【後藤縫殿之助】菅生別雷神社の『酒吞童子』の彫刻

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

茨城を代表する装飾社殿の名工といえば後藤縫殿之助ごとう ぬいのすけ。坂東市の猫実出身で重文に指定された笠間稲荷本殿を手掛けたことで知られています。

笠間稲荷は縫殿之助にとって最大の仕事といえるのですが、それでは最小とはどれでしょうか。それが常総市の菅生に鎮座する別雷神社の本殿です。

菅生には縫殿之助が手掛けた日枝神社がありますので、まさか同じ地域に2つも作品を残しているとは思いませんでした。別雷は日枝同様に気軽に訪ねられますので、この記事を参考にぜひ参拝してみてください!

菅生別雷神社
菅生別雷神社

由緒

別雷神社は茨城県内に鎮座する神社を網羅する『茨城県神社誌』に掲載されていません。おそらく地域の氏神ではなく、宗教法人としても登録されてはいないのでしょう。

『茨城県神社誌』によると別雷神社が鎮座する菅生にあるのは村社の日枝神社のみ。社伝については境内の立て札に享保17年(1732年)に創建されたと伝えられているとありました。

社号からすると御祭神は別雷わけいかづちです。農耕神として小祠で祀られることが多く、有名なのは金村別雷神社(つくば市)と別雷皇太神(水戸市)です。この二社は関東三雷神にも数えられています。

前述の立て札には落雷による農作物への被害を減らすために深く信仰されたとあります。その一方で落雷により豊作になるともいわれます。いずれも豊穣に結びつきますので、農耕神であることに違いないのでしょう。

ただ、雷神と豊作は五行説と関係するのではと考えています。雷は空気を大きく震わせるもの。動くものは木火土金水の気のうち「木気」とされ、木気が生命の気であることから植物の発生や誕生と結びつけられます。

名前に「雷」のあるタケミカヅチ(武御雷)や桜の化身ともいわれるコノハナサクヤヒメは木気に分類でき、農耕神というだけでなく子宝や出産のご神徳があるともいわれています。

アクセス

名称(菅生)別雷神社
住所茨城県常総市菅生町2280番地
駐車場あり(1〜2台程度駐車可)
Webサイトなし

鳥居と手水舎

鳥居
鳥居

境内に整備された駐車場はありません。社殿の裏のあたりから車を入れられるので空いているスペースに駐車します。駐車場所は社殿のすぐそばになるかと思います。

車を降りたらすぐ社殿なのですが、そこはあえて鳥居をくぐって参拝するとしましょう。ここだけの話、神様は鳥居をくぐった者の声しか聞こえないのです。昔は鳥(鳳)が人と神との仲介役だったんですな。信じるか信じないかはあなた次第!

手水舎
手水舎

じつは立派な手水舎が用意されています。ちゃんと水が出て清められました。菅生の方により平成17年に工事が行われたそうです。

拝殿

拝殿
拝殿

拝殿はとってもコンパクト。大きな神社からしたら境内社の規模かもしれません。それなのに本殿の彫刻は。。名工・後藤縫殿之助の作。なにゆえ手掛けることになったかは明らかでありません。

『いばらきの装飾社殿』によると縫殿之助はこのあたりに1年間ほど居住したそう。そのときのお礼として神社の裏の鈴木家に恵比寿と大黒の像を残していったとか。近隣の日枝神社の社殿彫刻もそうした関係なのでしょう。

ちなみに前述の像がどのようなものかは分かりませんが、坂東郷土館ミューズの資料には縫殿之助が西金砂神社(常陸太田市)の宮司に贈った恵比寿・大黒像の写真がありますので、これと同様の可能性が高いと思います。

西金砂神社宮司に贈られた恵比寿と大黒
西金砂神社宮司に贈られた恵比寿と大黒

本殿

覆屋(本殿)
覆屋(本殿)

巨大な覆屋で保護された本殿を覗いてみると向拝のあたりは見えません。ちょっと惜しいですね。

覆屋内部
覆屋内部

本殿について『いばらきの装飾社殿』から引用します。

向拝部分はトタンに覆われているために外部から見ることは出来ないが、中備は「番いの鳳凰」、正面扉は「昇竜と降竜」、小脇羽目板は「松に鳥」である。脇障子は左側に「竜」、右側に「武将」と一見不釣合のように見えるが、漢の武将張良と、張良に襲いかかる竜神に化した観音を左右に配したのである。

 身舎外壁は怪物退治話の代表作として「御伽草子」にも収められている「酒呑童子」である。県内の装飾社殿でこのように物語を一連の絵巻物として外壁に刻んだ所は他にない。物語は右側から始まる。山姥に育てられた金太郎(坂田公時)と平安時代の武将源頼光が足柄山での出合いの場面である。金太郎は片手で熊を差し上げて怪力ぶりを誇示している。後側は頼光一行が山伏姿に扮装して大江山へ酒呑童子を退治に赴く場面で、急流の谷川へ木を渡して恐る恐る渡っている様子は愉快である。左側は大江山へ辿り着いた一行が、酒呑童子の館で酒宴を開いている場面で、扇を持って舞を披露する者、鬼達に小筒の酒を注ぎ回る者など、中世の絵巻物に取り入れている俯政の構図で巧みに表現している。

 これらの彫刻には木鼻や脇障子などには個々に、外壁のような大きな物には十数名が寄進したことを記した名前が刻銘されている。

いばらきの装飾社殿

昭和63年(1988年)に市の文化財に指定されています。ぜひ後世に残して伝えたい!

脇障子は両面に彫刻がほどこされています。ただし、背面(社殿の裏側)に顔がありますから一般的な造りと逆。両面を使ってひとつのモチーフを彫り込んでいるので3Dの像をはめ込んだようになっています。

前述のミューズの資料では武将を『鍾馗』としています。鍾馗は玄宗皇帝の夢にあらわれて悪夢を退治した神。日本に渡ってからは疫病除けなどのご神徳があると信仰されています。

しかし、彫刻には鍾馗特有の顔を覆うひげが無いことと龍との関係が不明となってしまうことから、『いばらきの装飾社殿』の見方(張良と観音)のほうが正しいような気がします。

胴羽目板「金太郎伝説」
胴羽目板「金太郎伝説」
胴羽目板「川渡り」
胴羽目板「川渡り」
胴羽目板「酒宴」
胴羽目板「酒宴」

羽目板の彫刻は三部作。『酒呑童子』の物語が展開されていきます。こうした構成は県内において類がないそうで、縫殿之助はお世話になった方々に粋なことをしたということでしょう。

酒吞童子の退治に向かったのは、源頼光、渡辺綱、碓井貞光、坂田金時、卜部武居、平井保昌の6人。酒吞童子伝説は次のようなものです。

丹波の大江山を拠点とする酒吞童子は、多くの鬼を従え、しばしば京の都に出現しては貴族の美しい姫君を誘拐して側に仕えさせ、用がなくなると刀で切って生のまま喰ったりしていたという。あまりにも悪行を働くので、帝の命により源頼光と渡辺綱を筆頭とする頼光四天王等により討伐隊が結成された。勇者の一行は山伏姿に身を変えて鬼の巣窟に出向き、ともに生血を飲み、人肉を豪胆に食べて油断させた上、酒盛りの最中に頼光が神より兜とともにもらった「神の方便鬼の毒酒」という酒を酒吞童子に飲ませて体を動かなくして討ち取った。酒呑童子の首は切られた後でも火焔を吐いて空中を飛び回り、頼光の兜に噛み付いてきたといわれている。

稀代の彫匠 後藤縫殿之助の足跡/編:坂東郷土館ミューズ

本殿を正面に見て向かって左が「金太郎伝説」、背面が「川渡り」、右が「酒宴」です。酒呑童子ではなく、頼光の首から先が欠けてしまっているのは無念。でも全体的に動きを感じる立派な作品です。

木鼻の獅子
木鼻の獅子
妻飾り「龍」
妻飾り「龍」

小さいながらも光り輝くような技量がふんだんに盛り込まれていると思います。「酒宴」以外は曇天だとかなり見にくいので、できれば明るい日に参拝することをおすすめします!

wata

酒吞童子伝説は破天荒なところが多々見えますね。こわっ!

本殿の製作時期は明治4年(1871年)から6年をかけて竣工したとする説(市生涯学習課)と明治4年4月から同6年9月とする説(『いばらきの装飾社殿』)がある。

まとめ

・創建は享保17年で雷神をまつる。『茨城県神社誌』に登録されていない

・本殿の彫刻は後藤縫殿之助による。胴羽目板は三部作の『酒吞童子』

・縫殿之助は1年ほどこのあたりに住んでいたことがあるという

参考文献
いばらきの装飾社殿/河野弘
稀代の彫匠 後藤縫殿之助の足跡/編:坂東郷土館ミューズ