介されたほど。日本人の心に響くものがあったのでしょう。”乃木神社”や”乃木坂”に名前が残っていることでもわかります。

そのお母さんのお墓(正確には納骨堂)が土浦市の東光寺にあります。もちろん本物。土浦市民でも知らないと思いますのでご紹介します。

なぜ東光寺にお墓があるのか

東光寺入口

東光寺入口

東光寺は土浦市にある曹洞宗のお寺。慶長12年(1607年)に心庵春伝しんあんしゅんでんによって開かれたといわれます。開山については諸説にあるのですが、由緒については別の回といたしましょう。

大きな疑問からお答えしましょう。なぜ乃木希典のお母さんのお墓が土浦市にあるのか。土浦出身なのでしょうか。

それはYesともNoとも言えません。いきなり曖昧な答えでゴメンナサイ。本当にそうなんです。お母さんの壽子ひさこは、文政11年(1828年)に土浦藩士・長谷川金太夫の長女に生まれ、江戸(神田)の土浦藩の屋敷で生活していました。いまの土浦市にいた記録はありません。

お父さんの金太夫は六両二人扶持の足軽。江戸に付いてくるほどなので藩主に信頼されていたと思いますが。。あまり素行がよろしくないことから土浦(城北町)に送り返されました。

東光寺にお墓があるのは、実家の菩提寺が東光寺で当時の住職(二十三世松井泰禅大和尚)が別の場所にあったお墓から分骨したためです。もとあったお墓が区画整理される恐れがあったことも理由でしょう。

乃木希典の母の霊廟

乃木希典の母の霊廟

壽子の遺骨が安置されたお墓です。お寺を正面から入り、瑠璃光殿に向かって左手に父・金太夫のお墓と並んであります。御影石と鉄筋コンクリートを使った六角堂です。昭和12年に竣工されました。

正式名称は乃木壽子刀自とじ霊堂。刀自は年配の女性に対して敬愛を込めて使い、名前の下につけた場合は敬称となります。

見るからに立派。淡い色合いなので優しい雰囲気がしますね。余談ですが、現在のご住職の名前の”壽”は壽子刀自からいただいたそうです。

霊堂の扁額には「母徳亀鏡」と書かれています。「世の母親の手本となった」という意味でしょうか。陸軍大将で第33代内閣総理大臣・林銑十郎の書です。

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娘の壽子は一緒に土浦に来ていないと思われます。江戸で乃木希次(希典の父)と知り合っていますし、そのご縁は藩主の一声。壽子は藩主の信頼を得ていて、ずっと江戸にいたのではないでしょうか


参考
長谷川三太夫の墓と刀自霊堂常陽リビング

乃木希典の母について
  1. 土浦”藩”出身だが土浦市に来ていないかもしれない
  2. 壽子と家族は江戸の土浦藩主の屋敷で生活していた
  3. 東光寺にお墓があるのは、実家の菩提寺であるため

乃木希典の母、壽子とは

乃木希典の功績といえば?悩みますが日露戦争の旅順要塞の攻略『明治天皇の信頼が厚く、昭和天皇の教育をしたなどがあげられるでしょうか。幕末から明治の終わりまで数々の戦争(国内含む)に参加していることも重要です。

政治は苦手とされるのは生粋の軍人のため。学習院院長はよい評価もありますね。幼いころに学者を目指していたのでその想いが溢れたのかもしれません。

こんな感じで脱線しがちですが、土浦市ゆかりの人物として乃木壽子のご紹介に戻ります。

夫・希次と江戸追放

乃木希次と乃木壽子

乃木希次と乃木壽子

夫・乃木希次と知り合うまでは前にご紹介したとおり。希次とはどんな人物だったのでしょうか。希次は代々医者として藩主(毛利長府藩)に仕える家系でした。しかし、武士への想いが強かったので16歳で武士になることを藩庁に願い出ました。そして武道の技術とその心得によって登用試験に合格したのです。

希次への嫁入りは20歳のとき。希次は45歳でした。希次はすでに結婚していましたが奥さんと子供を亡くしていました。

壽子との間に生まれた希典(1849年生)には大変な喜びだったことでしょう。壽子と希次の間には希典の前に男の子が生まれましたが、すぐに亡くなったこともあると思います。

希典は大切に育てられましたが、いわゆる虚弱体質で泣き虫でした。そのため父からはスパルタ教育を受けていました。そうして希典は次第に強靭な男に。。なる前に、乃木家に大きな不幸が訪れました。

希典が10歳のとき、希次が江戸から追放されてしまったのです。藩主・毛利元周もとちかへの発言が問題でした。

希次が元周へ言ったことは「藩主の座を譲ってはどうか」。元周の前の藩主は叔父の元運もとゆき、藩主はその子どもがふさわしいということです。そのときの元敏の年齢は10歳。元周の政治に大きな問題はなく、元敏の元服まで5年もありました。正論かもしれませんがそれを言ってしまうと。。

希次は長府藩士でしたが、ずっと江戸で生活しているので長府に家はありません。追放されると仕方なく長府に戻りましたが、家族揃って野宿するしかありませんでした。善意で宿を提供してもらったりして、なんとか小さな借家を見つけると、そこでの極貧生活が始まりました。(禄高が1/3になりました)

生活は江戸で下働きさせていた男に仕事を紹介してもらうほどですが、希次は受け入れませんので壽子が内緒で希典(当時は無人)と一緒に働いて生計を助けていました。母は強し!

その後、希次が仕事に復帰し少しずつ家庭は安定していきます。

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希次は非常に堅い性格だったので藩内でも煙たがれていたとも。その性格が後に家族を巻き込むことにつながります。

希典の思想には母の影響が強かった

乃木希典肖像

乃木希典肖像

乃木希典は武芸に優れた父親がいたので、その薫陶を。と思いがちですが、そうではありませんでした。希典自身は以下のように語っています。

世間の人は、子は多く父に依って、薫陶されたやうに思つて居るらしいが、之れには誤りである。それと云ふのは、父は職業柄、常に不在勝ちであつたから、実は多く母に依つて成人したのである。彼の太平記、太閤記、或いは赤穂浪士譚や曽我物語は大抵母から授けられたものである。
「日清」から台湾総督へ(佐々木克明)乃/木希典特集=日露戦争の全貌

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希典は軍人になる以前は学者を目指していました。転向は母の教育があったのかもしれません

壽子の最期

希典と妻、母が台湾に渡った際の写真

希典と妻、母が台湾に渡った際の写真

壽子は意外ともいえる場所で亡くなりました。台湾です。当時は日本の領土で希典が台湾総督を任されたことによります。明治29年(1896年)、希典47歳、壽子68歳でした。

当時の台湾は高齢者が生活するには厳しい環境でした。マラリアが流行しており感染すると命の危険がありました。そのため希典は同伴者を妻だけにつもりでした。しかし、壽子の「せがれの側で死ねるなら思い残すことはない」という願いを聞き入れ共に台湾に渡りました。

台湾に渡ったわずか40日後、壽子はマラリアに感染して死去。もともと腎臓が弱くなっていたので覚悟の上だったかもしれません。遺体は壽子の遺言にしたがって台北に埋葬。墓標には「乃木夫人長谷川壽子の墓」側面には「乃木希典建立」と刻まれました。

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ほとんど知らない土地に埋葬して欲しいと願ったのは息子が統治していたからでしょう。東光寺にある遺骨はもともと台湾にあったもの。台湾から東光寺にお参りに来る方がいるのはそうした理由からです

アクセス

名称醫王山 東光寺(曹洞宗)
住所茨城県土浦市大手町3-14
駐車場あり

まとめ

この記事のまとめ

  • 乃木希典の母親のお墓は土浦にあるが、住んでいたかは不明
  • 乃木は母親の教育の影響を大いに受けた
  • 母親は台湾で亡くなっている

参考文献

新版 東光寺について/醫王山 東光寺
民話100話 土浦ものがたり/本堂清
乃木希典/プレジデント社