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日本の神話にはたくさんの神様が登場しますが、星の神といえるのはごくわずか。そのため社号に星がつくと惹かれるものがあります。
大抵は仏教や道教の思想が混ざっているので説明するのが難しいのですけどね。。というわけで今回は龍ケ崎市で見つけた星宮神社を紹介します。
珍しいタイプの神社ですので、いつもと違った参拝を楽しみたい方は足を運んでみましょう!
記事の写真は撮影日が異なるものがあります。
由緒
正月13日、肥後国の八代郷八代(熊本県八代市妙見町)の八代神社(妙見宮)から妙見菩薩を分霊して星大明神として創建
4月13日、土浦城主常陸大掾平貞盛により社殿拝殿を寄進
古谷傳左衛門が石鳥居を奉納(同家は美濃源氏、金刀比羅大権現を信奉)
4月、星大明神を星宮神社と改称。神仏分離し祭神を天之御中主大神とする
※『茨城県神社誌』では星野大明神を星野宮神社に改称
※4月
※7月
※4月13日
*御大典記念
ご祭神は天之御中主大神です。造化三神にしてすべてのはじまりの神ですね。社伝によればこの神号を称したのは神仏分離した明治以降。それ以前は「星大明神」です。
ただ、13日を縁日とする由緒からは星大明神の本地とされる虚空蔵菩薩の信仰が強かったのではないかと思います。虚空蔵菩薩といえば十三参りや十三夜講の本尊として知られる智慧を与えてくださる仏さまです。
天慶年間に平貞盛が社殿を寄進したのは当社の妙見信仰に基づいてといわれるので、古くは妙見菩薩が本尊かもしれません。妙見菩薩は北極星の神格化ですから天の中心を称する天之御中主大神と習合しました。
史料がないので定かでありませんが、星大明神(あるいは妙見菩薩)は天之御中主大神と虚空蔵菩薩をあわせたような存在と捉えておくのが妥当ではないでしょうか。
余談ですが、当社が鎮座する若柴では「ウナギを食べると目がつぶれる」という言い伝えがあります。ウナギが虚空蔵菩薩の眷属とされるためといわれ、当社に限らず妙見信仰のある地ではこのような伝承が見られます。(さいきんはあまり気にしないことが多い)
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アクセス
最寄りのICは圏央道の牛久阿見ICかつくば牛久IC。下りてから約15分ほどです。243号の信号(若柴配水場入口)を南西(旧水戸街道)に入っていけば右手に見えてきます。
駐車場は鳥居を正面に見て右側です。初詣などでなければ問題なく停められるでしょう。
名称 | 星宮神社 |
住所 | 茨城県龍ケ崎市若柴町683番地 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居と手水舎
ふだん神社に参拝する時間はだいたい10時以降から。この日は初詣だったので8時頃に参拝しました。混雑はしていませんでしたが、駐車場にはギリギリ停められた感じ。
天気に恵まれ境内には明るい声が聞こえてきます。前年には皆さん色々あったかと思いますが、「あけましておめでとうございます」が飛び交う賑やかな境内でした。
鳥居には独特なしめ縄が飾られていました。中央に下げられているのは角樽と呼ばれています。角樽はこの辺りでも珍しいようで周辺の神社では見られない形だそうです。
郷土史によればしめ縄を改めるのは正月の祭りの日(元旦とは別)。しかし、境内の行事予定には12月にしめ縄張りがあるので元旦には新しくなっているようです。祭りも時代にあわせてアレンジされているようで。
手水舎の手前には由緒書。立派な案内板ですね。境内には神社の歴史や携わった人々を伝えようとこのような案内がいくつもありました。氏子によって大切に守られているとわかります。
お隣の手水舎には「宝暦十二年」「十三夜講」の文字が見えました。宝暦十二年は西暦1762年です。
当社の社殿は中世時代が抜け落ちており、古代を除くと寛政4年(1792年)の西国巡礼の碑が最古。だとすればこの手水舎により記録更新でしょうか。なお、同碑には「星大明神は本地虚空蔵菩薩なり」とあります。
「本地」とは虚空蔵菩薩(本地)が星大明神(垂迹神)に姿を変えて祀られているという意味です。神仏習合の時代、仏は相手や状況にあわせて姿を変えると考えられていました。いわゆる本地垂迹説ですね。
一力長五郎の灯籠
手水舎から社殿に向かう途中、両脇に立派な灯籠が並んでいます。概要を立て札から引用します。
一力長五郎の略歴
]長五郎は当地冨士の下出身の力士。幕末期の江戸大相撲で活躍。本名は山崎安好で文化十一年(一八一五)生まれ。安政六年(一八五九)前頭筆頭に昇進、上位陣に強く大物食いの長五郎と言われた。同年八月巡業先の奥州一ノ関で病没(四十四才)。
星宮神社には長五郎が奉納した燈籠二基がある。死を前に「牛久沼越に富士山の見える場所に墓を作ってくれ」と遺言を残した。文久三年(一八六三)地元有志により冨士の下の牛久沼が見える場所に墓が建てられた。
地元出身の力士により建てられたのですね。ただ、これにはもう少し深い事情があるようです。『牛久沼ドットコム』から引用します。
長五郎の伝説
昔、常陸国若柴村生まれで、一力長五郎安好という力士がいた。、彼の不運は日立での地方巡業の時だった、領主の若君が突然土俵の上に飛び出したので、長五郎は、危ない!と叫び、土俵にかけあがり、若君を抱き起こした。しかしこれが裏目で若君に対する暴力をふるったものとして、長五郎は処刑されてしまった。長五郎は死を前にして「牛久沼に逆さ富士の映る美しい場所を選んで埋葬してくれ」と、遺言を残した。そして弟子たちによって若柴村富士ノ下の地に石碑を建て手厚く埋葬された。
牛久沼ドットコム
病死とされた長五郎ですが、別の理由も伝わっているようです。地元の方が伝えるお話なので覚えておきたいですね。
社殿
拝殿は平成元年に新築されたのでフレッシュな印象。午前中なのに夕方っぽいのはまだ太陽が登っている途中だから。8時台前半なんですよ。。
社殿の右手には新年の御神酒が配られていました。車で来ているのでもちろんお断り。。しません!でも、実際に飲むわけではなくて紙コップに数滴そそいでもらって唇を濡らしました。
ご祭神と同じ供物(神饌)をいただくありがたいことですので問題にならない範囲でお応えしております。
拝殿のしめ縄も鳥居と同様に一風変わっています。まっすぐに垂らした藁を4箇所だけ下の方を束ねています。他では見られない珍しい形ですね。束ねていないタイプであれば利根町の蛟蝄神社で見たことがあります。
本殿の全体像は覆屋によってよくわからず。たしか流造だったと思います。
基礎の部分の彫刻は見事なものでした。小さな子供が見えますので、中国の故事である「二十四孝」でしょうか。龍ケ崎でもっとも有名な上町の八坂神社(龍ケ崎八坂神社)の本殿の彫刻も二十四孝です。
拝殿の側面には社殿の模型が置かれていました。
近づいてみると本殿には「天之御中主大神」と「虚空蔵菩薩」の札が見えました。現在神社が伝える由緒に虚空蔵菩薩の名は見えませんが、やはりかつては篤く信仰されていたのでしょう。
拝殿の方には剣を持った虚空蔵菩薩らしき写真が置かれていました。この写真からは妙見菩薩の面影は一切感じませんね。
駒止の石
続いては境内の散策。社殿の左手にあるのは駒止の石。後ろの石碑によると次のような由来があります。
往時平貞盛がこの社の前を通り掛ると馬がこの石を見て動かなくなり石の傍らを見ると祠があり、これは日頃信仰する星大明神であった。これは神様のお引合わせと懇ろに参詣すると馬は歩き出したと言う。
動物がなんらかの異変に気がついて立ち止まるのはあちこちで見られる伝説のひとつ。茨城だと菅原道真や源頼政の遺体を運んでいる途中に同様のことが起きたといわれます。
こちらの場合は貞盛を留まらせようとしたわけですから、はじめは貞盛にとって望ましくない何かだったのでしょう。それが参詣によって改善されたのではないでしょうか。
これについて『龍ケ崎市史 近世調査報告書1』に次のような面白い指摘が見えます。
星宮神社の場合、坂東平氏との関係に注意しなければならない。つまり、龍ケ崎市城に隣接する下総国一体は坂東平氏千葉氏の拠点であり、その氏神である千葉神社(千葉市)は、明治以前まで仏教的な施設・北斗山金剛授寺妙見堂である。ここは、通称「妙見様」、「星宮」と呼ばれ天御中主命は神仏習合により、妙見菩薩や北斗七星信仰と一体化するようになった。ちなみに「星宮」の星とは北斗七星を指すものとする。
龍ケ崎市史 近世調査報告書1 P86
以上の事情により、千葉氏の庶子が支配した下総国地域には、星宮と称する神社や、妙見菩薩を祀る仏閣が多数存在するという。周知のように、下総国に属した河原代町には平国香の墓塔と称される宝篋印塔や、西道内・八幡神社(詳細は後述)のように、坂東平氏や妙見信仰に関連する遺跡がみられる。
引用元は千葉氏を取り上げていますが、わたしは千葉氏庶流の(下総)相馬氏によるかもしれないと思います。龍ケ崎市を含む旧北相馬郡には相馬氏が伝えたとされる妙見信仰や平将門伝説がいくつも見られますから。
ただ、星宮神社の場合は将門と対立した貞盛を主役としているので、その点では相馬氏らしさはありません。解釈の仕方によっては、だからこそはじめは馬を留まらせたとも見れるのですけどね。もうちょっと調べてみます。
御神木
本殿に向かって左後方に見える大木が当社の御神木です。極端な巨木というわけではありませんが、周囲に小祠が並べられている姿は長老っぽい雰囲気がしてよいですね。これならしめ縄も欲しいところ。
御神木を示す札の根本の辺りに見えたのは恵比寿と大黒です。ここにもいた!このコンビは本当によくいますね。それに関する信仰があるというよりも縁起物としてなるべく多く並べようとする意図を感じます。
金刀比羅宮
星宮神社を正面に見て左手に鎮座する金刀比羅宮。ご祭神は大物主命です。石碑には天保14年(1843年)と彫られていますのでそれを創建年としてよいでしょう。
讃岐国(現在の香川県)を金刀比羅宮を本営する非常に有名な神社なのですが、常陸国の大杉神社(あんばさま)も同祭神をお祀りしており広く崇敬されておりましたので、なぜ遠方の金刀比羅なのでしょうか。
想像するに当地が旧水戸街道の若柴宿に属しているため往来する人々によって信仰がもたらされたせいではないでしょうか。金刀比羅宮は航海の守護神でもあり商売の神様でもありました。
星宮神社の境内社となったのは二社が似ていたせいかもしれません。金刀比羅宮のご祭神の大物主は山の神ですから、当時の哲学であった「易」において艮の神とされました。これは艮の象に「山」があることに由来するのですが、説明が長くなってしまうので気になる方は別記事の「八卦の概要」をご覧ください。
同時代、星宮神社は虚空蔵菩薩を信仰していたと考えられ、やはり艮の存在とされています。艮の象はさまざまあって方位では東北、干支では丑寅が充てられます。虚空蔵菩薩を祀る境内に牛(丑)や虎(虎)の像が置かれるのはその証左といえるでしょう。
中世以降に広まったとされる「守り本尊」の思想でも虚空蔵菩薩は艮とされています。こちらは検索すると簡単に見つかる情報なのでわたしがウソを言っていないかチェックしてみてくださいね。
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御朱印
星宮神社の御朱印です。いただける機会は非常に限られておりまして、おそらく元旦の午前中のみです。
8時頃から祈祷に入りますので、それ以前か祈祷の途中にいただけるかと思います。ご縁あったら、ですね。
・ご祭神は天之御中主大神。明治以前は虚空蔵菩薩と思われる
・金刀比羅宮のご祭神と星宮神社のご祭神は同じ性質と思われる
・御朱印は元旦の午前中のみいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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