wata
茨城に限らず明治以前の寺社は神仏習合しておりまして、神社に仏像があったり僧侶が神事(仏式)をするのは自然なことでした。江戸時代後期になると国学が盛んになり、日本の神々や神話を尊重する思想が拡大。やがて明治の神仏判然令を経て寺社が物理的にも精神的にも切り離されていくわけです。
明治は日本の信仰の大きな転換点だったのですが、その影で目立たずに消えていったのが修験道でした。神仏習合どころか山岳信仰や道教・儒教などさまざまな思想を分け隔てなく学び、特に実践を重視したのが修験者(修行者・行者・修験とも)です。
茨城にもそうした修験道との関係が深い神社があります。今回紹介する筑西市の下羽黒神社は社号のとおり羽黒山信仰に起源があるなかなかミステリアスな神社。ぜひこの記事を参考に参拝してみてください!
由緒
下館城主の水谷家初代勝氏が崇敬する出羽国の羽黒大神を勧請して創建。同時に領内五所に羽黒権現を創建。
天台宗正観院清龍寺を祀職とする。
※社殿の炎上により社伝等の古記録は失っている
水谷正村によりさらに領内に二社の羽黒権現を祀り、当社は七社(七羽黒)の筆頭とされる。
水谷氏は社地6千坪、祭祀領37石を与える
本殿建立 ※享保15年の棟札による
銅板葺きとして部分的に新材を用いて10月に竣工 ※棟札より
茅葺きの屋根を銅板に葺き替え ※棟札より
藩主になった石川氏により領内の総鎮守とされる
※境内石碑(平成8年建立)より
日清戦争の戦勝祝いに大神輿「明治神輿」が奉納される
※皇太子殿下誕生記念
「平成神輿」が奉納される
ご祭神は大巳貴命です。『古事記』『日本書紀』では須勢理毘売命を娶った際に、義父にあたる素戔嗚命より「大国主」と名乗れと命じられた神様ですね!
明治の神仏判然以前は羽黒権現と称していました。勧請元の現在の出羽神社は明治になって伊氏波神と稲倉魂命をご祭神としておりますので、それとの違いが気になるところ。
また、相殿神として玉依姫命をお祀りしています。神武天皇の母親にあたる有名な神様ですが、こちらも祀られた経緯は不明。しかし民間信仰は羽黒権現に通じると考えられていたようです。
というのは、永治元年(1141年)に山城法印栄忠によって書かれたという『羽黒山縁起』に羽黒山を開山した能除太子によって羽黒権現、軍荼利明王、妙見菩薩を祀り三所権現と称したとあり、妙見菩薩はやがて玉依姫を垂迹神と考えられるようになったそうです。
玉依姫は七羽黒に数えられていない女方羽黒根の羽黒神社の祭神とされていますし、水脈のごとく人々の心の中にある信仰なのかもしれませんね。
なお、同縁起は寛永21年(1644年)に天宥によって書写されたもので室町時代後期の様子を伝えているといわれます。
当社は下館藩主の水谷氏によって周辺の四社(いずれも羽黒権現)と共に創建。六代藩主の政村(蟠龍斎)の時代になると領地が北に拡大し、そこで新たに二羽黒が建てられました。
それらの配置や関係性から各羽黒神社には神秘的な意味があると考えられているようです。ちくせい観光ボランティアガイド協会が主催する「七羽黒巡り」は、そうした謎解きをするのも楽しみのひとつなのだとか。
現在「七羽黒」として知られる七社は以下のとおりです。
- 下羽黒神社(祭神:大巳貴命)…筑西市甲37…中宮
- 竹島神社(祭神:宇迦御魂命)…筑西市稲野辺28-1…鬼門
- 下岡崎羽黒神社(祭神:大巳貴命)…筑西市下岡崎3丁目1-7…風門
- 外塚羽黒神社(祭神:大国主命)…筑西市外塚183…病門
- 上羽黒神社(祭神:大巳貴命)…筑西市岡芹968-1…天門
- 大根田羽黒神社(祭神:大巳貴命)…真岡市大根田590…鬼門
- 口戸羽黒神社(祭神:大巳貴命)…筑西市口戸92…病門
各社の後にある「門」は方位除けに基づく思想で①〜⑤は下館城、⑥と⑦は久下田城から見ての位置になります。これらの関係はいずれ別の記事で改めて考えてみたいですね。
竹島神社は公式には宇迦御魂命を祭神としていますが、元稲荷神社に羽黒神社を合祀しているせいかと思います。配祀に大巳貴命があることから下館の羽黒権現=大巳貴命としてよいでしょう。
大巳貴命は国土形成の神として当社に限らず神仏判然後は便利に置き換えられたという事情が関係していそうです。
wata
羽黒山も含めた山岳信仰が学べる
「権現」とは仏の仮の姿という意味です。明治以前の神仏習合していた時代は神もまた権現として考えられていました。
アクセス
最寄りICは北関東自動車道の桜川筑西IC。下りてから約15分ほどです。市内に羽黒神社がいくつもあるので混乱しますが、しもだて美術館のすぐそばです。
駐車場は正面の鳥居そばです。駐車スペースはすべて神社専用でないので注意してください。
電車の場合は水戸線の下館駅から徒歩10分ほど(650m)。十分歩ける距離なので車がなくても参拝可能です。
名称 | 羽黒神社 |
住所 | 茨城県筑西市甲37 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 不明 |
社号標と神輿
なんどか参拝しているのですが、せっかくなのでお祭りの日の境内を紹介します。時間は朝の8時頃。ちょうどこのときは祭りの最終日で朝7時頃から五行川で神輿をもんでいる最中でした。
立派な社号標には「郷社」の文字。明治初期は村社でしたが、昭和になって昇格。修験は明治になって廃止されたので羽黒山信仰も衰えると思いきや、却って信仰が篤くなったというのは面白いですね!
なお、入り口は羽黒坂(役場坂)の途中にあるのですが、境内の石碑によれば江戸時代になかったそう。大正の開発の際に台地が切り開かれて出来たとありました。
鳥居の手前、駐車場の一画を神輿の安置所です。曇り空もあってやや寂しげな印象に見えるかもしれませんが、前日はとんでもない熱気に包まれていた場所です。
3年ぶりの下館祇園まつりはひとまず大成功に終わったようですね。今年は多くの方が動画撮影してYouTubeで公開していました。わたしは実際に担ぎ手として参加された方の動画が好きです♪
例年ですと各地域の神輿が五行川に向かいますが、今年は感染症対策もあって一部とされました。境内に2つの神輿が残されており、こちらには「玉依会」の札がありました。
由緒のところに書いたとおり、玉依姫は羽黒三所権現のひとつ妙見菩薩の垂迹神の位置付けです。ただ、羽黒山の由緒はいくつかありますし、そこからさらに発展させた思想ですから普遍的とは言い難いですね。
妙見菩薩は日本神話の天之御中主神と習合しました。道教的には北極星の神格化した存在とされ、北極星は文字通り北方の象徴。北は五行説の水気にあたりますから海神の娘である玉依姫に通じたのではと思います。
鳥居と境内の様子
旧郷社にふさわしい大鳥居をくぐって境内へ。
扁額の文字は篆書体ですね。石碑の題字などにも使われる古い書体です。
参道の左手には祭りの提灯が並べられています。ふだんここにあるのは奉納者の木札なのでお祭りバージョンといったところ。まさにハレの日。非日常を楽しみましょう。
手水舎にはビー玉やおはじきが置かれてキラキラ。何度も参拝していて初めて見ました。もしかしたら最近は若い方、特に子供や女性が訪れる機会が増えたのかもしれませんね。
社殿
銅板葺きで入母屋造の拝殿。見事なサイズです。御祭禮の幟が美しい。
市の文化財に指定されている旧拝殿は境内社の愛宕神社に社殿とされています。こちらよりだいぶ小型なので郷社としては手狭なのでしょう。
本殿は県指定の文化財。赤と緑が鮮やかですね。本営の出羽神社は羽黒権現から稲倉魂に置き換えられたということですが、稲倉魂といえばいわゆる「お稲荷さま」。赤い鳥居や社殿が思い浮かびます。
当社は大巳貴命を祭神としているものの、神格は本営に近いのではないかと思います。境内の石像は大巳貴命というよりも「大黒さま」ですしね。米俵に乗っており、穀物神として認知されているようです。
なお、当社を創建した水谷氏は後に備中松山(岡山県高梁市)に移封となりました。松山でも下館の羽黒権現を松山城内に勧請(明暦2年・1656)、その後玉島市にも祀っています。
玉島の羽黒神社のご祭神は玉依姫、素戔嗚命、大国主命、事代主命。港町としての開拓者である水谷氏に対する感謝の想いが色濃い神社です。
ところで、時代によって多少違いはあるものの羽黒山は湯殿山と月山と合わせて「三山」と呼ばれ、古くから修験道が盛んでした。江戸時代になると修験は幕府の統制下となり、当山派(真言宗)か本山派(天台宗)に属すことになりますが、羽黒山の修験は別当の天宥が天台僧の天海に接近して寛永寺の末寺になって、日光山輪王寺の管理下となることに成功。それにより天台宗に帰属しつつ羽黒修験として信仰を拡大していったのでした。
羽黒山信仰は修験の中でも特殊だったということですね。羽黒山も修験もたいへん奥深い世界なので興味のある方はじっくりと気長に勉強してみてください。
愛宕神社と境内社
羽黒神社の社殿から向かって左手にあるのが愛宕神社です。元は西郷谷村の鎮守でしたが、羽黒神社が創建された際に遷されました。
ご祭神は伊弉冉命と火産霊命。後者は加具土命の別名です。
こちらの社殿が市の文化財です。羽黒の赤い本殿とマッチしそうですよね。一方で火の神様を祀る社殿としてもふさわしく感じます。
当社の御神体が県指定文化財である愛宕明神です。広報筑西Poeple(No.236)によると像は昭和期に板谷波山による文化財の保護活動の中で発見、それから国宝美術修理所(京都)で復元されました。
見つかったときにはバラバラの状態といいますから、明治初期の混乱の中で匿われたのかもしれませんね。
それにしても。。その姿はまるで羽の生えた天狗。「羽」は五行説で火気に配当されるため、火の神であることを象徴しているのでしょう。そうするともう片方のご祭神である伊弉冉命は死者ではなく、生前の女性としての神格が強いと考えられます。
本殿には素晴らしい獅子の彫刻。緻密で躍動感があって見ごたえがあります。ただ事ではありません。羽黒神社の本殿より衝撃を受けました。
境内には他に日限天満宮(祭神:菅原道真公)と大朋稲荷神社が祀られています。後者はウカノミタマを祭神としているかと思いますが、当地周辺の稲荷社は豊受姫命の場合もあるのでなんとも。
夏祭り
羽黒神社には「下館祇園まつり」として親しまれる夏祭りがあります。観光協会のサイトでは次のように説明されています。
大町の羽黒神社を中心に、4日間に渡って行われる県内屈指の夏まつりです。
明治28年、日清戦争の戦勝祝いに造られた大神輿「明治神輿」と、羽黒神社の相殿神・玉依姫の「女子神輿」、平成4年に新調され、毎年担ぎ出される神輿としては日本最大級の「平成神輿」、そして町内の30数基の子供神輿が市街地を練り歩きます。最終日の早朝には、市内を流れる勤行川で神輿を川で清める禊の神事「川渡御」が行われます。
筑西市観光協会
「祇園」は京都の地名で祇園信仰といえば牛頭天王(素戔嗚命)を祭神としますので、八坂神社などお祭りと勘違いしちゃうかもしれません。
当社に限らず「夏まつり」の歴史は比較的新しく、都市の水辺で誕生し発展しました。なので疫病除けや鎮魂といった目的が同じであっても祇園祭や御霊会とは区別して考えるといいでしょう。
見どころはなんといっても最終日の「川渡御」。1トンもある巨大な神輿が勤行川でもまれます。神輿は朝6時に神社を出発して9時に戻ってきます。川渡御が見たい場合は7〜8時頃にいけば見れると思いますよ。
当日のタイムスケジュールや駐車場などの詳細は観光協会でご確認ください。
舞台となる「五行川」にはいくつかの由来があります。個人的には五行説との関係を連想しましたが、水源地の案内板によれば五行とは弘法大師が修めた「聖・梵・天・嬰児・病」に由来するとか。ちょっとわかりにくい。
また、観音寺(中舘観音)の僧侶が勤行したことで「勤行川」と呼ばれ、それが五行に転訛したともいわれます。かつての観音寺の境内は広大で、五行川のあたりまであったとか。
観音寺の本尊は延命観音として親しまれる観世音菩薩。羽黒権現の本地仏は観音さまです。観音寺の歴史は水谷氏の羽黒山信仰よりも古いので直接の結びつきはないかもしれませんが、不思議な偶然ではあります。
近年は夏祭にあわせて限定の御朱印も頒布していますよ。お参りとお祭りに参加した記念にしたいですね!
御朱印
下羽黒神社の御朱印です。社殿に向かって右手の社務所でいただいてください。
昨今は書き置きが中心のようですね。3年前に訪れたときは羽黒神社の御朱印のみでしたので、近年の発展に驚くばかり。
境内社(日限天満宮・大朋稲荷神社・愛宕明神)の他にもさまざまありますので、社務所で要チェックです!
・下館城主の水谷氏によって創建。もとは神仏習合が色濃く羽黒権現を祀っていた
・水谷勝氏の五社と蟠龍斎が創建した二社を合わせて七羽黒といわれる
・御朱印は社務所でいただける。種類が豊富で境内社の愛宕神社もあり
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
常陽藝文(2016/7月号)|常陽藝文センター
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。