大雄山 法雲寺〜復庵和尚の伝説|土浦市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

日本で禅宗を広めた偉人のお寺が新治地区にありました!

高岡の法雲寺には驚くような歴史が残されていました。個人的には復庵ふくあん和尚の逸話に注目。もはや空海とか親鸞並の法力があったとしか。。

この記事では高岡の法雲寺の歴史や逸話をご紹介します。小田氏ゆかりのお寺ですが、小田氏の滅亡後も栄えており特別な地位だったことが伺えます。

法雲寺外観
法雲寺外観

由緒

高岡の法雲寺について境内の由緒から引用します。

 大雄山 法雲寺は、復庵宗巳ふくあん そうきによって創建された。はじめ楊阜庵ようふあん、ついで正受庵しょうじゅあんとよばれ、文和三(1354)年に法雲寺と号された。法雲寺は鎌倉時代から戦国時代に常陸国南部で勢力を有した小田氏ゆかりの寺院である。
 復庵は元(中国)に渡り中峰名本ちゅうほう みょうほんに学んだ。帰国した復庵の教えは多くの崇敬者を生み、小田氏以外の佐竹氏、結城氏なども復庵を招いて寺院を建立している。法雲寺は中国の最先端の禅と文化を北関東にもたらした古刹といえる。

法雲寺の文化財/土浦市教育委員会

もと臨済宗中峯派の大本山。かつては関東、奥羽に300の末寺があったとか。禅の厳しい精神鍛錬と質素な考え方が武士の気風に合っていたためといわれています。

小田氏と佐竹氏は対立していました。しかも復庵和尚は小田の血筋だったのに佐竹氏から排斥されなかったんですね。それどころか寺院の建立のために招かれています。

復庵和尚は非常に多くの伝説を残しているスゴイ僧侶なんです。ただ、格式や名誉が苦手な和尚は後光厳天皇や足利尊氏の上洛の招きを病気などを理由に断ったといわれています。応じていたら歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

文化財一覧

昭和24年(1949年) 絹本著色高峰和尚像絹本著色復庵和尚像(附絹本著色中峰和尚像)(いずれも国指定)
昭和43年(1968年) 絹本著色釈迦涅槃像 紙本著色小田政治肖像画 (室町)紙本著色小田氏治肖像画銅造 阿弥陀如来立像木造 中峯禅師坐像紺紙金泥大般若波羅密多経法雲寺文書 書跡一括(すべて県指定)
昭和44年(1969年) 青磁三階塔棕毛払子竹繊払子(すべて県指定)
昭和49年(1974年) 石造宝筐印塔、石造五輪塔
昭和50年(1975年) 石造六字名号板碑(市指定)
昭和51年(1976年) 中峰和尚と復庵和尚の墓、石像阿弥陀種字板碑、禅版(いずれも市指定)
昭和53年(1978年) 絹木著色草座釈迦像、絹木著色観世音菩薩像(いずれも市指定)
昭和55年(1980年) 伝後光厳天皇宸筆、法雲寺庭園、絹木著色渡唐天神立像、絹木著色雪伝肖像画、(すべて市指定)
昭和62年(1987年) 石造湯殿山時念仏供養板碑

アクセス

名称大雄山 法雲寺
住所茨城県土浦市高岡1890
駐車場あり
Webサイト意外と○○!つちうら

境内

法雲寺は土浦の合同庁舎前の125号を新治方面に直進し、高岡の交差点を左折すると右側に入口が見えます。入口の目印は『高岡根農村集落センター』です。

ゆるい上り坂の先には古くて重々しい境内。駐車場は山門の隣にあります。

山門(勅使門)
山門(勅使門)

山門とは別に(ご住職宅用?)門があるので勅使ちょくしともいいます。足場がコンクリートになっていて比較的新しいですよね。近年、再建したと思います。

山門の扁額
山門の扁額

扁額はかつてのままのようです。色あせが激しいですが、もともと真っ黒で重厚だったのでしょう。周りには菊花紋が見えます。後光厳天皇と東山天皇の勅願寺だった歴史を伺えます。

参道の梅
参道の梅

参道の土は柔らかくて苔が生えていました。ふかふかしているので少し歩きにくいのですが、植えられた梅の木にとっては心地よいかもしれませんね。

訪れた際は雨風で葉が散らばっていましたが、ふだんは職人によって整備された美しい境内かと思います。庭園として新治村の名勝に登録されています。(昭和55年)

手水鉢
手水鉢

手水鉢を見ると三つ葉葵。徳川家ゆかりの紋ですね。法雲寺は江戸時代の末期まで無本寺格でした。無本寺格は宗派が誕生する前からある場合につけられます。大本山は分類できないからでしょう。その頃までは勢力も大きかったということでしょうか。

本堂
本堂

立派な本堂です。正面にいくつかある立て札は当寺の寺宝を解説しています。ただ、これではとても足りないほど当寺の寺宝は豊富です。

この本堂の裏には歴代のご住職のお墓が並べられています。指定文化財になっている復庵和尚や中峰和尚のお墓はその後部の少し高い地にあります。

正面の彫刻は瑞鳥として知られる山鵲さんじゃくでしょうか。尾が数本に分かれて長い特徴から尾長鳥とも呼ばれます。二匹描かれていますから雌雄なのかもしれませんね。

正受庵

正受庵の石段
正受庵の石段

法雲寺の前に建てられた正受庵は本堂の左手にあります。ちょっとした石段を上ると釈迦如来像と正受庵が見えます。古い建物ですが、さすがに創建時をそのままではありません。

正受庵と釈迦如来像
正受庵と釈迦如来像

1330年(正慶元年)に小田治久が建立した楊阜庵は中峰和尚の十三回忌で正受庵と改称されました。さらに中峰和尚の追善供養をしてから法雲寺に改称。

復庵和尚がいかに師を大切にしていたかがわかりますね。

かけこみ寺

法雲寺は明和の時代(1764年〜)以降、庶民の『かけこみ寺』だったといわれます。せっぱつまった者たちが僧侶になることで町奉行から罰を受けずに済みました。いわゆる治外法権が許されたんです。

それができたのは町奉行が寺社を罰することができなかったためです。寺社を罰することができるのは寺社奉行のみ。格式の高い法雲寺は寺社奉行から特別な扱いを受けていました。

庶民の罪としては女性の堕胎や役人への暴行などがあったそうです。飢饉によって生活が困窮するなど、やむをえない事情で罪を犯してしまった庶民は法雲寺によって守られることがありました。

御朱印

法雲寺の御朱印(聖観音)
法雲寺の御朱印(聖観音)

法雲寺の御朱印です。

法雲寺の御朱印は3種類。聖観音、薬師如来、延命地蔵尊です。左上にある後光厳天皇勅願所、東山天皇御願再興の印は聖観音の御朱印だけです。

本堂の右手の客殿から声をかけていただきました。

民話『復庵和尚の法力』

復庵和尚の圧倒的な法力が民話になっております。次のようなものです。

 復庵和尚の法力は時がたつにつれて益々知れ渡るようになった。次第に東関東のみならず奥州の安積、伊達等の大名からも帰依するものが現れたという。

 ある秋のこと。法雲寺の境内で僧たちが落ち葉を燃やしていた。それを客殿で見ていた和尚はおもむろに桶で水をすくい口に含むと、煙の立つ落ち葉に近づいた。

 そして自分の背丈よりも高い位置にある煙にバッと勢いよく噴き出した。なんどか繰り返したのち、ある僧が「なにをされているのですか」と尋ねると、和尚は「京都の火事を消しておいた」といいました。

 僧たちにわかるものはいませんでしたが、数日後、京都の東福寺の火事が、急に降り出した雨によって消されたという知らせがありました。

 僧たちは一斉に納得し、和尚の人知を超えた法力に感動しました。

まさに圧倒的!水戸の六地蔵寺でも同様のお話がありましたので、関係性が気になりますよね〜。

wata

法雲寺にはこれとは別に『雷鳴石』の伝説がありますが、実際に足を運んだところ石を発見できませんでした。山門の近くにあるそうですが、再建の際に移動したのでしょうか?

フォトギャラリー

まとめ

高岡の法雲寺は法力の名高い復庵が創建。天皇陛下の勅願寺として多くの信仰の歴史があります。

復庵和尚本人にもさまざまな逸話や伝説が残されており、かつて大本山だった格式の高さと権威を伺えます。

参考文献

民話100話 土浦ものがたり|著:本堂清
新治村史|新治村史編さん委員会
新治村の昔ばなし|著:伊藤三雄