【天妃さん】磯原の弟橘媛神社|北茨城市【光圀勧請】

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

日本人の信仰といえばまず思い浮かぶのが神道と仏教。 きっと道教と言われてもピンと来ない人がほとんどのはず。 道教は中国の土着の宗教です。中国版神道のようなものですね。

道教は仏教や儒教と違って日本に公式に伝わることはありませんでした。しかし民間ではちょっとだけ伝わっているのです。 今回は北茨城市の弟橘媛おとたちばなひめ神社をご紹介します。かつては天妃てんぴを祀る道教由来の神社でした。

この記事でわかること

  • 神社の由緒とご祭神
  • 「天妃」とご祭神の交代について
弟橘媛神社
弟橘媛神社

由緒

以下の由緒は主に『茨城県神社誌』を参考にしています。

元禄3年/1690年
創建

水戸藩主徳川光圀の命により、明の東皐心越禅師の天妃像を海上守護の神として鎮祭。磯原と大津両村の鎮守とした。それ以前は薬師如来と十二神将を祀っていたという。

天保2年/1831年
改称

水戸藩主徳川斉昭公の命により、社号を現在の弟橘媛神社に改める。

明治21年/1888年
村社列格
昭和27年/1952年
宗教法人設立
昭和11年/1936年
屋根を銅板に葺き替え

創建壱千百季記念

昭和54年/1979年
由来書の立て札建立
平成13年/2001年
神永喜八翁顕彰碑を建立

*喜八翁は石炭業の祖といわれる

主祭神は弟橘媛おとたちばなひめ、配祀が竜宮船魂神(実態は天妃)です。主祭神はヤマトタケルの妻とされ、『古事記』や『常陸国風土記』にも登場します。茨城では水戸の笠原神社(笠原明神)で祀られております。

上記は江戸時代後期からで、創建された光圀公の時代は主祭神が天妃(天后聖母)でした。天妃信仰をもたらしたのは、水戸藩が招聘した儒学者・東皐心越(水戸市の祇園寺を開山)です。

天妃像と拓本(『常陽藝文 2007年4月』より)
天妃像と拓本(『常陽藝文 2007年4月』より)

天妃はいくつか異称があり、そのひとつが媽祖まそです。天妃はどちらかといえば格式張った呼び名なので、媽祖のほうが有名かもしれません。ふつうの人にとって馴染が薄いので以下の引用で解説します。

嬌祖信仰は、中国の福建省甫田ほでん県で、十世紀から十一世紀にかけて誕生した信仰である。林愿りんげんという人の六女は生まれて以来日もきけなかったが、道教の僧である道士が教えを授けたところ、吉凶禍福を予言する力を発揮しはじめた。死後、びょうをつくつてまつるうちに信仰が高まっていったが、甫田県は漁師や船乗りが多かったことから、航海の守護神として広まったといわれる。江戸時代に日本にやって来た中国人たちがこの神女を信仰したことは記録に残っており、神像として現存するものは、後に述べる長崎と坊津町の隣の笠沙町にあると知られていた。

日本の道教遺跡 P93|福永光司・千田稔・高橋徹

オトタチバナヒメはヤマトタケルの東征のため、その身を海に捧げることで海上に平穏をもたらしました。それが後に天妃の神徳に通じると考えられたのでしょう。

光圀公というと、歴史と信仰に厳格な姿勢をとっており、大規模な寺社改革をしたことで知られています。

そんな光圀公がそれまで日本にほとんど無かったであろう道教の神を認めたことはたいへんな驚きです。歴史がないし、日本人にふさわしいかどうかさえ不明。なぜ天妃は「あり」だったのか。面白いテーマだと思います。

しかし、斉昭公が率いる後期水戸藩となると天妃に対する姿勢は一変します。これは天妃信仰の実態が仏教寄りであり、神道を重視する藩の方針と異なることが問題となりました。

一悶着はあったもののご祭神は変更され、今のようになったわけですが、人の心の中まで踏み込むことは本来は時代にかかわらずあってはならないこと。というか不可能なので配祀の形で天妃が残ったのでした。

wata

地元での呼び名は今でも「天妃さん」です。

元来の神像(神体)は後期水戸藩によって曳き上げられました。村民は引き下げを嘆願するもののそれが叶うことはありませんでした。

アクセス

駐車場はかなり広いです。参拝者以外の方も利用しているのですが、止められないと言う事はまずないでしょう。むしろ神社の境内に対して駐車場が広すぎるような気も。とにかく駐車に心配はありません。

名称弟橘媛神社
住所茨城県北茨城市磯原町磯原196−1
駐車場あり
Webサイトなし

鳥居

鳥居
鳥居

弟橘媛神社の入口がこちら。海沿いの小島(=天妃山)が境内となっております。周辺はだいぶ開拓されたものの、ここだけは昔のまま。鎮守の森が残っており、なかなか雰囲気があると思いませんか。

天妃山は朝陽峰とも呼ばれ、常に明かりが灯され漁船の目印となっていたそうです。南の峰にはかがり火のほかに大旗を立てることもあったので旗の峰とも呼ばれたとか。

ちなみに天妃山というのは単なる通称ではなく、小字(今は使われていない)にもなっているのでポストがあったら郵便が届くのでしょうか。

立て札があったので読んでみると、大晦日の夜にはライトアップをして初詣の参拝者を迎え、元旦には御札の頒布をしているそうです。初日の出を拝むスポットにもなっているのだとか。

石段
石段

山道は、螺旋階段を上るようにぐるりと回りこみながら登っていきます。

あちこちの境内社
あちこちの境内社

道中には境内社や小さな祠が所々鎮座しています。どんな神社かわからないものが多いのですが、意味ありげな置物があるのを見ると、地元の方々は何か知っているのかもしれませんね。

拝殿

山頂付近にあるこちらの建物が拝殿です。南面しているため参道の正面にありませんでした。「君子南面ス」の故事に従っているのかもしれませんね。

扁額
扁額

扁額には弟橘媛以外に二柱の神を祀っていることが分かります。それでは雄都嘉おつか神社とはなんでしょうか。

詳細は不明ながら街中から合祀された神社のようで弟橘媛神社とは氏子が異なります。『茨城県神社誌』によれば、ご祭神は倉稲魂命と火産霊命。お稲荷さまや愛宕さんに近い神格かと思います。

心越の扁額(『常陽藝文 2007年4月』より)
心越の扁額(『常陽藝文 2007年4月』より)

今もあるかわかりませんが、拝殿の中には天妃を日本に伝えた東皐心越が揮毫した「福祐蒼生」の扁額が掲げられています。福祐と蒼生を合わせて、神の力によって多くの人々が救われるという意味でしょうか。

本殿

本殿
本殿

かなりわかりにくいのですが、拝殿の後ろに石段があり、その上に本殿があります。拝殿に向かって左側の境内社(雄都嘉ではなく熊野とあったような…)の方に進むと右側に経路があって本殿に近寄れるようになっています。

三つ葉葵の紋
三つ葉葵の紋

近づいてみると三つ葉葵の紋を発見!水戸藩との関係を示しているのでしょう。ただ、当社を潰しかねなかった後期水戸藩ではなく、光圀公のいた前期への意識が強いのではないでしょうか。

光圀公は改革で多くの寺社を潰したと言われていますが、その一方で由緒あるものは残し再興に尽力しました。人を惑わせるような信仰でなければ寛容であったことも特徴です。

それと比較すると後期水戸藩は方向性はともかく荒っぽいところがありました。確かに、後期水戸藩の主張するように当時の仏教は少々堕落していたところがあって、人々のためになっていなかった面もあるようですが。

寺社の存続には領民の費用や時間がかかりますから、藩としてはなんでもありに出来ないのは仕方ありません。無理に考えを改めさせても、当社のように面従腹背になってしまうことは学ぶべきでしょうね。

腰掛け石

腰掛石に続く参道
腰掛石に続く参道

拝殿の向かい側に山頂に続く道があって、その先は太平洋を見渡せる見晴台となっています。光圀公が腰かけたと言う石もありますので、記念に腰かけてみてはいかがでしょうか。それだと海が見えなそうですけど…

写真に見える立て札には「天妃山由来」が記してあります。それによると、天妃を祀る前にあった薬師如来像は村内の松山寺(曹洞宗)に渡ったとのこと。残念ながら同寺は今はもうありません。

それでは天妃の祭祀はどのようにしていたのでしょうか。詳しことは分かりませんが、どうも久慈郡長谷村(現在の常陸太田市)の密蔵院末であった行蔵院(修験)が別当を担っていたようです。

面白いもので、こうした光圀が腰掛けたという石はいくつもあります。時事かどうかはともかくとして、こうした伝説の石を巡ってみるのも楽しそうですね。

それとこの山頂付近には御神木の巨大な松があって、やはり漁船の目印となっていたといわれます。松は近年一気に失われているのですが、今も見ることができるのでしょうか。

山頂から見る太平洋
山頂から見る太平洋

山頂からの風景は絶景!探せば岩場に石祠が見えるそうなのですが、わたしは見つけられたことがないのです。そのとき忘れてしまっているからなんですけどね。この記事を読まれた方はぜひ探してみて欲しいですね。

漁民の信仰の篤い天妃さんは現在は佐波波地祇神社の兼務社となっています。『常陽藝文』の2007年4月号で同社宮司が面白い話をしているのでご紹介します。

現在、同社宮司は、北茨城市大津町の佐波波地祇神社の宮司・伊藤昭武さんが兼務している。佐波波地祇神社は「大津の御船祭り」で知られるが、伊藤さんによれば、この祭りのときは「天妃さん」にも参拝することになっている。また、大津や平潟の漁業関係者は正月と新造船の船出の時、天妃山沖で船を三回ほど周回させる習わしを持つという

船を周すというのは気になるところ。まるで山車の「のの字回し」のようです。それにより関係者の安全と健康の願いを叶えることにつながるのでしょう。

フォトギャラリー

まとめ

・弟橘媛神社は天妃を祀る神社だった。航海など海上の安全を守護する神徳があるとされる

・天妃を勘定したのは徳川光圀公。道教に対して理解があった

・水戸藩は前期と後期で天妃に対する姿勢が違う。後期は村民との関係が良好といえなかった

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
常陽藝文 2007年4月