高部の諏訪神社|常陸大宮市

記事内に広告を含みます

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神
  • 佐竹氏との関係
  • 御朱印のいただき方

茨城県の大半を渡る旧常陸国の一宮は鹿島神宮です。ご祭神の武甕槌たけみかづちは「国譲り」の神話で大国主命の息子である健御名方たけみなかたと争い、見事勝利したことにより大事業を成功させたといわれます。

敗北した建御名方は信濃国(現在の長野県)に去って諏訪大社で祀られることになるわけですが、神話の事情があって信濃国には鹿島神社のような武甕槌を祭神とする神社がほとんどないのだとか。

たしかに長野県神社庁のサイトで統括している2459社を調べてみると鹿島神社はわずか5社しかありません。その割合は全体の0.2%ほど。これはもう意図的に避けていると言っていいのではないでしょうか。

ちなみに茨城県の場合は神社庁に登録されている2448社のうち諏訪神社は26社だそう。決して多くはありませんが、長野と比較すると5倍ほど多いことになります。

そう考えると常陸国に諏訪神社が多々あるのは興味深いですよね。今回はそんな諏訪神社のひとつである高部諏訪たかぶすわ神社をご紹介します。やや参拝のハードルが高めなので行きたいと思っている方々の参拝の参考になれば幸いです。

高部諏訪神社とは

高部諏訪神社

高部諏訪神社

由緒

‘大同元年/806年
‘創建’
10月、信濃国諏訪郡、諏訪神社の御分霊を建武郷建武山(現在の諏訪山)の聖地を卜定し、神祠を建立。諏方上宮明神、諏方下宮明神と称へ奉り、後に諏訪神社と改める。
‘大同2年/807年’
‘神主下向、祭祀の定め、寄進’
4月、神孫諏方大和守義景神主となり、信濃から当地へ下向。春の祭りを正月27日・8日とし、秋の祭りを7月27日・28日と定める。
高部・檜沢両村の産土神とし、年々祭祀料永銭25貫文を両村より寄進した
‘嘉慶元年’/1387年
‘社殿焼失’
6月12日、雷火により社殿焼失
‘嘉慶2年/1388年’
’再建’
6月27日、再建 ※棟札による
‘文明16年/1484年’
’本殿屋根修造’
10月28日 ※棟札による
‘永正17年/1520年’
’社殿修造’
5月20日 ※棟札による
‘天文8年/1539年’
’社殿修造’
5月27日 ※棟札による
‘天文17年/1548年’
’社殿修造’
2月24日 ※棟札による
‘天正16年/1588年’
‘寄進’
佐竹城主従五位下佐竹義胤公、当社を篤く崇敬し、社領50貫文の地を寄進。代々の城主もこれにならう。
※上記は義胤公が天正期に寄進したのではなく、天正期の寄進が義胤公以来の慣例に従って行われたと思われる
‘元禄8年/1695年’
‘参詣’
徳川光圀公、参詣。高部と入檜沢両村の鎮守を仰せつけられる。
※そのときの社領22石。
‘享保6年/1721年’
‘本殿建立’
‘明治5年/1872年’
‘村社列格’
‘明治40年/1907年’
‘供進指定’
‘昭和5年/1930年’
‘社号標建立’
‘昭和15年/1940年’
‘二の鳥居建立’
‘昭和27年/1952年’
‘宗教法人設立’
‘昭和38年/1963年’
‘一の鳥居建立’
‘昭和43年/1968年’
‘御神橋架替’
※明治維新百年記念
‘昭和54年/1979年’
‘文化財指定’
本殿が市(当時は村)の文化財に指定される

ご祭神は健御名方命八坂刀売やさかとめです。諏訪神社ではお馴染みですね。八坂刀売は健御名方の妃神とされており、二神は対であり一体とされています。

長野の諏訪大社は上社(本営と前宮)と下社(春宮と秋宮)で構成され、いずれも先の二神を祀ります。これは諏訪神として重要なことで、後に紹介するように単身でないことを強調する表記さえ見られます。

当社の特徴のひとつの佐竹氏との関係の深さがあります。上記の由緒の天正期に佐竹義胤の名がありますが、義胤は鎌倉初期の人物なので天正期の寄進はありません。記述はその頃から佐竹氏が代々寄進してきた意味でしょう。

『美和村史』を参考にしますと、史実としては鎌倉末期に当地高部に佐竹義胤の五男である景義(後の高部氏)が入ってきており、高部と佐竹氏の関係はその頃まで遡れるかと思います。

以来、佐竹氏がたびたび社殿の修造を行っていることは棟札によって確認できます。祭祀については別当寺を務める千手寺が大きな影響力を持っていたようで社殿の修造および造営にも関わっていたことがわかっています。

また、永正期の修造には勧進役を務めた者として「伊王野道歓」の名前が棟札に見えます。「伊王野」が那須地方の地名であることは興味深いことで、当地のすぐ近くの小田野にも那須との関係を示す伝説があるのです。

なんでも小田野の吉田八幡神社(中世は八幡宮)に伝わる伝説によれば、平安末期に世を乱した九尾の狐は同社に戦勝祈願した三浦大介によって那須で退治されたのだとか。美和地区と那須はなにやら親密な関係のようですね。

本営の諏訪大社は鎌倉幕府と密接な関係でした。神職の一族である神氏は平安時代中期から諏訪氏を名乗って武士化しています。源頼朝の挙兵や承久の乱(幕府・得宗側)に馳せ参じて活躍したのです!

wata

諏訪信仰の広まりは善光寺信仰と同時期。すわなち鎌倉期と考えられています。やはり佐竹氏の勢力拡大にあわせて創建されたとするのが自然でしょうか。

【三浦杉】小田野の吉田八幡神社|常陸大宮市

アクセス

最寄りICは常磐道の那珂IC。下りてから約40分。インターから離れているため県民であっても非常に遠く感じるかと思います。ここまで(旧美和地区)来るなら鷲子山上神社や吉田八幡神社もあわせてしておきたいところ。

西側鳥居

西側鳥居

駐車場がないのが最大の難点。ただ、交通量は少ないので安全に駐車できる場所を探して参拝していただければと思います。参道は境内の南側(県道32号側)だけでなく西側にもあります。もしかしたらそちらの方が安全かも。

名称高部諏訪神社
住所茨城県常陸大宮市高部2034
駐車場なし

鳥居

バス停

バス停

前回、西側からお参りしたので今回は正面からにしてみました。少し離れたところで一の鳥居の全景をとっていたら、いまは使われていないであろうバス停を発見。うーん、これはノスタルジック。

一の鳥居

一の鳥居

一の鳥居はこちら。社殿は南南東向きなので鳥居もそれに合わせているのでしょうか。江戸時代の社領は22石と広大なので、今のように曲がりくねってはいなかったことでしょう。

神橋

神橋

鳥居の先には御神橋が掛けられています。諏訪神は山の神ですから水との関係は密接です。山は水源の性質もありますからね。「健御名方」の神号も健を尊称とし、「水の潟」から転じたという説があります。

神橋下の小川

神橋下の小川

橋の上から眺める小川はなんとも清らかで諏訪神らしい神域を演出しているかのようです。

手水舎と二の鳥居

手水舎と二の鳥居

巨木が並びそびえる中に手水舎と二の鳥居がありました。水によって祓い清めることによって神に向き合うと考えると、ここからが本格的な境内といったところ。

手水鉢と梵字の彫られた石碑

手水鉢と梵字の彫られた石碑

手水鉢の奥には梵字の記された石碑が建てられていました。これからお参りするのはたしかに神様なのですが、時代を遡ればおそらく「権現」と称される神仏習合の存在です。水戸藩の宗教改革が及んだ地のはずですけどね。

光圀公の頃に神仏分離をしてもすぐまた戻ってしまったことがうかがえます。これは前記事で紹介した吉田八幡神社も同様です。人の心はそう簡単に変わらないということでしょう。

参道

参道

参道

薄暗い境内はあちこちが苔むしています。ふつうの靴では歩きにくいこと間違いなし。震災の影響もあったのか石段は不安定。必ずしも参拝者を迎える雰囲気ではありません。

しかし、そもそも神社は神を祀る場所。当社の場合は山の神ですから、それにふさわしいことが重要です。諏訪信仰において祭神を蛇体(龍を含む)とされることを考えれば、湿気に満ちたこのような境内は適切なのでしょう。

狛犬(吽)

狛犬(吽)

狛犬(阿)

狛犬(阿)

陶器の狛犬は互いに正面を向いています。近年の狛犬は参拝者が訪れる方を向きますが、古くはこのスタイルが多くありました。特に木造でよく目にします。これは陶器製だから新しいと思いますけどね。

西側狛犬(吽形)

西側狛犬(吽形)

西側狛犬(阿形)

西側狛犬(阿形)

余談ですが、当社の狛犬はどれも個性的でチャーミングです。わたしが知る限り8基ほどほありますので、狛犬ファンはぜひチェックしてみてください。上の画像は境内を西側から入った時に見られる狛犬です。阿形は笑っているように見えますね。

懸造り

懸造り

参道から参集殿(休憩所?)を見るとヒヤッとするような造り。懸造りというやつですね。以前来たときは違和感なく建物に入りましたが、これを先に見ていたらちょっと戸惑っていたでしょう。

参集殿

参集殿

ちなみにこちらが建物を正面から見たようすです。これならふつうに入れますよね。

社殿

拝殿

拝殿

石段を登りきるとこのような光景です。社殿は南南東を向いていますが、その方向は崖です。そのため当初から社殿の正面に参道はなかったと思われます。

立派な入母屋造です。さほど古くはないのかもしれませんが、湿地となっているので傷みは激しいようですね。高地でないとはいえ山の神社である以上は避けられない運命です。

山号付きの社号

山号付きの社号

社殿は近づいて扁額等を読むことでその特殊性に気づけます。たとえば上の写真は社号の前にお寺のように山号がついています。明治以前に神仏習合していたのは周知の事実ですが、これはさすがに珍しいかと思います。

それには次のような創建にまつわる伝説が関係しているかもしれません。『美和村史』から引用します。

美和村の諏訪神社の成立については、『諏訪神社縁起』(高部高夫蔵)によると、次のようであるという。大同二年(八〇七)、金光という各地の山岳を修行して巡っている僧が、現在の諏方の地へきて、大杉の下に小庵を結び七日間の修行に入った。そしてその満願の暁、風がしきりに吹き、森の木々ははげしく揺れ動いた。西北の方から光明が現れ、声があり、「此の地は霊地であり、自分もここで来世の衆生を救おう。信濃国まで迎えに行くように。私は諏訪大明神である」と告げた。金光は有難く思い、早速信濃国へ趣き、御正体を背負おってきて、現在の地へ安置したという。

「金光」は決して一般的な名称ではありませんから、創建した金光と当社の山号は無関係ではないかと思います。しかし、それより関係が深そうなのが、『茨城県の地名』の高部村の項にある次の記述です。

修膳院は修験道の寺で金光山千住寺と号した。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によると延喜一五年(九一五)金高の開山で、下住一人、同形三人、百姓旦那三五〇人、神領二二石を有した。のち廃寺となる。

千住寺は高部諏訪神社の別当寺です。由緒書には光圀公が訪れたという元禄期の神領は22石とあって修膳院の石高と一致します。偶然なのかもしれませんが、わたしは2つの社寺が一体であったのではと思います。

明治初期に政府から出された神仏分離令は神道と仏教を分離する政策です。本来は文字通りの意味だったはずですが、それまでの寺社の関係があって廃仏につながることが少なくありませんでした。当社がそうだったとは言いませんが、本来あったはずの僧や別当寺の存在が明治以降の社伝に積極的に書かれなかったことは容易に想像できます。

諏方兩大明神の扁額

諏方兩大明神の扁額

こちらの扁額は「諏方兩大明神」。兩=両なので、上社と下社あるいは健御名方命と八坂刀売命の両祭神を指すのでしょう。諏方大明神は健御名方命のみで成り立たないことを強調しているように受け取れます。

ただ。。「兩」の字は八卦の解釈の仕方によって「龍」の意味とする説がありますので、諏訪神を蛇体(龍体)とする説と通じるのかもしれません。真相はわかるはずありませんが、なにか気になる表記です。

本殿

本殿

本殿

諏訪大社には基本的に本殿がありません。しかし、分社のこちらには他の神社と同じように本殿(市指定文化財)が建てられています。

二間社流造向拝唐玻風銅板葺き。鰹木は奇数(三本)、千木は内削ぎ(女千木)ですから、陰と陽の両方のシンボルがあるといえます。まるでご祭神の健御名方と八坂刀売を表しているかのよう。

朱色の社殿は山の神(土気)を祀る神社によくある光景。修験道が通じていたであろう五行説によれば、赤は火気の色。火気は「火生土」の法則により土(=山)を生じさせるため、山の神を降ろす適切な配色と考えます。

ここからだと社殿の彫刻は見えませんが、中国の故事らしきものが彫られた立派な社殿です。環境的にあまり状態はよくないみたいですけどね。

千木と鰹木

千木と鰹木

それと社殿にある神紋は「梶」です。『茨城県神社誌』にある三つ柏とは食い違っているようです。梶は諏訪大社や諏訪氏の家紋なので神社誌は誤記なのかもしれません。

崩れた石垣

崩れた石垣

なお、本殿前の石垣は崩れています。明らかに危険ですから、うかつに近づかないようにしてください。

御神木

社殿にめり込む御神木

社殿にめり込む御神木

社殿の向かって右手にある御神木もチェックしておきましょう。崖の手前なのでちょっとハラハラする場所です。

石碑らしきものを飲み込む御神木

石碑らしきものを飲み込む御神木

社殿が建てられてからもすくすく伸びているようで、石碑らしきものを飲み込んだり、建物を侵食しはじめています。もしかしてここまで育つとは思っていなかった?わたしが生きているうちは大丈夫でしょうが、将来的には社殿を壊すほど大きくなるかもしれませんねぇ。。

御朱印

高部諏訪神社の御朱印

高部諏訪神社の御朱印

高部諏訪神社の御朱印です。いただけるのはおそらく社務所を兼ねた宮司宅になるかと思います。西側の参道に宮司宅に続く道があります。

まとめ

この記事のまとめ

  • ご祭神は健御名方命と八坂刀売命。僧によって創建されたという
  • 多くの棟札を残し、佐竹氏との関係が深いことがわかる
  • 御朱印は宮司宅でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社

wataがいま読んでいる本

マンガで『古事記』を学びたい方向け

神社巡りの初心者におすすめ