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八幡宮といえば八幡さまを祀る神社。一般的に八幡さまは武勇に優れた源氏の守り神とされています。
常陸国では佐竹氏の信仰が篤かったため、氏が支配した時代には多くの八幡神社がありました。それが江戸時代に水戸藩による支配となると一変します。水戸藩は佐竹氏が嫌いだから八幡神社を潰したのでしょうか。
この記事では水戸藩に潰されなかった高萩市の八幡宮をご紹介します。残っているにはちゃんとした理由があるんです。
由緒
藤原左京太夫(宮司の祖)と鞍馬寺の僧・修多羅大徳権興が勅宣を蒙り京都石清水八幡宮の御分霊を奉じ現在の高萩市に勧請して創建(浜の宮)
前九年の役と後三年の役で源頼義と義家親子が訪れ東征を祈願
源義家、清原家衡を追討した後、多賀郡の宇佐美左衛門時景に命じて社領200町を寄進。
現在地に遷座し多賀郡三十三郷の総社とした。
宇佐美日向前司祐泰が木佐良善阿に命じて造営
佐竹修理大夫義国により造営。
このときより流鏑馬の神事がはじまり、安良川平四郎が勤めた。
諏訪七郎盛宗により造営
佐竹貞義が小野崎甲斐守通胤に命じて造営
佐竹左馬権頭善治により造営
岩城民部大輔平豊隆、小野崎藤原朝臣通蔵、大塚藤原朝臣隆成、同藤原朝臣常成、同藤原朝臣鶴房、車平朝臣虎兼らにより造営
大塚藤原朝臣重成、小野崎藤原朝臣、車藤原朝臣らにより造営
岩城平朝臣常隆、大塚掃部助親成、山能城主・源義昌らにより造営
徳川家康より朱印地45石を授かる
戸沢右京大夫平朝臣政盛により葺替
※葺替の費用が崇敬者によって賄われ経済基盤が移っていることが見られる
水戸藩の政策により別当竹恩院をはじめ社僧が廃止され神主が置かれる
材料は棚倉領田人山より海上を経由して運ばれた
義公に鐘を献上
神主・鈴木光郷が従五位下上野介に任じられ大宮司を許される
※同15年に竣工
爺杉前に白蛇の像が奉納され建立される。
蔵書四千冊の私設図書館が境内でオープン
ご祭神は誉田別命(応神天皇)、神功皇后(息長帯比売命)、日女大神です。
水戸藩の寺社改革で潰されなかった八幡宮として有名ですね。改革は藩に相応しくない寺社の整理ですから、当社のように古くから崇敬を集めている場合は対象外ということでしょう。
また、この改革のポイントは藩内の寺社の経済基盤を安定させることにありました。元禄8年に別当の竹恩院をはじめ社僧が廃止されましたが、各寺の朱印地は八幡宮に付け替えられています。
本来神社に与えられた朱印地を別当が持っていたり、勝手に多くの関係者で分け与えることは存続を不安定にさせるばかりなので止めさせたのではと思います。
ところで、高萩市の八幡宮は安良川に鎮座していることから安良川八幡宮として知られています。でも、最近はパンフレットなどで高萩八幡宮の名称も用いているようですね。
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アクセス
駐車場は2ヶ所あります。1つ目は大鳥居のすぐとなり。初詣や祭礼などの混雑期でなければ駐車可能です。
2つ目は社殿の南東のあたりです。
こちらは鳥居の方よりも広くて駐車しやすいのですが、たどり着くまで細い道が続きます。いずれも運転にはご注意ください。
名称 | (高萩)八幡宮 |
住所 | 茨城県高萩市大字安良川1180 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト 茨城県神社庁 |
SNS | X(旧Twitter) |
年間行事 | 1月1日…元旦祭 2月3日頃…節分祭 旧初午…稲荷祭 4月15日…例祭 6月30日…大祓 7月末…高萩祭 11月26日…献穀祭 12月18日…秋葉神社(鎮火祭) |
境内マップ
神社でいただけるパンフレットより。すごくわかりやすいですよね!
大鳥居
高萩八幡宮の大鳥居です。立派ですよね。県北エリアではNO.1かも。鳥居の建立は昭和60年(1985年)なので、鎮座1000年を記念してのことでしょう。
境内は鳥居をはじめ比較的新しく見えるものが多いです。平成15年から18年にかけて大規模な造営や改築がされたためですね。
杉並木の美しい参道です。この日は正月で大勢の参拝者がいることもありますが、ふだんからよく清掃されていますので気持ちよく参拝できます。ただ、少し床石にヒビが見えました。県北なので震災の影響かもしれません。(2022年現在復旧)
境内は『安良川八幡宮の森』として『高萩の観光10選』になっています。
境内社:市杵島神社
境内社の市杵島神社は市杵島姫命を主祭神としています。
少し前に来たときにはカッパの石像の印象が強かったのですが、最近になって整備が進められており先が楽しみな神社です。この日は業者によって河童池の手入れがされているようでした。
神仏習合時代は弁財天を信仰していたかと思います。七福神のひとりに数えられる福の神ですね。遊歩道を進めば弁財天の像にもお参りできるようになっていますよ。
弁財天は財神として知られていますが、本来は弁才の神。つまり話す技術に長けています。それは非常に頭が良いことを意味しますので、学問であったり競争する力も長けていることに繋がります。戦の神とされることがあるのはそうした背景があるためですね。
市杵島神社の御朱印も頒布されるようになりました。イラストは画家の中村光夫氏と書家の時崎伍鳳氏によるもので、お二方とも高萩市在住です。地元の方でこんなに素晴らしい御朱印が頒布できるなんて素晴らしいですよね。
そのうちデザインが変わったりするのでしょうか。期待しちゃいます!
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二の鳥居とてるてる坊主
参道の先には二の鳥居。平成23年の東日本大震災で倒壊しましたが、近年再建されたそう。
その傍には「てるてる坊主」とある小さなのぼり。梅雨に向けて晴天を願う企画のようです。
水色のアーチは夏場に風鈴を下げるために使用していました。梅雨はてるてる坊主専用にしたんですね。なんとも愛らしい。この日はこれを見に来る親子が数組いらっしゃいました。子供が作ったのかもしれませんね。
手水舎
二の鳥居のすぐ正面に拝殿があるのですが、手水舎で清めることを忘れずに。じつは拝殿から向かって右手にありましてちょっとわかりにくくなっています。
まだコロナ対策が続いていて水が止められていました。仕方なくアルコールのジェルを使用することに。これで効果あるのかなぁ。
足元の小さな鉢には水がはられてプチ神社が創建されていました。金魚たちが気持ちよさそうに泳いでいて竜宮城みたいな景色ですね〜
拝殿
杉並木の参道の先にある石段を上がると開けた場所に。整然と並べられた石畳と砂利が美しく感じます。
正面に見えるのが高萩八幡宮の拝殿です。平成17年(2005年)に新築されました。
八幡宮の造営はかつて何度も造営・修営されていますが、江戸時代初期(戸沢氏)までは領主の役目でした。鎮守社として崇敬の念を示すとともに権威を示す意味もあったんですね。
佐竹氏、岩城氏、竜子山城主・大塚氏、山能城主・小野崎氏、車城主の車氏など多くの武将が崇敬、そして造営を行っています。
拝殿の前にはこんなものも。。当社は令和元年のお正月に始まった神玉巡拝のスポットです。お正月以降も神玉をいただけますので、ぜひドラゴンボ、いや神玉で願いを叶えてください!
本殿
平成18年(2006年)に新築された本殿です。ご祭神の三柱をお祀りしています。
安良川の八幡宮といえば高萩地方でもっとも大きな神社であり、県内でも有数ではないでしょうか。
慶長7年(1602年)に徳川家康から45石の朱印地を授かり経済的な基盤ができました。以降は領主に頼らず領民で造営・修営をしています。
寛文3年(1663年)からはじまった水戸藩の寺社改革では領内の多くの寺が廃寺となり八幡神社が潰されました。当社は別当の竹恩院と供僧がお取り潰しとなりましたが、神社自体は残っています。
それどころか元禄10年(1697年)には光圀公自ら足を運び参拝しています。さらに潰した別当や供僧の石高は八幡宮に戻しているんです。改革では神社運営がシンプルになり存続しやすくなったと思います。
水戸藩の”八幡潰し”は光圀公の唯一神道化の思想に合わなかったためといわれています。八幡は早い時代から本地垂迹(神仏習合)に肯定的でした。神=仏の化身とする考え方なんですが、一方で光圀公は神=神としていました。
佐竹氏云々はあまり関係なく吉田神道の影響のようです。佐竹氏は60年以上前にいなくなっていますしね。
高萩八幡宮は社歴と朱印地があることによって一般の八幡神社とは区別され特別な待遇をされていたと思います。当時の宮司も光圀公の思想に共感していたようですね。鐘の献上をしています。
お寺のお取り潰しは「葬祭をせず祈祷ばかりの寺院はダメ」という方針です。詳しくは市内の能仁寺のブログをご覧ください。
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爺杉
社殿の左広報にあるのが爺杉です。
高さ約42m、幹周りは10mにもなる県内最大級の巨樹。そして驚くことに推定樹齢が1000年にもなるといわれています!
国の天然記念物に指定されていますが、落雷などの影響もありご覧の通り厳しい状況です。幹に大きな空洞化が見られ、倒木の危険性があるため約40年にわたって3回枝を伐採しており、幹の負担を軽減しています。
致し方ない事情ですが、少々残念ですよね。そう思っていたら高萩市とお隣の北茨城市の作家がその枝を使って作品づくりをされているそうです。
そのまま処分せず、別の形に生まれ変わっているんです。茨城新聞のありますのでぜひご覧ください。作品は一般の方もお買い求めいただけます。
爺杉の前に「白蛇」と彫られた石像があって、それが一体なにを意味するのか長らく気になっていました。その答えは最近建てられた立て札によって説明されていましたので紹介します。
昔、この地域の子供達の間で「息を止めて爺杉の回りを三周すると白蛇が現れ、願い事を叶えてくれる」という言い伝えがありました。
現在、爺杉の回りを歩くことは出来ませんが、昔の言い伝えに思いを馳せ、お参りしましょう。
へぇ〜!そんな面白い話があったのですね!
公式Xのポストに周り方がありました。ぜひご参照ください。
白蛇というと『日本書紀』で日本武尊と対峙した山の神(古事記では白い猪)を思い出しますね。日本武尊は蛇を山の神の使いと誤解して踏みつけて進行。それが神の怒りを招きひょうを降らされ倒れることになったのでした。
戦いの舞台となった伊吹山は日本武尊にとって戌亥(西北)の方角にありました。八幡神は戌亥の守護神ですから当社の白蛇伝説は日本書紀との繋がりを感じます。もっともこちらは遥かに平和的ですけどね。
また、男女が柱の前で周るというのは、伊邪那岐と伊邪那美の国生み神話を思い出しますね。その場合は伊邪那岐が左、伊邪那美は右周りでした。それで先に女性から声掛けをしたことで蛭子が生まれたのでした。
この説話は陰陽説との関係が考えられます。男性は陽、女性は陰の存在。それぞれの陰陽に従うことで願いが叶えられ、ということかと思います。
図書館
手水舎の裏手にあるコンテナはじつは図書館なんです。宮司の奥さんの蔵書が集められており、その数はなんと四千冊!読むことはもちろん借りることもできるのです。朝日新聞でも取り上げられました。
ジャンルは幅広く、個人的には記紀神話に関する本がいくつもあったのが印象的でした。さすが神職の家。特に大洗磯前神社の社伝に関するものが興味深かったです。
開館時間は朝10時から午後4時まで。社務所と同じですね。性質上、雨の日は閉館となります。
境内の見どころアレコレ
八幡宮の境内はちょっぴりユニークなものがたくさん。まとめてご紹介します。
社殿の右手にある戌亥碑です。戌年と亥年生まれは八幡さまが守り神。これは八幡神の本地仏が阿弥陀如来であり、同如来が戌亥の守り本尊とされていることに由来します。
頭を撫でるとご利益があるんですって!戌は安産、亥は足腰堅固です!
こちらは結び石。願い事を紙に書いてポストに入れると、毎月お焚き上げをしてくれます。
和合円満とありますからきっと縁結びですね。
流心鉢は水に流したいことを紙に書いて鉢の中でかき混ぜます。
その際に「心身のバランスがとれ均衡が保てるようにお参り」します。しゅわっと消えていく感じがお焚き上げなどとは少し違いますね〜
由緒ある神社ですが、時代にあわせた変化を感じます。近隣のご年配の方はよくご存知なので若い方へ向けてなのでしょう。
御朱印帳や神玉巡拝など新しい取り組みが見えますのでこの先も楽しみですね。今年の神幸祭も期待しているのでまた参拝させていただきます♪
御朱印
高萩八幡宮の御朱印です。社殿の向かって左手にある社務所でいただけます。現在は書き置きのみになるかと思います。
最近はこのようなカラフルな御朱印も頒布しています。白蛇とのコントラストがかっこいい!市内在住の鈴木赫鳳氏(書家)と中村光夫氏(画家)による合作です。
他には市杵島神社の御朱印、それに時々限定の御朱印が頒布されます。
『茨城新聞』の「いばらき御朱印めぐり」の記事には鈴木禰宜の「七五三の参拝者減少などで、このまちの少子化を肌で感じる。御朱印や神社でのイベントを通じて、まちを盛り上げていきたい」とありました。
令和6年には神使の御朱印巡りもスタート。当社の白蛇、助川鹿島(日立市)の鹿、御岩神社(日立市)の龍の御朱印をいただくため三社をめぐります。台紙付きなのは非常に珍しいですね!
当社の御朱印は今後もさまざまな展開があるかもしれませんね。
もし社務所が閉まっていたら宮司宅でいただくことになります。宮司宅は本殿の裏の方にありまして、爺杉の脇の道をお進みください。一番奥にありますよ。
・高萩八幡宮は高萩地方で最大の神社
・由緒ある神社で光圀公に保護された
・御朱印は市杵島神社と2種類。限定もあり。社務所不在なら宮司宅でいただける
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