wata
- 弘経寺の由緒
- 弘経寺と千姫の関係
- 天樹祭について
- 彼岸花の見頃
- 御朱印
茨城の歴史で、もっとも輝いていたのは江戸時代だと思います。
有名な人物をあげるなら、なんといっても『水戸黄門』こと徳川光圀。次に大政奉還によって江戸時代を終わらせた『最後の将軍』徳川慶喜。そして尊王攘夷論と藩政改革で活躍した『烈公』徳川斉昭と続くでしょう。いずれも将軍・徳川家の一族です。
加えて知っていただきたいのが、常総市の弘経寺に眠る千姫。血筋は光圀のいとこ。光圀と千姫のお父さんは兄弟。つまり、千姫のおじいさんは徳川家康なんです!言わずと知れた江戸幕府を開いた初代将軍(征夷大将軍)。。
第二代将軍は千姫のお父さんの徳川秀忠。さらに、第三代将軍が弟の家光。家柄を見てもわかるとおり、千姫は特別な運命でした。
常総市では毎年4月に千姫ゆかりの水海道千姫まつりと天樹祭が開催。今回は天樹祭をおとずれて見聞を広めてきました。
目次
寿亀山 天樹院 弘経寺とは
寿亀山 天樹院 弘経寺は常総市の豊岡町にある浄土宗のお寺です。創建は応永21年(1414年)、北条氏の一族である嘆誉良肇上人によって創建されました。
戦国期の天正5年(1577年)に兵火によって堂宇がすべて焼失。当時の住職は下妻に逃れた後、結城秀康公の帰依を受けて現在の結城市に弘経寺を建立しました。
その後、千姫から帰依を受けた10世照誉了学上人が寛永6年(1629年)に当地に再建。そのまま千姫の菩提寺となりました。現在の本堂は再建から長らく利用されてきましたが、老朽化によって平成20年(2008年)に現在の姿に改修されました。
境内マップ
弘経寺の境内は画像のようになっています。
駐車場は参道の西側。駐車場の周辺は桜と彼岸花を楽しめるようになっています。
例年だと桜の見頃は天樹祭のある4月上旬。彼岸花は9月中旬のお彼岸に見頃となります。
天樹祭
常総市の弘経寺では毎年、千姫の誕生日である4月11日前後に天樹祭を開催。弘経寺は千姫の菩提寺なので千姫のお墓(千姫御廟)があります。
おまつりは常総市の歴代の観光大使(水海道千姫さま)らが行列で参拝するところからスタート。例年、とても華やかなのですが、今年は大雨。
お墓はすぐそばですが、揃って参拝は厳しかったかな?少し遅れちゃったのでその様子はわかりません。。お堂でお経をあげているところから参加しました。
お経が終わると行列の参加者が集合。それぞれ千姫とふるさと常総市へのメッセージを残して、別会場の千姫まつりへ移動です。
華麗な行列です。衣装だけでなく、桜にも目が向きます。なんといっても満開ですから。弘経寺の桜はいまから100年ほど前の大正時代に植えられたそう。支えが必要なほど立派に育った桜。この時期の弘経寺は一見の価値ありです!
wata
千姫御廟
行列を見送った後、千姫のお墓を訪ねました。
天樹祭でなければ、ここまで近づくことはできません。少し手前の門が塞がれているんです。雨で参拝者も少なかったので、じっくりお参りできました。
千姫の生涯
ここで少し千姫の生涯について振り返ってみます。注目して欲しい内容をざっくりとまとめました。
わたしの理解が間違っていたらごめんなさいね。詳しい方、いろいろ教えてください。
千姫は江戸時代が始まる少し前に京都で生まれました。『天下人』豊臣秀吉がいる時代です。秀吉は千姫が生まれてすぐにこの世をさりましたが、豊臣家と徳川家には政治的な争いがありました。そんな状況だったので千姫は7歳で豊臣家に嫁ぐことに。相手は秀吉の子・秀頼でした(11歳)。
豊臣家に嫁いだ千姫ですが、豊臣家は『大阪冬の陣』と『夏の陣』で徳川家に追い詰められてしまいます。千姫は夫・秀頼と秀頼の母・淀君の命を救ってほしいと、おじいさんの家康に頼みますが受け入れてもらえません。そして、ついに2人は自害することになってしまいます。このとき、千姫はまだ19歳でした。
家族を失ってしまった千姫は一旦江戸に戻りました。そして、1年後に姫路の本多忠刻のもとに再び嫁ぐことになります。(この結婚は千姫の一目惚れという説があります)一男一女を儲けましたが、長男はわずか3歳で亡くなってしまいました。さらに、夫・忠刻も30歳の若さで病死してしまいます。千姫が30歳のときです。
このあと、居場所がなくなってしまった千姫は弟で将軍の家光から何度も頼まれたので、娘の勝姫と一緒に江戸に戻ります。その頃、仏門に入り、『天樹院』と名乗り、弘経寺を菩提寺としました。
江戸では家光のよき相談相手として、さまざまな手助けをしましたが、政治には一切口出しをしませんでした。また、寛容で思いやりがあって、誰に対しても公正だったので、たくさんの人に好かれていました。しかし、天樹院(千姫)が江戸で暮らして25年後、家光は48歳で急逝してしまいます。信頼する弟を失ったことは天樹院にとって耐えがたい悲しみでした。しかし、家光の後を継いだ家綱をサポートするため、天樹院はますます存在感を高めていきました。
天樹院は70歳でこの世をさりました。晩年は5人の孫に囲まれて、とても幸せに過ごすことができたといいます。天樹院の喪主は将軍・徳川家綱でした。おばの死を悼んだ家綱は、江戸市中に七日間の鳴り物停止を命じました。
将軍家に生まれ、過酷な運命でありながらも、所々で自分の意志を示しているのが千姫だと思います。決められた結婚だったかもしれませんが、秀頼や忠刻とは仲睦まじかったといわれます。家康や秀忠に可愛がられながら、家光、家綱には心のよりどころにされていました。
wata
千姫遺品展
境内では千姫の遺品が展示されていました。お寺の宝物なので天樹祭のときだけ公開です!(撮影禁止)
千姫の姿を描いたとされたものは、この世で2つだけです。一つは名古屋の徳川美術館にあって、もう一つは弘経寺にある『千姫姿絵』です。
貴重な品ですので間近で見れて感激しました。姿絵の千姫は色白でスラッとしていてクールな印象。それにしても、千姫の姿がわかる資料は意外なほどわずかなんですね。
他には愛用品の龍をあしらった『すずり』もありました。すずりは凝った装飾でとても大きい。格を感じます。
この日は弘経寺の本尊なども特別に公開されていました。解説付きでじっくり学べましたので、とても貴重な時間を過ごすことができました。なんとお堂の中には歴代将軍の位牌がずらりとならんでいるんですよ。
当初、弘経寺には千姫の遺髪のみが納められていると言われていました。でも、その後、遺骨の入った壺が発見されたので、正式なお墓だったことがわかりました。
展示品には遺骨発見の新聞記事や骨壷のレプリカまであります。菩提寺だけあってゆかりの情報がたくさん集められていました。
今年の漢字『勢』
お堂の前に大きく『勢』の文字がありました。天樹祭では、オープニングセレモニーで今年のテーマとなる漢字を書きます。昨年は『照』、今年は『勢』でした。ふだんは野外で大きな筆を使って書くそうですが、今年は雨だったので屋内だったのでしょう。
面白そうなので書いている姿を見たかったです。。
弘経寺 開山忌
わたしが帰る頃、たくさんの稚児を見かけました。このあと、年中行事の開山忌に参加します。開山忌はお寺を開いた上人のために『なむあみだぶつ』を念じる法事です。
子どもたちは意味をよく分かっていないでしょうが、将来、自分のふるさとや出来事について語れそうでいいですね!
御朱印
弘経寺の御朱印は2種類。ご本尊の阿弥陀如来と千姫です。御朱印料はいずれも300円です。
本堂右手の庫裏からお声掛けください。
彼岸花
弘経寺のもうひとつの名物といえばお彼岸の時期に開花する曼珠沙華(彼岸花)です。
山門から庫裏に続く通路と、駐車場から本堂に続く通路の2箇所に多数咲いています。
2019年は開花が遅れ、お彼岸の終わった9月28日頃が満開でした。開花状況を告知するサイトやSNSはありません。Twitterであれば多少情報を得やすいかもしれません。
アクセス
名称 | 寿亀山 天樹院 弘経寺 |
---|---|
住所 | 茨城県常総市豊岡町甲1 |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
駐車場 | 無料の臨時駐車場あり |
Webサイト | 公式サイト 常総市観光物産協会 観光いばらき |
まとめ
この記事のまとめ
- 弘経寺の創建は北条氏の一族である嘆誉良肇による
- 弘経寺は千姫の信仰によって再興
- 天樹祭は千姫の誕生日(4月11日)前後に開催
- 彼岸花はお彼岸の時期に駐車場そばで開花
- 御朱印は2種類。本尊の阿弥陀如来と千姫の書
2019年4月19日 茨城新聞…千姫の生涯に思い 常総・弘経寺 天樹祭、遺品も公開
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
寺院巡りにどうぞ