【キツネの恩返し伝説】女化神社と奥の院|由緒・飛び地の理由・御朱印|龍ケ崎市

この記事でわかること
  • 飛び地にある理由
  • ”女化キツネ”の民話
  • 御朱印

全国に広がるキツネの恩返し伝説。初めて知ったのは小学校の国語の教科書にあったごんぎつねでした。

哀しくも感動的なお話だったので、マンガで書き残したことを覚えています。完成したあれはどこにいったんだろ。それはともかく龍ケ崎市と牛久市にもごんぎつねと同じくらい素敵な物語があるんです。

舞台は龍ケ崎市の女化おなばけ神社。『女化』は珍しい言葉ですよね。女に化けたキツネに由来します。物語は命を助けられた白キツネが、助けた男に嫁いで恩返しをするというもの。しかも美しい女性といいますから色々と夢があります。

今回は女化神社の由来となった物語をご紹介します。

女化神社とは

一の鳥居

一の鳥居

女化神社は龍ケ崎市の馴馬なれうま町に鎮座しています。

面白いのは周囲の住所が牛久市女化。つまり牛久市にぽつんと龍ケ崎の神社があるんです。女化神社はかつて龍ケ崎市の来迎院に守護されていたことから、いまも龍ケ崎の神社とされているそうです。

社伝によると女化神社の創建は永正6年(1509年)。後述する不思議な狐のいた場所に建てられました。はじめは稲荷大明神と呼ばれており、のちに女化稲荷社、保食神社、そして現社名と変わっています。

ご祭神は保食神うけもちのかみ。名前から連想するとおり、五穀豊穣のご利益があるといわれます。

来迎院の火防まつり〜世界平和と難民救済を祈願(龍ケ崎市)

駐車場

女化神社の駐車場は一の鳥居ではなく、社殿の東側に広がっています。

駐車場は神社の住所よりも、駐車場に隣接したお店(カラオケ一休み)を目指したほうがたどり着きやすい思います。

住所は”茨城県龍ケ崎市馴馬町5388-2”です。お試しください♪

鳥居

二の鳥居と社号標

二の鳥居と社号標

駐車場所から社殿に向かうとこちらの鳥居が見えるかと思います。参道はずっと続いておりますので、写真は二の鳥居です。駐車できるスペースが狭いので一の鳥居から参拝する方は少ないかな?

奉納された鳥居

奉納された鳥居

稲荷神社らしく複数の鳥居がありますね。女化神社で願いを叶えた方々が鳥居を奉納しているんです。

2月下旬に見頃を迎える梅

2月下旬に見頃を迎える梅

2月下旬ごろに参拝したら蝋梅と梅が咲いていました。蝋梅は終わりかけでしたが、いい香りしてました。梅はささやかですが、春の訪れを感じさせて風流でした

キツネ像

キツネ像左

キツネ像左

キツネ像右

キツネ像右

社殿の手前には狛犬の代わりにキツネ参拝者を迎えています。稲荷神社ではよくあることですが、こちらは子連れ。民話にちなんでいるかと思います。

社殿

拝殿

拝殿

拝殿は平成14年(2002年)に再建されたため、非常に新しく感じます。離れて見てもピカピカがわかりますね!

拝殿の稲を運ぶキツネの彫刻

拝殿の稲を運ぶキツネの彫刻

稲を運ぶキツネの彫刻。歯が見えるのでちょっと怖いんですが、楽しく遊んでいるようすのはず。。

キツネはむかしから田植えや収穫の時期にひょっこりと現れます。人々の大切な時期に姿を見せるので神の使いというイメージがついたそう。

扁額

扁額

扁額は横書き。意外と珍しい!?

明治4年の額絵

明治4年の額絵

拝殿の額絵は2つ。ひとつはおそらく女化神社なのでしょう。境内の造りがほとんど同じです。屋根の上に御幣が見えますのでご祭神が降りてきているのかな。明治4年(1871年)に奉納されたとあります。

天の岩戸神話?の額絵

天の岩戸神話?の額絵

もうひとつは天岩戸の伝説のように見えますがいかがでしょう。輝いているのが天照大神。左側の女性は天宇受賣命かと思いますが。。服を着ているので違うかも。

本殿(覆屋)

本殿(覆屋)

本殿は立派な覆屋で保護されています。後ろから内部を覗けるようになっています。じつは本殿自体はあまり大きくなかったりするんです。

覆屋の中の扁額

覆屋の中の扁額

また内部には大正12年(1923年)に奉納された扁額があるのですが。。「千葉懸東葛飾郡大柏村」とあります。じつは女化の信仰は千葉県にも広がっているんです。かつて宮司が千葉県にいらっしゃったことに由来すると思います。

wata

また、神社がもっとも賑わうのは元旦と初午です。初午は旧暦2月の最初の午の日です。毎年違っていますのでカレンダーの暦をチェックしてみてくださいね!

民話『キツネの恩返し』

女化キツネ

女化神社の創建は、この地域に伝わる民話と深い関係があります。民話には諸説あって、牛久市観光協会と龍ケ崎市のWebサイトにも内容があります。

わかりやすい牛久Verを以下に引用します。

むかし、根本村(現在の新利根村根本)に忠五郎ちゅうごろうというやさしい若者がいました。ある日、土浦でむしろを売っての帰り道、女化ヶ原おなばけがはらにさしかかると一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていたので、忠五郎が大きなせきばらいをしてきつねを逃がしてあげました。「ひとの仕事を邪魔しやがって」と猟師は怒りましたが、筵の売上全部を出して謝りました。

その夜のこと、忠五郎の家に若い娘と老人がたずねてきました。「奥州から鎌倉へ行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」忠五郎は二人を泊めてあげました。翌朝、忠五郎が目をさますと、下男げなん路銀ろぎん(お金)を持ち逃げされてしまったと娘が泣いていました。 そこで娘は忠五郎の家にしばらく居ることになりました。八重やえという この娘は、この世のものとは思われない美しさで気立てのやさしい働き者で、やがて忠五郎の嫁になりました。

幸せな家庭に8年の月日が流れ、つる亀次郎かめじろう竹松たけまつという三人の子供に恵まれました。ある秋の日、八重は竹松の添寝そいねをしているうちに寝いってしまったところを遊びから帰ってきた子供たちが見ると、母親に大きな尻尾しっぽが出ているではありませんか。「大変だ~、おっ母かあがきつねになっちゃった~!」 と腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんでいきました。
忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、「みどり子の母はと問わば女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」という書き置きだけがありました。

忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追ってくると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。「おっ母!出て来ておくれ。」と涙ながらに呼びかけました。すると中から「こんな姿になって、もう会うことは出来ません。」と声がしました。「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ!」「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジーッと見つめ、「私がおまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。この穴は、女化稲荷の北方300m位の所にあり、お穴として祀まつられています。
牛久市観光協会

本家にはさらに続きがあり栗林義長くりばやし よしながが登場します。義長は実在の人物。伝説によれば八重の孫かひ孫にあたります。史実と伝説が入り混じった不思議なお話です。

ところで、龍ケ崎と牛久では、男の名前が忠五郎と忠七ちゅうしちで違っています。これは参考にしているものが違うから。

忠五郎は、女化神社の縁起にある名前です。(境内の立て札にも登場)その他だと東国戦記実録、女化騒動記、牛久騒動女化日記など。忠七は常総軍記、常久肝胆夢物語などで使われています。

女化伝説は『葛の葉』との関係も気になるところ。陰陽師・安倍晴明を生んだ葛の葉と義長を生んだ八重はなにか関係あるのでしょうか。

wata

上で紹介した本のタイトルの『騒動』は6000人規模の農民一揆のこと。一揆の記録を残すはずが、なぜか神社にまつわる伝説を書いています。よほど女化の縁起を大切にしているのですね。

明野の安倍晴明伝説|宮山ふるさとふれあい公園・晴明橋公園|筑西市

瀧夜叉姫と安倍晴明の伝説(つくば市・筑西市)

奥の院

奥の院の鳥居

奥の院の鳥居

八重が消えていったとされるお穴(奥の院)は神社から少し離れた場所にあります

場所は神社の社殿裏から300mほど直進したところ。グループホームの前を通ってさらに進むと鳥居が見えるはず。駐車場がないので以下を参考に神社から歩きましょう。

奥の院

奥の院

非常に静かな場所です。

ここは神社と直接関係がありません。おそらく民話にちなんで近隣の方々が先祖代々信仰されていると思います。

奥の院内の祠

奥の院内の祠

あまり人がこない場所と思うかもしれませんが、新しいお供え物がありました。なんどか来ていますが、そのたびにお酒やお赤飯があります。

よく清掃されていますし、とても大切にされている場所だと感じます。

御朱印

女化神社の御朱印

女化神社の御朱印

女化神社の御朱印です。初穂料は300円。

参道の左側にある社務所でいただけます。神職の方がいらっしゃったのでじっくり書いていただきました。整った美しい字ですね!かっこいい♫

アクセス

名称女化神社(女化稲荷神社)
住所茨城県龍ケ崎市馴馬町5387
駐車場あり
※奥の院には無し
Webサイト牛久市観光協会内
茨城県神社庁内
例祭旧暦2月の最初の午の日…例祭

もうひとつの女化神社伝説

図書『茨城の史跡と伝説』

図書『茨城の史跡と伝説』

茨城新聞が編さんした『茨城の史跡と伝説』に女化神社の縁起があります。でも、ご紹介したものと大きく違うんです。男が猟師からキツネを助けるところは同じなんですが、助けた男が栗林 義長くりばやし よしながです!

義長は先にご紹介した伝説では白キツネ(八重)の子孫。なぜ、まったく違う物語が存在するのでしょうか。

義長は岡見氏の年老いた老臣として登場。妻に先立たれて寂しく生活しています。あるときつくばの神社でお参りをした帰りにキツネを助け、ふたたび訪れた際に亡き妻の姿をした女性と出会うのです。義長は「蘇った」と喜び連れて帰るのですが、その正体は。。

義長がお参りした神社はつくば市の飯名神社。女化神社と同じ保食神がご祭神です。ただ、この神社は江戸時代に祀られるようになった市杵嶋姫いちきしめひめ命の方が人気なんですけどね。

飯名神社と龍ケ崎は深い関係だと思います。龍ケ崎市はかつて稲敷郡だったのですが、稲敷郡の由来は分霊された「飯名神の敷地」ともいわれます。飯名の敷地→稲敷。

女化伝説は飯名神社とも関係ありそうです。

天才軍師 栗林義長の伝説〜狐の子孫(牛久市)

【貴重な御朱印頒布】飯名神社の初巳祭|駐車場・弁天信仰について|つくば市

根本女化稲荷神社について

根本女化稲荷神社

根本女化稲荷神社

ほとんど知られていませんが、女化神社はここだけではありません。わたしが知る限りでは、茨城に1、千葉に3社あります。

どうして女化以外に女化神社があるのか。別記事にまとめましたのでぜひご覧ください。

根本女化稲荷神社〜もうひとつの女化神社|稲敷市

女化神社のある住所が龍ケ崎市である理由

記事のはじめの方で当社の鎮座する住所が牛久市内にある「龍ケ崎市馴馬」なのは来迎院との関係と説明しました。それについて、『常陽藝文』の2010年9月号でさらに詳しいあったので引用してご紹介します。

 同神社の話によると、ここは江戸時代は馴馬村の村社であった。馴馬村は明治二十二年(一八八九0の市町村制施行により合併で馴柴村馴馬になり、さらに昭和二十九年(一九五四)からは龍ケ崎市馴馬村となって現在に至っている。主にこうした歴史・村社時代の経緯から今も龍ケ崎市に属し地名も龍ケ崎市飛び地としての馴馬町女化になっているという。
 馴馬村の村社であったのはなぜか。それには、江戸時代に火災で社殿が焼失した後の再建が関係していると考えられる。茨城県神社庁発行『茨城県神社誌』所収の「女化神社」によると社殿は享保十四年(一七二九)と文久元年(一八六二)の二度、野火のため類焼している。この二度の災難を乗り越え文久二年(一八六二)に再建された社殿が平成十四年(二〇〇二)に現在の社殿が新築完成するまで、長く存続した。
 江戸時代の再建には馴馬村の有力者が尽力し、また神仏習合の時代とあって同社天台宗の寺・来迎院が再建と神社の維持にかかわっている。
牛久市域に龍ケ崎市飛び地の女化神社

要するに女化神社と氏子との結びつきは強固にして同社は馴馬の村社なのだから、住所も馴馬であるのが相応しいということなのでしょう。民意が行政の都合より優先した形ですね。

まとめ

この記事のまとめ

  • 女化神社の創建には女化キツネの伝説がある
  • 牛久市内に龍ケ崎市の神社があるのは来迎院の守護されていた関係
  • ”女化キツネ”は助けてくれた男性に嫁いで家庭を築いた
  • 御朱印を配布している

参考文献

狐から生まれた男 -幻の戦国武将・栗林義長-/著:金子敏
茨城県の民話/編:日本児童文学者協会
茨城の史跡と伝説/編:茨城新聞社
茨城「地理・地名・地図」の謎/監修 小野寺淳/じっぴコンパクト新書
伊奈町の歴史散歩/伊奈町社会教育・口座・歴史教室編/ふるさと文庫(筑波書林)

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