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- 山号”皇跡山”について
- 二孝女物語について
- 御朱印のいただき方
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常陸太田市で毎年開催される集中曝涼でありがた〜いお話を聞いてたっぷりと文化財を見てきました!
この記事では常陸太田市の青蓮寺(浄土真宗)をご紹介します。道徳の教科書にも載っている二孝女物語と不思議な山号について学びましたのでじっくりお伝えしますね。
訪れたのは2019年10月20日(日)。猛烈な台風19号が訪れた1週間後で山田川のそばに位置する青蓮寺は大変心配でしたが、ご住職のお話では「橋が流されただけ」で済んだとのこと。
それでも大変だと思いますが、無事に集中曝涼ができてなによりでした。なお、前日の19日は雨ということもあって中止となりました。
目次
皇跡山 極楽院 青蓮寺とは
由緒
御本尊は阿弥陀如来です。浄土真宗の念仏は「南無阿弥陀仏」。阿弥陀仏に帰依することで極楽浄土に生まれ変われるという信仰があります。
当寺の由緒はややミステリアス。開山時は天台宗でしたが、まもなく荒廃。それを親鸞聖人の薫陶を受けた性証により浄土真宗として再興しました。性証は再興前にも当寺(当時は青蓮寺ではなく瑞巌寺)を訪れており、太子堂で見た夢により親鸞の存在を知り弟子入りしたのだとか。
それについて親鸞聖人のゆかりを紹介する『真宗教団連合』は次のように説明しています。(「恵空」とあるのは性証の出家前の名前です。性証は鎌倉幕府の御家人の家に生まれました)
聖徳太子の夢告
栂尾の明恵のもとで学んだ恵空(重秀)は、父・重忠と兄弟・重保を弔うために東国に下った。建暦2(1212)年、常陸国を遍歴中、瑞巌寺の太子堂に逗留した夜、重秀の夢に聖徳太子が現れ、稲田の親鸞聖人のもとを訪ねるようにと告げた。稲田にて重秀は聖人から、本願念仏の法のみが末代に相応した道であるとの教示を受け、ただちに弟子となり法名を性証と改めた。このとき性証は二十四歳であったと青蓮寺には伝わっている。
境内に太子堂は残っていないのが残念。それにしても古い時代には「霊夢」によって大きな変化が生じたという伝承が多いですね。神仏の顕現はあからさまではないようです。
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アクセス
名称 | 皇跡山 極楽院 青蓮寺 |
---|---|
住所 | 茨城県常陸太田市東連町200 |
駐車場 | あり |
寺号標
寺院の入口にある寺号標。少し読みにくいのですが、「皇跡山 青蓮寺」とあります。”皇”の字が気になりますよね。じつは白雉21年(670年)から2年間、この地に当時親王だった天武天皇がいたことに由来します。詳細は以下の通り。
青蓮寺の前身
「皇跡山青蓮寺略縁起」によると、同寺の由来は、天智天皇の弟・浄見原皇子(後の天武天皇)が常陸に下向したときに滞在した御殿で、ここに仏像と聖徳太子の尊像を安置したことに始まる。その後五百余年を経て、後鳥羽院の皇子である周観(後に親鸞聖人直弟子となる善性)がこの地に逗留し、玉跡山極楽院瑞厳寺という天台宗の寺に改めた。これが青蓮寺の前身といわれる。
青蓮寺|親鸞上人を訪ねて
これらが史実かどうかはさっぱりわかりません!ただ、天武天皇との関係を強調するのは、性証の父・重忠が桓武天皇の遠孫にあたるという説と関係があるように思います。
参道の脇には立派なしだれ桜が見えます。見頃は3月下旬から4月上旬といったところでしょうか。春の参拝も大変よろしいかと思います♪
本堂
どっしりとした本堂。美しいですよね〜。中で文化財が公開されており、多くの方々で賑わっていました。
集中曝涼では堂内に学芸員として学生がいてお寺や文化財を解説してくれます。入り口でいただけるパンフレットを元に自分で見て回ってもよいのですが、お話を聞く方が覚えやすいのでオススメです。
また、お寺の方もおりますので難しめの質問でも対応してくださると思います。この日はご住職もいらっしゃって御朱印を書かれていました。
フラッシュを焚かなければ写真撮影OKです。記念になりました♪
本堂は約200年前に建てられました。寝殿造の流れをくむ珍しい造りといわれています。
豊後国二孝女関係資料(市指定文化財)
堂内でもっとも目立つのが”二孝女”の関係資料です。
”二孝女物語”はおよそ200年前の江戸時代に実際にあった出来事です。ざっくり説明すると親孝行の姉妹が参拝の旅の途中で病に倒れたお父さんを迎えに行くというお話ですね。
お父さんは親鸞聖人の遺跡を巡っていて、青蓮寺を訪れたときに倒れました。お父さんが青蓮寺で看病される間、姉妹はたくさんの人々に助けられながらいまの臼杵市(大分県)からやってくるんです。
姉妹の歩いた距離は300里(約1,200km)!およそ4ヶ月かかったそうです。毎日10kmほど歩いたということでしょうか。すごすぎます!
でも、ちょっとわかるんですよね。だって、お父さんは7年も寝込んでいたのですから。姉妹が迎えにいくとお父さんは翌年に回復。家族3人で故郷へ帰っていったのでした。
このお話は小学校の道徳の教科書にもある美談で、2015年に常陸太田市と臼杵市が友好都市関係を結ぶきっかけになりました。
ただ、二孝女物語は臼杵市で語り継がれてきたものの、常陸太田市では知られていなかったそうです。平成17年(2005年)に当時の手紙や姉妹からの礼状が青蓮寺で発見され史実として広まりました。
平成22年に関係資料が市指定の文化財へ。翌年、”二孝女顕正会”が発足し、現在に至るまで物語の普及につとめています。この日は顕正会が発刊した本の販売もありましたよ♪
境内には顔出しパネルもありました!こういうの最近は珍しくなりましたよね〜
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木造阿弥陀如来立像(県指定文化財)
ご本尊の阿弥陀如来像です。
高さ53.5cm、光背を含めると102cmです。鎌倉時代の作といわれていて、中染の阿弥陀堂にある鉄造阿弥陀如来像(国指定文化財)とほぼ同時期だとか。
目が細いのですが、黒目は多く見えます。写実的で親しみやすい印象でした。じつは両手の手首から先は失われています。現在見えるものは後で取り付けたものだそうです。
県北高校フシギ部の事件ノート
当寺に伝わる「二孝女物語」は2022年夏に茨城県が公開したWebドラマ『県北高校フシギ部の事件ノート』で取り上げられました。
茨城の県北地域を舞台にしたドラマでして、このブログの読者ならきっと楽しめるかと思います。写真だけじゃよくわからないよ〜という方もぜひご覧ください!
御朱印
青蓮寺の御朱印です。集中曝涼の際は本堂で直書きしていただけます。
浄土真宗なので貴重ですよね。少しにじんでしまいましたが、二十四輩を示す印も嬉しいです♪
まとめ
この記事のまとめ
- “皇跡山”は親王だった頃の天武天皇が訪れたとされることから
- 二孝女によって大分県臼杵市と友好都市関係が結ばれた
- 集中曝涼の日は本堂で御朱印をいただける
2015年10月10日 茨城新聞…「二孝女」縁、親交深める 常陸太田市、大分・臼杵市
参考文献
茨城の寺(二)/今瀬文也
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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