wata
スカッとする場所に行ってきました。北茨城市の五浦海岸です。
この地を「気持ちい~!」と感じたのは、岡倉天心も同じ。天心のことは最近知りましたが、調べるほど面白い人物。東大卒でエリート官僚へ。そこから美術学校の校長になったはいいですが、騒動で辞職。。波乱万丈の人生です。
五浦海岸は天心が晩年を過ごした地。景色が良くて魚が美味しかったからだとか。実際に足を運んで感じましたが、たしかにのんびりと過ごすには最高です!
今回は岡倉天心はどんな人だったのか、ゆかりの六角堂を訪ねながらご紹介します。
岡倉天心とは
岡倉天心はさまざまな功績があります。こちらでは人となりがわかるような紹介をします。長めなので観光地について知りたい方は次の『五浦海岸』の項目からお読みください。
天心は本名ではありません。創作活動をしたときに使われた号(別名)です。本名は岡倉覚三(幼名は角蔵)。生前はほとんど天心と呼ばれていません。
1875年(12歳)。現在の東京大学に進学。英語が堪能だったことから通訳として大学の恩師フェノロサの美術品収集の助手を務めることになりました。
1880年(17歳)。大学卒業のために書いた論文は国家論。覚三は幼いころから政治に興味があったんです。しかし、論文は奥さんの”やきもち”によって、ビリビリと破かれてしまいました。困った天心は記憶を辿りながら大急ぎで美術論を書き上げます。これが文部省への進路へつながります。
官僚時代は上司・九鬼隆一のもとで美術行政に関わりました。教育のために古いお寺や神社を調査した際には、仏像や掛け軸を丁寧にスケッチしています。日本の文化と芸術に同時に触れたことで、情熱を燃やしていたのでしょう。
熱心な調査がきっかけで仏教を信仰することになったそうです。調査の目的は教育のために美術品を保存し展示するためでした。その後も美術教育のためにフェノロサと欧米視察をするなど精力的に活動します。
1890年。27歳の若さで東京美術学校(現在の東京芸術大学)の校長に就任。美術論の教え子には横山大観、下村観山、菱田春草ら、芸術界のスーパースターがいました。
1898年(35歳)。東京美術学校では騒動があり、校長を辞職。日本の芸術の発展は諦めず、資金を集めて日本美術院を設立。一緒に学校を辞めた教え子たちとともに新たなスタートを切ります。
しかし、問題が発生しました。日本美術院が経営難に陥ったのです。横山大観や天心自身の不在が長かったせいでした。
茨城県との関わりはここからです。1903年(40歳)天心は美術院の再興を目指し新たな拠点を探していました。そこで知人に紹介され茨城の景勝地・五浦にやってくるんです。もともと福島の海岸周辺で探していたんですけどね。
五浦を案内したのは北茨城出身の門下生・飛田周山。天心に案内を頼まれた周山は大いに戸惑ったとか。そのとき周山は26歳。偉大なる元校長の案内はさすがに。。
天心は五浦の景観をとても気に入りました。そして五浦へ学校移転と生徒たちとの移住を決断するんです!1906年のことです。
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天心の本名『角蔵』は屋敷の『角の蔵』で生まれたことに由来。兄の名は港一郎。横浜の港で生まれたことに由来します。天心のお父さんはあまり名前にこだわらなかったようです。
天心の大学卒業時の成績は卒業生8人のうち7番。文学はぶっちぎりでしたが、数学は最低レベルといわれています。
五浦海岸
五浦海岸は5つの浦があることから名付けられました。これからご紹介する六角堂の周辺には大五浦と小五浦があります。少し移動すれば違った景観を楽しめるのがいいですね。
五浦海岸には天心ゆかりの六角堂があります。300円の入場料を支払うと天心が住んでいた天心邸と六角堂を見ることができます。天心の業績を辿るものがたくさんありますよ♬
天心邸
天心邸です。シンプルな建物ですね。素晴らしい景観の場所にあります。五浦美術館のサイトをご覧ください。天心邸で撮られた記念写真には天心や横山大観などがいます。
『亜細亜は一なり』の碑
石碑には天心の横顔と天心の言葉「亜細亜は一なり」があります。戦争のスローガンとして利用されましたが、天心は平和主義です。
1906年。天心(岡倉覚三)はアメリカで茶の本(The book of tea)を発表しました。茶(茶道)を通して日本を語った本ですべて英文です。そこから天心の考えが伝わる部分(日本語訳)を引用します。
もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
茶の本/岡倉覚三 訳:村岡博
西洋に対して強烈なメッセージを残しています。日露戦争に勝利したあとですが、さらなる戦いを望んでいません。
茶はいまの中国の地から伝わりましたが、日本で独自の発展を遂げて芸術の域に達しました。発展は日本が世界から孤立して平和だったおかげとあります。平和でなければ文化の発展どころでありませんからね。
茶の本は単なる日本文化の紹介ではなく、日本が文明国で平和を願っていることを海外にアピールしたものです。
六角堂
六角堂です。海にせり出たところにあります。
六角堂は天心にとってよほど重要なことだったのでしょう。自ら設計しました。天心自身は六角堂を観瀾亭と呼んでいました。瀾は大波という意味ですので文字通り大波を見るための建物です。
解説によれば、天心は無限に繰り返される波を見ながら宇宙を感じていたのだとか。哲学的で天心らしいです。
海の上にあるようなものなので、2011年の東日本大震災で発生した津波によって建物がすべて流されてしまいました。そのため、現存する六角堂は1905年に天心が建てたものではありません。茨城大学を中心に県建築士会やたくさんの寄付によって2012年に再建されました。
六角堂は震災復興のシンボルでもあります。この場所では当時の苦しかったことと一緒にたくさんの善意も感じられます。
アクセス
名称 | 五浦六角堂 |
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住所 | 茨城県北茨城市大津町五浦727-2 |
TEL | 0293-46-0766(茨城大学五浦美術文化研究所) |
Webサイト | 観光いばらき内 |
駐車場 | 第一駐車場… 普53台 軽7台 バス4台 |
休日 | 月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日休) 年末年始12月29日~1月3日 |
料金 | 300円(中学生以下は無料)※団体(20名様以上)は250円 |
天心の墓
天心は1913年9月2日に50歳の若さで亡くなりました。東京都の染井霊園に埋葬されましたが、辞世(亡くなる前に残す和歌や俳句)にしたがって、亡くなった同年に五浦にも分骨されています。辞世は以下です。
我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影
岡倉天心
わたしには意味がよくわかりません。浜千鳥は浜辺の鳥ですから、五浦のことだと思います。ただ、そのあとは。。なんとなくさみしい雰囲気がしますね。どなたかなんとなくでも読み取れたら教えていただけるとうれしいです。
墓は六角堂のすぐそばです。駐車場から歩いてくる途中にありますが、気づかなかったら六角堂の受付で尋ねれば教えてくれますよ。
五浦岬公園
六角堂まできたら、ぜひ五浦岬公園もお立ち寄りください。映画『天心』のロケセットがあります。近すぎてよくわからなかった六角堂も公園からならよく見えます♬ちなみに写真の左下の方にあるのがロケセットです。
『天心』は内容のほかに重要な意味があります。公開されたのは2013年。被災地の復興と被災地の元気を発信するためでした。映画のメッセージは「ここからはじまる」。天心が五浦で苦しみながらも日本美術院を再建したことに合わせているのですね。
映画『天心』ロケセット
『天心』で使われた『日本美術院研究所』のロケセットです。本物の研究所はもう少し離れたところにあったのですが、すでに建物がなかったので撮影のためにセットをつくりました。映画で使われた品々の他、写真で撮影風景を紹介しています。
研究所では絵画の創作がされました。参加したのは横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山です。参加と言っても移住です。日本を代表する画家たちが五浦に集まっていたのはスゴイことですね!
さまざまな創作がされましたが、有名なのは朦朧体の改良です。朦朧体ははっきりした輪郭をもたない画風です。ぼんやりしている、朦朧としているから朦朧体。もとは画風をからかう言葉だったそうです。
朦朧体の登場は画期的なことでしたが、理解されるまで時間がかかりました。研究所での改良があったから魅力が伝わるようになったのでしょう。
展望台
高所恐怖症でなければ、展望台もオススメです。太平洋と五浦海岸の景観を楽しめます。六角堂がとっても小さく見えますね!
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アクセス
名称 | 五浦岬公園 |
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住所 | 茨城県北茨城市大津町五浦 |
TEL | 0293-43-1111(北茨城市観光協会) |
駐車場 | 20台まで駐車可 |
まとめ
五浦海岸は思想家の岡倉天心が晩年を過ごすために選んだ地です。
景色や魚料理が魅力的ですが、天心の功績を辿ってみるとさらに奥深く楽しめます。お散歩がてら足を運んでみてください。
特に天気のいい日は最高です。季節問わずオススメです!
参考文献
私たちはもっと天心に近づきたがっている/編:桂木なおこ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。