特攻隊員が青春を過ごした阿見町★予科練平和記念館でその心に触れてみた(阿見町)

予科練平和記念館正面

私が住む土浦市はカレーでまちおこしをしています。有名なのはツェッペリンカレーといって、土浦の名産品であるれんこんの入ったカレーです。

ツェッペリンカレー

なぜ、ツェッペリン?そしてカレー?つちうらカリー物語のWebサイトから引用します。

1929年(昭和4年)、当時世界最大級のドイツの大型飛行船ツェッペリン伯号が世界一周の途中、土浦に飛来した際に、飛行船の乗組員に土浦ならではの食材を使ったカレーを振る舞って歓迎したという歴史があります。
こうしたことから、平成16年「食のまちづくり検討委員会」を組織し、市内飲食店等の協力を得てカレーによる食のまちづくりの取り組みがスタートしました。  引用元:土浦カリー物語

土浦の歴史をもとに町おこしをしているわけです。(当時の『土浦ならではの食材』は、じゃがいもです)

ところで、ツェッペリン号はどこに飛来したのでしょうか。それは霞ヶ浦かすみがうら飛行場です。飛行場は土浦でなく、いまの阿見町にありました。たくさんある飛行場から霞ヶ浦飛行場が選ばれた理由は、第一次世界大戦でドイツから得た飛行船用の巨大格納庫があったこと、風が穏やかで着陸しやすかったことなどがあります。

現在、霞ヶ浦飛行場は存在しません。飛行場には霞ヶ浦海軍航空隊がいましたが、戦争で戦闘機に乗って戦う任務なので、敗戦によって組織も飛行場も解体となりました。しかし、航空隊の歴史はなくなったわけではありません。現在は航空隊に入隊する前に基礎訓練を行っていた予科練よかれんのあった敷地に、予科練平和記念館が建ってその歴史を語り継いでいます。

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ちなみに、阿見に海軍がやってくることによって、土浦では飲食店の集団移転が行われました。桜町一帯ができあがったのはこの時期で、海軍関係者が休日を過ごす場所でした。土浦には海軍を支える町として発展した歴史があります。

カレーの話からだいぶ変わりましたが、予科練平和記念館で土浦と阿見の戦史に触れてきたのでご紹介します。先にお断りしますが、館内は撮影禁止です。そのため内部の写真はありません。建物周辺を散策しながら、記念館で知ったことを書いていきます。

予科練平和記念館は戦史を知り、平和を考える場所

予科練は海軍飛行予科練習生かいぐんひこうよかれんしゅうせいを省略した呼び方です(その制度を指すこともあります)。予科練生は卒業後に正式なパイロットとして航空隊に配属されて、戦中に飛行機(戦闘機含む)に乗る役割を担います。

ですが・・・結果的に特別攻撃隊(特攻隊)として命を落とす若者がたくさんいました。とても悲しいことなので積極的に語られませんが、その土地に住んでいてまったく触れないし知らない、というのも奇妙なことですよね。

予科練平和記念館正面

予科練平和記念館外観

記念館の外観です。近代的なデザインだと思います。なぜこの形なのでしょうか。調べてみたら、記念館のWebサイトに理由がありました。

館を上からみるとでこぼこしています。世界地図に描かれている大陸と海をイメージしてデザインされているからで、予科練平和記念館のマークにもなっています。
また、館内のどこにいても予科練生たちがあこがれた空が見えるように、まどがたくさんあります。ここからみえる空は、昔予科練生たちがみていた空とかわらないかもしれません。引用元:予科練平和記念館

館内は、以下の7つのテーマにわかれていて、写真家・土門拳さんの写真を交えた解説がされています。

  1. 入隊
  2. 訓練
  3. 心情
  4. 飛翔
  5. 交流
  6. 窮迫
  7. 特攻

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”7つ”には予科練にちなんだこだわりがあります。予科練生の制服が7つのボタンだったこと。そして、7つボタンは世界の七大洋を意味しています。

土門さんの写真からは凄まじい迫力を感じます。予科練生は笑顔を見せているのに、穏やかさや和やかさはなく、命の炎を激しく燃やしているような。。。実は展示されている写真はすべて抹消されるはずだったのですが、奇跡的に誰にも気づかれずに残っていたそうです。とにかくスゴイので、ぜひ一度見ていただきたいです。

予科練の少年たち

予科練制度は昭和5年(1930年)からはじまって、終戦までの15年間続きました。全国で14才半から17才の”少年”が試験によって選抜されて、約24万人が入隊。うち約2万4千人が飛行練習過程を経て戦地へ赴きました。特別攻撃隊として出撃したものが多く、戦死者は8割の約1万9千人にのぼりました。なお、阿見町の予科練は昭和14年に神奈川県横須賀から移転されて出来たものです。

館内では当時の少年たちがどのような気持ちでパイロットを希望したかがわかります。「かっこいいから」という少年らしい考えもありましたが、家庭の貧困など経済的な事情によるものも多くありました。いまの私にはすぐに納得できませんが、当時の社会情勢や家族との関係を知ると、少年たちへの理解が深まるような気がします。ただ、終戦直前になると「国のため」という声が多かったです。国がなくては経済も家族もありませんから、同じことなのかもしれませんが・・・。

零戦(零式艦上戦闘機)

記念館の敷地には零戦の実物大模型があります。正式名称は『零式艦上戦闘機 二一型』といいます。『ゼロ』とつくのは、皇紀2600年に造られたので、その下二桁がゼロだったことに由来します。(皇紀は日本式の年の数え方)平成27年に記念館が5周年を迎えたので、その記念事業として造られました。

格納された零戦

零戦

零戦が世に出たのは昭和15年(1940年)です。まさに予科練生の憧れの機体でした。零戦に乗れるのは選ばれし者だけ。

予科練生が教育課程で飛行機に乗れるのはたったの一度でした。それはパイロットの適性があるかを判断する試験のときです。予科練生になるだけでも難しいのに、さらに試験によって選抜され、正式なパイロットになってからさらに厳しい訓練を受ける・・・。零戦のパイロットは能力だけでなく、すさまじい精神力の持ち主だけでした。

航空隊と霞ヶ浦

予科練平和記念公園から見る霞ヶ浦

予科練平和記念公園から見る記念館

記念館のとなりに記念公園があります。広々としていて、遊具もあるので子どもたちがたくさん遊びに来ています。

公園に小高い場所があります。そこにのぼると、すぐそばに霞ヶ浦があることがわかります。航空隊と予科練がこの地にある理由のひとつが霞ヶ浦です。陸上機と水上機の両方の訓練ができるからです。

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少し話がそれますが、つくば市に学園都市ができたのもの霞ヶ浦の水資源があったからです。霞ヶ浦はこの地の人々にたくさんのものを与え続けてきたのだとつくづく感じます。

回天(回天一型)

回天

人間魚雷・回天の実物大模型があります。人間魚雷とは、文字通り人が操縦して、そのまま爆弾となる兵器です。零戦が空の特攻とするなら、回天は水中の特攻をします。予科練からは、回天の搭乗員の約7割以上を占める約1000名が着任しました。そのうち、40名が戦没されています。

特攻は九死に一生ではなく、100%命を落とす作戦です。作戦は生きるために立てるものですから、特攻を作戦といっていいか私にはわかりません。でも、それを実際に行った当時の人たちの気持ちを理解する努力はしたいです。

阿見町は終戦の年である昭和20年(1945年)の6月10日に大規模な空襲を受けました。それによって予科練生や近隣住民など、約300名が亡くなっています。予科練生はそうならないために特攻の道を選んだ・・・のでしょうか?色々な考えがあって、必ずこうだといえることはありません。慎重に考えを巡らせて、今後どのようにしていけばよいのかと役立てていくしかないのでしょう。

予科練平和記念館は強い哀しみを感じますが、いまの私たちにとって重要な事を残しています。土浦と阿見の方々以外にも触れて欲しい場所です。

雄翔館への案内板

記念館のとなりには雄翔館と雄翔園があります。いずれも戦没者の慰霊のためのもので、雄翔館には遺品や遺書・遺影などがあります。遺書にはまさに『気持ち』があります。平和について丁寧に考えていくための参考にしてはいかがでしょうか。

アクセス

名称 予科練平和記念館
住所 〒300-0302 茨城県稲敷郡阿見町廻戸5−1
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
駐車場 あり
休館日 毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)、12月29日~1月3日
入場料 大人500円(団体400円)、小中高生300円(団体240円)
Webサイト http://www.yokaren-heiwa.jp