桓武天皇勅願 朝望山 東城寺(土浦市)

無住職の東城寺とうじょうじですが、本堂の中でお参りできることがわかりました。

流鏑馬で有名な土浦市の日枝神社。以前、由緒を調べたとき、同じ新治地区にある東城寺の鎮守であることを知りました。それをきっかけになんどか足を運んだことがあるのですが、無住職でちょっと寂しい印象。。

でも、じつは毎週短い時間ですがお堂を開放しています。非常に歴史のある古刹なので、機会を狙ってお越しいただきたいです。1997年(平成9年)の不審火によってお堂が焼失してしまいましたが、2004年(平成16年)に再建されましたよ!

この記事では旧新治地区の東城寺をご紹介します。御朱印についてもありますので、ぜひ足を運ぶ際にお役立てください!

朝望山 東城寺とは

日曜日に開放される本堂

日曜日に開放される本堂

朝望山 東城寺は土浦市の旧新治地区にある真言宗のお寺。住所はお寺と同じ『東城寺』。

東城寺は桓武天皇の勅願寺。命を受けた天台宗の開祖 最澄が弟子の最仙を派遣して796年(延暦15年)に開山しました。当時のご本尊は薬師如来象です。山号の『朝望山』は『朝廷を望む山』の意味で鎮護国家の思想が含まれているといわれます。

隆盛を極めた東城寺でしたが次第に衰退。それを広智上人が再興しました。その後、東城寺は小田氏の影響で真言宗に改宗となるのですが、広智上人伝説や坐像(県指定文化財)が残っており関係の深さを伺えます。

境内の石碑によると戦国時代に織田信長についた佐竹氏と東城寺の僧兵が争いました。信長と比叡山(天台宗の総本山)の関係によるのでしょう。僧兵は敗れて多くの亡骸がこの地に葬られたそうです。

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近くの日枝神社(正一位山王大権現)は東城寺によって建立。比叡山の鎮守が日吉大社であるように、東城寺の鎮守として建てられました
MEMO
東城寺の名称は1722年以降です。開山時の名称は『薬師寺』でその後は東成寺でした。東成寺への改称は土浦藩主 土屋陳直のぶなおから「土」の字を賜ったといわれます。

山門

公共交通機関で東城寺を訪れることは困難です。車なら土浦北IC15分程なので気軽に行けると思います。ICを下りたら125号を筑波山方面に進んでください。

山門

山門

東城寺の山門です。『足』の部分には仁王像があるそうですが、車を路上に停めていましたので、そこまで確認できず。。扁額には山号ではなく『東城寺』。屋根には巴紋がありました。お寺というより神社っぽいです。

険しい山道

険しい山道

山門付近に駐車場はありませんので、山門の左側から回り込んで山を登ってください。山を切り開いた道路ですので途中に土砂があるかも。。すれ違いも困難なので徐行でお願いします。

石段

石段

石段

いきなり境内前の駐車場に行けるのですが、この石段はぜひご覧になって。。いや、実際に登っていただきたいです!

東城寺のもっとも歴史を感じる場所だと思います。なぜ暗いのか?それはわざわざ雨の日に撮影したからです。わたしが東城寺を知ったのはとある写真家の展示でした。この写真のように暗がりで雨に濡れた様子で美しくて感動したんです。

悠久の石段。おそらく人力で運ばれてきて、なんの加工もせず平らに並べたのでしょう。凸凹していますが、これでも大昔はかなり苦労したと思います。

実際に登ってみると思いの外安定していてぐらつくことはありません。苔で少し滑るのは注意ですが、まさに東城寺の歴史を踏みしめることができるのでオススメ!

境内

石段を登った先の境内

石段を登った先の境内

石段を登りきると本堂のある境内です。山に位置していて周囲に民家のないお寺なので電線がほとんどありません。

庭園のたぬき

庭園のたぬき

小さな池と草花があって庭園のようです。座ってくつろげるようにイスも用意されていますので参拝者を待っているんですね。

本堂

本堂

手水舎で清めたら本堂へ。ご覧の本堂は再建されてピカピカ。不審火はとても残念でしたが、信仰のある方々がこうして歴史をつなごうとしていますので応援したいです。

かつてのご本尊は火事によって焼失したので、現在は奉納された薬師三尊像が安置されています。手前に真言の書かれた案内がありましたので、3回唱えさせていただきました。

本堂の中をご覧になった方は少ないと思います。日曜日の午前中であれば役員の方々がいらっしゃるのでご本尊を前にお参りできます。時間は9:00〜12:00の予定ですが、都合によって不在の場合も。また農繁期は時間を短くするそうです。

MEMO
開山時、この場所には薬師堂があって東城寺は裏山にあったそうです。それを広智上人が移動して再興させました。

梵鐘

梵鐘

梵鐘

梵鐘は撞いていただいて大丈夫です。役員の方からも勧めていただきました。階段を登ると撞き方を説明する張り紙までありますよ♪

製造された年代などはありませんでしたが、天女の画がありましたので桜川市の小田部鋳造の作かと思います。

強すぎず、弱すぎず。。ふだん経験しないので力加減が難しいのですが、なんとか「ごぉぉぉぉ〜ん」といい音色を響かせることができました。ちょっと弱めだったかな?

本来、梵鐘は時間を知らせるために撞くものです。東城寺の場合は参拝を知らせる役割になっているようですね。

納経塚

納経塚の案内

納経塚の案内

東城寺の数ある文化財のうち特に珍しいのが納経塚です。

本堂の裏側に通路がありまして少し上れば12箇所の塚があります。雨の日の写真ですみません。。足元が悪く傾斜もきついので、ふつうの人は晴れた日に訪れてください。

納経塚

納経塚

経塚について県教育委員会から引用します。

東城寺薬師堂の裏山に経塚群跡、452㎡があります。
 明治33年(1900)、それを実証する2筒の経筒が出土しました。
 この経塚は大小12基の塚からなり、出土した筒には保安3年(1122) 8月18日銘のものと、天治元年(1124)11月12日銘のものがあります。そのことから12世紀初期に築かれたものといえるでしょう。
 出土品は、銅製経筒6個、銅製蓋2個、和鏡10面、銅製花瓶2個、銅製小皿、ガラス玉等です。
東城寺経塚群/茨城県教育委員会

納経塚には経文を入れた筒が埋められていました。大切なお経を後世に伝える善行によって極楽浄土を願ったといわれています。

それだけ世が乱れていたことを意味しています。埋められたのは平安時代末期。貴族の支配が崩れて武士が台頭しました。仏の教えが伝わらない末法の世といわれる時代です。

納経の施主は平致幹たいらのむねもとです。いまのつくば市にあった多気城の城主で広大な領地を持っていました。筑波・真壁・新治・猿島・北相馬・東茨城・鹿島・鹿行。。

広すぎですよね。それもそのはず。致幹の血筋をさかのぼると平将門を討った平貞盛に行き着きます。貞盛は将門を討った後、この地の支配を弟の繁盛に任せました。その繁守の子孫が致幹なんです。

東城寺の歴史を辿ると当時の勢力を垣間見れて面白いですね。

御朱印

東城寺の御朱印

東城寺の御朱印

東城寺の御朱印です。書き置きといいますか、コピーされたものです。御朱印料は300円。

この御朱印をご存知の方はほとんどいないでしょう。日曜日の午前中(9:00〜12:00頃)に境内で役員の方からいただけます。ただし、農繁期は不在だったり、滞在時間が短かったりしますので行くなら早めに。

まさか御朱印があって、しかもいただけると思っていませんでした。本堂を再建したのは信仰や歴史を将来に伝えていくため。御朱印もそのうちのひとつなのでしょう。

条件は少々難しいですが、「いただけたらラッキー」くらいの感覚で足を運んでみてください♪

アクセス

名称朝望山 東城寺(真言宗豊山派)
住所茨城県土浦市東城寺650
駐車場あり
Webサイト意外と○○!つちうら

まとめ

朝望山 東城寺は土浦市の新治地区のお寺。無住職ですが、お参り可能で御朱印をいただくことができます。

歴史を辿ると土地について多くの発見があると思います。郷土史にもよく登場しますのでぜひ調べてみてください。

メモ

土浦の民話に以下のような説がありました。ご参考に。

東城寺関係メモ
  1. 筑波四面薬師のひとつとして大きな勢力を持っていた。残りの3つは薬王院(桜川市)、小幡山寺(石岡市)、小桜菖蒲沢東光寺(石岡市)
  2. 筑波山の中禅寺の徳一上人は密教を邪教としており、天台宗を布教できなかった。しかし、最澄は常陸国司の平大掾が天台宗だったことを利用した。派遣された最仙は真壁郡関本の出身だったことも関係している。
参考図書
新治村の昔ばなし/著:伊藤三雄
民話100話 土浦ものがたり/著:本堂清

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