wata
- ”金色姫伝説”について
- 蚕影神社と蚕霊神社の由緒
- 伝説誕生の真相!?
養蚕のはじまりは約5000〜6000年前だそうです。古すぎてピンときませんね。
発祥の地はいまの中国。宮廷内で秘密裏に行われたとか。ミステリアスですが大日本蚕糸会のサイトにもあります。一般的に日本の養蚕は中国から伝わったとされています。
ところが。。わが茨城県は「養蚕は茨城ではじまった」と主張しています。驚くことに発祥の伝説がつくば市、神栖市、日立市の神社にあるんです。ふっしぎ〜♪
各地の伝説はほぼ同じ。インドからやってきた絶世の美女が登場します。外国が関係する伝説はとても珍しいですね。奇抜ですが非常に興味深い。
今回は養蚕が茨城ではじまったとする”金色姫の伝説”をご紹介します。知恵を振り絞って真相についても考えてみましたのでお付き合いください。
金色姫伝説
早速、金色姫伝説をご紹介します。細部は異なりますが各地の伝説は以下の通り。
5世紀頃。天竺(いまのインド)に霖夷王とその娘の金色姫がいました。
あるとき、姫の母親が亡くなると王は新しい皇后を迎えました。しかし、皇后は美しい姫を憎み、王のいないときに何度も姫の命を奪おうとします。王は庭で生き埋めになった姫を見つけると行末を哀しみ泣く泣く船で逃がすことにしました。
長旅の末、船は常陸国(いまの茨城県)の豊浦に漂着。それを漁師の権太夫が見つけました。権太夫は夫婦で衰弱した姫を看病しましたが、まもなく亡くなってしまいました。
姫を葬ってしばらくすると夫婦の夢に姫が現れました。「食べ物をください。恩返しをします」亡きがらを納めた唐びつを開けると、そこにはたくさんの虫。姫の船が桑の木で出来ていたので桑の葉を与えてみると虫たちは喜んで食べました。
やがて虫たちは繭をつくりました。戸惑う夫婦。すると今度は夢に仙人が現れて繭から糸をとることを教えてくれました。それが養蚕のはじまりだといいます。
虫はもちろん蚕。ポイントは船の漂着地”豊浦”です。伝説のある神社はいずれもかつて豊浦と呼ばれていました。それぞれの豊浦で養蚕がはじまったとはさすがに考えにくい。どれかが伝説の豊浦。あるいはどれもが。。
この物語は上垣守国の養蚕秘録が元になったといわれます。『養蚕秘録』の原文は国立国会図書館にありますので、どなたか内容を訳してもらえると嬉しいです。
続いて、つくばの蚕影神社と神栖の蚕霊神社をご紹介します。
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つくば市の蚕影神社

神郡から見る筑波山
つくば市の金色姫伝説は蚕影神社にあります。神社の住所はつくば市の神郡。山中なのでカーナビでは登り口にたどり着けないかも。セットするなら近くの老人保健施設『豊浦』にしましょう。(茨城県つくば市神郡2013-1)
神郡は筑波山の麓。お参りの前に素敵な風景を楽しめます。ここがかつて舟の流れ着く場所だったとは想像しにくい。長い年月で変わったということでしょうか。

春喜屋
神社に駐車場はありませんが、入口前の春喜屋に駐車できます。昭和初期までは旅館としても活躍していました。いまは商店として伝統のお菓子『蠶影羊羹』や手ぬぐいを販売しています。例祭のとき以外はほぼ閉まっています。その場合は近くに安全なところに駐車してください。

石段
神社までの205の石段。途中、石がゆがんで不安定なので注意。わたしが訪れたときは途中に土砂崩れがあってビニールシートで養生されていました。
入口の左手には蚕影神社の案内板。伝説の部分を引用します。
天竺仲国の姫君金色姫は四度の受難の後、滄波万里をしのぎこの地に着き、権太夫夫妻に掌中の玉と愛された。しかし、病に罹り終に露と消えた。
ある夜夫妻の夢に「我に食を与えよ、必ず恩返しをする」と告げ、夫婦が夜明けに亡がらを納めた唐櫃を開ければ中は小蟲ばかりで、桑の葉を与えると獅子、鷹、船、庭と四度の休眠を経て繭となった。
筑波山の神が影道仙人として現れ、繭を練り錦として糸を取る事を教えられた、これ日本の養蚕の始めである・・・・・・・
金色姫/蚕影神社案内板
特徴は「筑波山の神が養蚕を教えた」こと。それ以外は『養蚕秘録』と同じといっていいでしょう。
金色姫伝説のある一方、成務朝(2世紀)に筑波国造に赴任した忍凝見命孫と阿部閇色命が椎産霊神を鎮祭したとあります。
蚕影神社の守護のため蚕影山桑林寺も建立されました。

蚕影神社の外観
苦労して登りきると蚕影神社!かわら屋根には『蚕』の文字。
ご祭神は椎産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命。それに蚕影山大神。。他の蚕影神社はこちらのご分霊をお祀りしています。

神社の御朱印について
蚕影神社はふだん無人。御朱印帳は近くの筑波山神社でいただけます。初穂料は300円です。
拝殿は大正期、本殿は江戸初期に建てられましたが、無人のためかいずれも老朽化が激しい。ちょっとさみしいですね。
養蚕業は明治以降に大きく発展して文明開化を支えました。昭和の中期まで日本中で盛んでしたので、それまでは蚕影神社に多くの参拝者が訪れたそうです。
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アクセス
名称 | 蚕影神社(蚕影山神社) |
---|---|
住所 | 茨城県つくば市神郡1998番地 |
ご祭神 | 椎産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命 |
駐車場 | なし |
年間行事 | 3月28日…蚕糸祭 10月23日…例祭 |
神栖市の蚕霊神社
続いて神栖市の蚕霊神社です。蚕影神社との違いに触れながらご紹介します。
蚕霊神社は蚕影神社と違って平地にあります。神栖市は海に面しているので、物語のシーンには合っていますね。

産霊神社鳥居
入口の立て札には例の金色姫伝説。全文引用します。(読み飛ばしても大丈夫です)
孝霊天皇の五年(紀元前二八六)の春三月。豊浦浜(日川)の漁夫権大夫は、沖に漂う丸木舟を引き上げて見ると、世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国霖光の一女金色姫。母光契夫人の没後に入った継母は、もの凄い妬み者。国一番の美女ともてはやされる姫が憎くてたまらない。思い余った末、獅子山、鷹の巣山、絶海の孤島におしこめてしまったのに、その姫は獅子に鷹に漁夫に助けられて戻ってくる。業を煮やした継母は、城の片隅に穴を掘って埋めてしまった。
こうなればと不気味に笑った継母は驚いた。
埋めた場所から、まばゆい金の光がさして来たからである。憎さ百倍した継母は、桑の木で作った丸木舟に押しこめて、大海に投げ込んでしまった。流れ流れた丸木舟は、常陸国豊浦に流れつき権大夫に救われたのだった。
余りにも数奇な運命に心痛めた権大夫は、わが事して愛育する甲斐もなく、病死した姫は小虫となり変わってしまった。これも姫の化身と桑の葉を与えて飼育していると、四眠して五回目に美しい糸を吐きながら、繭を作ってその中に納まってしまった。その繭から繰りとった絹糸で降上げられたものが、見事な常陸絹織となって、その名声は高く、各地に広がっていった。
かくて養蚕は、新しい産業として、人々の生活を潤し支えていった。この偉業に対する感謝敬慕の念が凝り集まり、産業の創始先駆者の象徴として、造営されたのが蚕霊神社であり、永くこの地域の守り神となって鎮座されている。
時移り世代わってともすると、この神の治績が薄れ去るのを惜しみ、ここにその由来を記して、改めてその偉業を追慕するものである。
撰文 中村ときを
平成七年三月
神栖町教育委員会
神栖町歴史民俗資料館
蚕霊神社の由来/蚕霊神社案内板
文章を書かれた中村ときをさんは郷土作家です。市内にお住まいだったご縁でしょう。
天竺から来た金色姫。それを救った権太夫など、前述した伝説と同じです。船が漂着した場所は豊浦浜(日川)だと明言。また、権太夫に養蚕を伝えたシーンはありませんが中村さんの著書(鹿島灘風土記)にはあります。

蚕霊神社参道

蚕霊神社社殿
蚕霊神社の境内は社殿も含めて比較的新しい印象。つやつやした狛犬に鮮やかな社殿。大切にされているのでしょう。
絹、織物関係の情報サイト”Silk New Wave”から神栖市の養蚕について引用します。
この資料はさらに、神栖の養蚕について、“町域では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになりました。また、この鹿南地方は気候が温暖なため、蚕の卵を取る蚕種製造に適していたようで、昭和初期には4軒の蚕種製造業者の名前が見られます。
蚕霊神社/Silk New Wave
「この資料」とは神栖町歴史民俗資料館の資料のこと。神栖市でかつて養蚕が盛んだったことは確かでしょう。でも、神社の規模や現在の様子を考えると古い歴史があるようには感じません。できたのは明治以降だったりして。
茨城県神社誌には創建不詳、ご祭神は大気津比売神とあります。大気津比売神は神話でも蚕の誕生に繋がっていますから納得ですね。
宇気母智命とも同一視されるご祭神ですが、同様の由緒を持つ日立市の蚕養神社と違う名前なのは少し気になるところです。
アクセス
名称 | 蚕霊神社 |
---|---|
住所 | 茨城県神栖市日川720 |
駐車場 | なし |
見逃せない茨城新聞の説

図書『茨城の史跡と伝説』
これから紹介する”金色姫伝説”はかなりレア。1975年に茨城新聞社が発売した”茨城の史跡と伝説”にあります。全文は紹介できないので一部分とします。まずは驚きの冒頭。
昔、鹿島郡の日川(今の神栖町大字日川)に青塚権太夫という漁師がいた。はるばる奥州からここに流されて来た姫を哀れに思って家に引き取り、わが子のようにいつくしみ育てているうちに姫は病に伏して間もなく世を去った。
日本養蚕事始め/茨城の史跡と伝説
姫が亡くなることや蚕になることは同じですが、金色姫は天竺ではなく奥州からやってきました。養蚕秘録の内容と明確に違います。養蚕秘録と違う出典なのは明らかです。
さらに興味深いことが続きます。
さてこの伝説については、クワコと化した姫の本籍地奥州のそれに合わせて考えねばならぬ。
日本養蚕事始め/茨城の史跡と伝説
常陸国ではなく「奥州」にも似た伝説があるようです。特徴は以下の通りです。
- 姫は継母の虐待の末、池に身を投げて死んだ
- 死んだ後、遺体から一本の木が生えてそれを食べた虫が繭を作った
- 姫の名は「くわこ姫」だったことから、木を「クワ」と名付けた
つまり、養蚕の発祥は奥州という物語。複雑になってきたので伝説のパターンをまとめます。
- 養蚕秘録…姫の出身はインド。亡くなった常陸国が養蚕の発祥の地
- ”茨城の伝説”…姫の出身は奥州。亡くなった常陸国が養蚕の発祥の地
- 奥州の伝説…姫の出身は奥州。亡くなった奥州が養蚕の発祥の地
キーワードは、インド、常陸国、奥州です。いろいろ調べていたら一本の筋で繋がりましたので、真相に迫ってみます。
金色姫伝説の正体
謎を解く鍵は”養蚕秘録”と著者の上垣守国。そして金色姫伝説の出典です。上垣守国は身辺のハッキリした人物。伝説を考える上で無視できません。
というわけで、出身地の兵庫県養父市のWebサイトからプロフィールの一部を引用します。
上垣守国は、明和7年(1770)18歳から先進地であった陸奥国伊達郡福島に行き、蚕種を持ち帰って蚕種改良に尽力しました。
養蚕の神様 上垣守国/養父市
上垣守国は養蚕業を営んだ商人。てっきり学者だと思っていました。生まれたのはいまの兵庫県。若い頃から地元を離れて積極的な経営をしていました。18歳で養蚕が盛んだったいまの福島県へ。蚕の卵をゲットしています。
福島。。奥州ですよね。茨城新聞の「奥州に古くから伝わる伝説」に触れる機会があったと考えられます。
その後は兵庫を拠点に30年ほど養蚕業を営みました。そして48歳のときに”養蚕秘録”を完成。どんなことが書いてあるのか同サイトから引用します。
養蚕秘録は、上垣守国が享和3年(1803)に発刊した上中下の3巻の養蚕技術書です。全部83丁あります。上巻で養蚕の起源を述べ、蚕名、蚕種、栽桑、蚕飼道具を図解し、中巻では養蚕の実務を述べ、孵化、掃立、給桑、上族、繰糸などの全般を解説し、下巻では真綿製法、養蚕の話題を書いて、和漢の古書25点を引用しました。
養蚕秘録/養父市
伝説のことばかり注目しちゃいますが大半は技術的なこと。いわば養蚕マニュアル。とすると、この本を読むのはだれなのか。おそらく養蚕をしたい人でしょう。
ここで疑問。そんなものが競合に渡ったら自分にとって不利。なので、実のところ内容は当時の常識ばかりだったのではないでしょうか。上垣守国は養蚕秘録を書いた6年後、病でこの世を去ります。
さて、養蚕秘録の解説に面白いことがあります。
文政12年(1829)、オランダ東インド会社のシーボルトは、養蚕秘録を日本からオランダに持ち帰りました。フランス政府は、オランダ王室通訳官ホフマンにフランス語訳を命じ、嘉永元年(1848)にパリとトリノで農業技術書として出版しました。日本文化輸出第1号であると評価されています。
養蚕秘録/養父市
インド!?
オランダ東インド会社はオランダの会社。貿易に限らずアジア全体に大きな影響を与えました。帝国のフロント企業といったところでしょうか。
養蚕秘録は日本だけではなく海外で評価されました。養蚕の基本がまとめられているので重宝したでしょう。でも、生粋の商人が本を書くだけで満足したでしょうか。
わたしが商人だったら本をきっかけに自社を売り込みます。本をチラシ代わりに「特別」であると伝えたい。例えば、技術や製品のありがたい由来とか。
考えをまとめます。
若い頃、蚕を仕入れるために奥州を訪ねた守国は養蚕の発祥となる伝説を知りました。
なぜそれを30年後に書いたのか。おそらく海外に事業を広げるため。養蚕技術や絹製品に興味を持ってもらうため魅力的な物語を創作。
海外展開するなら顧客はオランダ東インド会社一択。そのため”インド”を含む物語にした。
養蚕の発祥については当時でも中国由来が一般的ではないでしょうか。守国が知らなかったとは考えにくい。
有力な説とそうでない説。両方知っていたらどう語るか。わたしだったら有力な説だけにするか両方語ります。つまり”養蚕秘録”は守国の特別な立場が反映されていると思います。
金色姫伝説。貪欲な商人が誕生させたコマーシャルなのかも。。
まとめ
この記事のまとめ
- 金色姫伝説は養蚕の発祥に関わる伝説
- 茨城の蚕影神社・蚕霊神社・蚕養神社は同様の由緒
- 伝説は上垣守国の”夢”のために誕生!?
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城のちょっと面白い昔話/著 ふるさと”風”の会
茨城の史跡と伝説/茨城新聞社
鹿島灘風土記/中村ときを
御朱印巡りをされる方へ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。