川口の水天宮の錨|土浦市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

いかりとは船が流されないように固定するための重り。

でも、Googleで検索すると次のような意味も表示されます。

いかり

【錨・碇】
1. 1.
船が流れないために、綱や鎖につけて水底に沈めておくおもり。普通は鉄製で、たこの足状。
 「―をおろす」(転じて、停泊する)
2. 2.
形が⑴に似た、物をひっかけてつりあげる道具。

土浦市川口の水天宮すいてんぐうには、2の意味で使われた錨があります。では、なにをつりあげていたのでしょうか。

今回はあまり語られていない水天宮の由緒と錨についてご紹介します。

水天宮とは

水天宮のある通り

水天宮のある通り

川口の水天宮は土浦駅の東口。霞ヶ浦を走る遊覧船乗場の入口付近にあります。東口を出てから歩いて10分ほど。

ちょっとわかりにくい写真ですが、道路の左手に遊覧船乗場、奥に駅、右手に水天宮です。水天宮のさらに右手はJ-COMスタジアム土浦となっています。

水天宮(右)、水神宮(中)、寿寅稲荷大明神

水天宮(右)、水神宮(中)、寿寅稲荷大明神

正面から見た写真。木があってやはりわかりにくい。。水天宮の他に2つのお社があります。一番右が水天宮、真ん中が水神宮、左が寿寅じゅえん稲荷大明神です。

水天宮は江戸時代の1840年(天保11年)に久留米藩(いまの福岡県のあたり)の水天宮を分霊したことにはじまります。

なぜ、久留米藩かといいますと、当時の土浦藩主 土屋寅直ともなおのもとに久留米藩主 有馬頼徳よりのりの三女 竹姫が嫁入りする際、一緒にお迎えしたからです。もともと土屋藩邸にありまして、いまの場所にやってきたのは1958年(昭和33年)です。

ご祭神は安徳天皇、平徳子(建礼門院)、平時子(二位の尼)、そして天之御中主あめのみなかぬしです。はじめの3名は歴史に詳しい方はご存知かと思います。

安徳天皇はわずか6歳のときに源平合戦の終焉の地である壇ノ浦で祖母の平時子に抱かれて入水しました。その後、生き延びた平徳子(安徳天皇の母)が安徳天皇と平時子を筑後川流域に祀ったのが水天宮です。

天之御中主は久留米藩主の有馬家が久留米にやってくる前から信仰していた有間神社のご祭神です。後年、水天宮のご祭神に加えられたかと思います。

水天宮(久留米)の由来には次のようにあります。

古来より水の神として農業・漁業・船舶業者のみならず、子供の守護神、安産、子授の神としても人々の信仰が篤く、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされ御報賽として御安産の後、鳥の子餅を御内々に御献供遊ばされた。このように御霊験あらたかにより、明治元年10月3日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられた名社である。
水天宮の由来/水天宮公式

当時の土浦は霞ヶ浦の水害が多かったので、水の神をお祀りして厄除けをしたかったのかもしれませんね。

社殿

鳥居

鳥居

水神宮の社殿は大きくありません。青い屋根の建物は覆屋といって本殿を保護する役目です。

社殿

社殿

覆屋の中にある本殿は撮影していませんが、大変素晴らしい造りで市指定の文化財です。総檜造そうひのきづくりで細かな彫刻、ぜひ覗いてみてください。

明治初期の作られたといわれますので、100年以上の歴史があります。

力石

力石

力石

社殿の右手には力石。こちらも市指定の文化財です。

力石とは。。重たい石です!

身も蓋もないですが、本当にその通りなんです。用途としては力比べに使われたりします。おまつりとか人が集ったときの娯楽だったのでしょう。県内では東国三社の息栖神社(神栖市)にも置かれています。

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左が38貫、右が50貫。1貫=約3.75kgですから、150〜200kgくらいになる計算。いままで持てる人いたのかな。。

水天宮の錨

水天宮の錨

水天宮にお参りをして社殿右手前の錨に気づかれた方は多いでしょう。でも、境内には特に説明がないんですよね。

「名前に『水』がつく神社だから漁師が奉納したのかな〜」と思うでしょうが、じつはちょっと違うんです。

この錨は霞ヶ浦で水難(主に溺死)に遭った方を見つけるためのものです。

土浦は江戸時代から宿場町や物流の拠点として栄えていました。明治になると鉄道(常磐線)がしかれ、大正には筑波線が開通。昭和になると土浦と潮来を結ぶ遊覧船あやめ丸&さつき丸が走るようになりました。

多くの方が訪れるようになったのはよいのですが、一方で水難も増えました。ボートの転覆や泳ぎの途中に溺れてしまうなど理由はさまざまです。

事故の発生がわかると漁師や船大工に連絡が渡ります。そして水天宮で錨を借りて取り付け、何艘もの舟が霞ヶ浦を走るのです。錨は湖底ギリギリまでおろして遺体に接触するようにします。

これらは本来の仕事の手を止めて行う奉仕作業(ボランティア)です。多くはその日のうちに見つかるのですが、ときには3日以上かかったとか。いまなら消防や警察が出動する事件です。

遺体が発見されると、捜索者は遺族からお礼として納められたお酒でお清めをします。そして後日、遺族は鍛冶屋で錨をつくってもらい、水天宮にお礼参りをするのです。

土浦の民話の水天宮の挿絵

土浦の民話の水天宮の挿絵

こちらは錨を紹介する『土浦の民話 下』の挿絵です。実際と違うかもしれませんが、湖岸が整備される前は神社のすぐ前から舟が出ていたようですね。

遺体を放置しないのは当然のことですが、むかしからこの地で遺体の尊厳を大切にしていたことが伝わってきます。もしお参りする機会がありましたら、このようなお話も思い出していただければと思います。

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錨は周辺の町や村からも借りに来ることがありました。土浦の水天宮の錨なら必ず浮かんでくるとも言われていたそうです
MEMO

むかしは毎月5日に水天宮のお祭りがあって川口は賑わいましたが、戦後になくなってしまいました

アクセス

名称水天宮
住所茨城県土浦市川口2丁目12
駐車場なし
Webサイト全国総本営 水天宮
水天宮(東京日本橋)

まとめ

土浦市川口の水天宮は福岡の水天宮から分霊してはじまりました。

かつて水難が遭った際には水天宮の錨が使われ、多くの遺体が遺族の元へ渡りました。

捜索は地元の漁師や船大工を中心に奉仕作業として行われました。

参考文献

土浦市史 民俗編/土浦市史編さん委員会
土浦の民話 下/著:岡部智子