2月21日(水)『茨城に美人はいない都市伝説』(常陸太田市)の記事を公開しました。次回更新は2月24日(土)の予定です。

陸軍大将・乃木希典の母の霊廟は土浦の東光寺にあり(土浦市)

乃木希典の母の霊廟

『乃木大将』こと乃木希典のぎ まれすけをご存知でしょうか。大日本帝国時代の陸軍大将です。清廉潔白で勇猛果敢。尊敬できる偉大な人物だと思います。

学習院の院長を務めたこともあって、軍人以外の面でも多くの方に親しまれました。亡くなったあとは、学校の教科書でも紹介されたほどです。日本人の心に響くものがあったのでしょう。『乃木神社』や『乃木坂』に名前が残っていることでもわかります。

そのお母さんのお墓(正確には納骨堂)が土浦市の東光寺にあります。もちろん本物です。土浦市民でも知らないと思いますが、『民話100話 土浦ものがたり』にありました。そちらの内容を補足しながらご紹介します。

なぜ東光寺にお墓があるのか

東光寺入口

東光寺は土浦市にある曹洞宗のお寺です。1607年に心庵春伝しんあんしゅんでんによって開かれたと云われます。由緒正しきお寺ですが、今回のお話とは特に関係がありません。立派なお寺のご紹介は別の回でします。

大きな疑問からお答えしましょう。なぜ、乃木希典のお母さんのお墓が土浦市にあるのか。土浦出身なのでしょうか。

それはYesともNoとも言えません。いきなり曖昧な答えでゴメンナサイ。でも、本当にそうなんです。なぜなら、お母さんの寿子ひさこは、土浦藩士・長谷川金太夫の長女に生まれ、江戸(神田)で生活していたからです。いまの土浦市にいた記録はありません。生まれた年は1828年。住んでいたのは江戸の土浦藩主の屋敷でした。

お父さんの金太夫は六両二人扶持の足軽でした。江戸に付いてくるほどなので、藩主に信頼されていたと思いますが・・・あまり素行がよろしくないことから、土浦(城北町)に送り返されてしまいました。

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しかし、娘の寿子は一緒に土浦に来ていないと思われます。江戸で乃木希次(希典の父)と知り合っていますし、そのご縁は藩主の一声です。寿子は藩主の信頼を失っておらず、ずっと江戸にいたのではないでしょうか。

乃木希典の母の霊廟

寿子の遺骨が安置されたお墓です。父・金太夫のお墓と並んであります。見るからに立派です。淡い色合いなので優しい雰囲気もします。

東光寺にお墓があるのは、実家の菩提寺が東光寺で、先代の住職が別の場所にあったお墓から分骨したためです。もとあったお墓が区画整理でなくなる恐れがあったことも理由でしょうか。

常陽リビングが記事にしていますのでご覧ください。

参考

長谷川三太夫の墓と刀自霊堂常陽リビング

MEMO
  1. 乃木寿子は土浦藩出身だが土浦市に来ていないかもしれない
  2. 寿子と家族は江戸の土浦藩主の屋敷で生活していた
  3. 東光寺にお墓があるのは、実家の菩提寺であるため

乃木希典の母、寿子とは

『乃木希典の功績といえば?」。。。悩みますが『日露戦争の旅順要塞の攻略』や『明治天皇の信頼が厚く、昭和天皇の教育をした』などがあげられるでしょうか。幕末から明治の終わりまで数々の戦争(国内含む)に参加していることも重要です。

政治は苦手だったとされますが、生粋の軍人なので無理があります。でも、学習院院長はよい評価もありますね。幼いころに学者を目指していたので、その想いが溢れたのかもしれません。

と、こんな感じで脱線しがちですが、土浦市ゆかりの人物として乃木寿子のご紹介に戻ります。

夫・希次と江戸追放

乃木希次と乃木寿子

夫・乃木希次と知り合うまでは前にご紹介したとおりです。では、希次とはどんな人物だったのでしょうか。希次は代々医者として藩主(毛利長府藩)に仕える家系でした。しかし、武士への想いが強かったので、16歳で武士になることを藩庁に願い出ました。そして、圧倒的な武道の技術とその心得によって登用試験に合格したのです。

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ただし、非常に堅い性格だったので、藩内でも煙たがれていたとも。。。その性格が後に家族を巻き込むことにつながります。

希次への嫁入りは20歳のとき。希次は45歳でした。希次はすでに一度目の結婚をしていました。ただ、奥さんがすでに亡くなれていて、生まれた子もすぐに亡くなってしまったんです。

ですから、寿子との間に生まれた希典(1849年生)には大変な喜びであったことでしょう。寿子と希次の間には希典の前に男の子が生まれましたが、すぐに無くなったこともあると思います。

希典は大切に育てられましたが、いわゆる虚弱体質で泣き虫でした。そのため、父からはスパルタ教育を受けていました。そうして希典は次第に強靭な男に・・・なる前に、乃木家に大きな不幸が訪れました。希典が10歳のとき、希次が江戸から追放されてしまったのです。藩主・毛利元周もとちかへの発言が問題でした。

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希次が元周へ言ったことは「藩主の座を譲ってはどうか」でした。元周の前の藩主は叔父の元運もとゆき、藩主はその子どもの元敏もととしがふさわしいということです。ただし、そのときの元敏の年齢は10歳。元周の政治に大きな問題はなく、元敏の元服まで5年もありました。正論かもしれませんが、嫌われるでしょうね。。。

希次は長府藩士でしたが、ずっと江戸で生活しているので長府に家はありません。追放されると仕方なく長府に戻りましたが、家族揃って野宿するしかありませんでした。善意で宿を提供してもらったりして、なんとか小さな借家を見つけると、そこでの極貧生活が始まりました。(禄高が1/3になりました)

生活は江戸で下働きさせていた男に仕事を紹介してもらうほどでした。とはいえ、希次は受け入れませんので、寿子が内緒で希典(当時は無人)と一緒に働いて生計を助けていました。母は強しです!

その後、希次が仕事に復帰し、少しずつ家庭は安定していきます。

希典の思想には母の影響が強かった

乃木希典肖像

乃木希典は武芸に優れた父親がいたので、その薫陶を・・・と思いがちですが、そういうわけではありませんでした。希典自身は以下のように語っています。

世間の人は、子は多く父に依って、薫陶されたやうに思つて居るらしいが、之れには誤りである。それと云ふのは、父は職業柄、常に不在勝ちであつたから、実は多く母に依つて成人したのである。彼の太平記、太閤記、或いは赤穂浪士譚や曽我物語は大抵母から授けられたものである。
「日清」から台湾総督へ(佐々木克明)乃/木希典特集=日露戦争の全貌

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希典は軍人になる以前は学者を目指していました。転向には時代背景の他に母の教育があったのかもしれません。

寿子の最期

希典と妻、母が台湾に渡った際の写真

寿子は意外ともいえる場所で亡くなりました。台湾です。当時は日本の領土で、希典が台湾総督を任されたことによります。1896年、希典47歳、寿子68歳でした。

当時の台湾は高齢者が生活するには厳しい環境でした。マラリアが流行しており、感染すると命の危険がありました。そのため、希典は同伴者を妻だけにつもりでした。しかし、寿子の「せがれの側で死ねるなら思い残すことはない」という願いを聞き入れ、共に台湾に渡りました。

台湾に渡ったわずか40日後、寿子はマラリアに感染して死去しました。もともと腎臓が弱くなっていたので、覚悟の上だったかもしれません。遺体は寿子の遺言にしたがって台北に埋葬されました。墓標には「乃木夫人長谷川寿子の墓」側面には「乃木希典建立」と刻まれました。

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寿子がほとんど知らない土地に埋葬して欲しいと願ったのは、息子が統治していたからでしょう。東光寺にある遺骨はもともと台湾にあったものです。台湾から東光寺にお参りに来る方がいるのはそうした理由からです

まとめ

乃木希典の母・寿子のお墓が土浦市の東光寺にあるのは事実です。でも、実際に住んでいたかどうかは不明です。

ただ、せっかくお参りできますので、その生涯に思いを馳せながら足を運んでみるのもいいのではないでしょうか。

アクセス

名称 東光寺(曹洞宗)
住所 〒300-0044 茨城県土浦市大手町3−14
駐車場 あり

参考図書
民話100話 土浦ものがたり/本堂清
乃木希典/プレジデント社