wata
- 由緒とご祭神
- 将門公と妙見菩薩の関係
- 御朱印のいただき方
平将門といえば怨霊とか首塚といったネガティブなイメージがあるかもしれませんが、茨城県では完全にヒーロー。真逆の存在です。
朝廷と対立したことよりも貧しい人々のために横暴な平氏と戦った印象が持たれています。立場が変われば見方も変わるというやつですね。
そんな将門公を祀るのが坂東市の国王神社(國王神社)です。同社についてご存じの方は多いかと思いますので、今回は公式サイトに書かれないようなお話をシェアしたいと思います。
ぜんぶ事実だと思わないでくださいね。「そんな説もあるんだ。ホントかよ」くらいのスタンスでお楽しみください!
国王神社とは
由緒
ご祭神は平将門です。そしておそらく大己貴命、徳川家光、少彦名命を配祀しています。
「おそらく」というのは昭和40年代に県神社庁から発行された茨城県神社誌に主祭神大己貴命、そして将門公等を配祀とあり、その後に主祭神の交代があったようです。大己貴命と将門公の鎮祭の経緯については同誌で「鎮祭前後不詳」となっています。
創建の経緯などからすれば本来の主祭神はやはり将門公なのでしょう。それを明治初期になって一時的に大己貴命に変更したのではないかと思います。新政府は新たな国家体制を築くために各地の神社にさまざまな介入をしており、かつて朝廷に反旗を翻した将門公を祭神としていた場合に廃社などの厳しい措置をとる可能性がありました。
これは下妻市の宗任神社にもあったことで同社は明治初期に祭神を安倍宗任から邇邇藝命に変更しています。昭和になってもとに戻していますが、国王神社の場合は近年までそのままだったようです。神田明神が再び将門公を祀ったのも昭和59年(1984年)です。
将門公はそれだけ影響力があるとされていたのでしょう。それに平将門の乱は朝廷による統治の問題から発生しているので新政府としてはあまり触れてほしくない歴史です。
さて、創建の経緯について坂東市の公式サイトから引用します。
「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、将門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました。
国王神社と将門座像/坂東市(公式)
如蔵尼については興味深い逸話がいくつも伝わっています。土浦に逃げて般若寺を建てたとか、つくばの西福寺で出家したとか。。歌舞伎では滝夜叉姫に変身したりしています。
ただ、それらの説より慧日寺で尼になったという方が現実的だと思います。下総国、常陸国は常陸大掾氏の帰依する天台宗の勢力が拡大していました。将門公の討伐には天台宗が活躍したこともあり、如蔵尼は身を隠しにくかったのではないでしょうか。
それに当時の慧日寺は法相宗なんですよね。法相宗は最澄や空海と同年代の徳一によって常陸国に広められました。天台宗は徳一存命のうちは常陸国の布教を足踏みしたといいます。つまり当時の天台宗といえども法相宗には手を出しにくかったはずなので逃げるなら最適ということです。
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将門公について知りたいならこちら
アクセス
圏央道・坂東ICを下りて約5分。交通の便は良好です。
駐車場は県道20号(結城坂東線)側から入れます。お正月や祭事でなければほぼ確実に駐車可能です。
名称 | 国王神社 |
---|---|
住所 | 茨城県坂東市岩井951 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
SNS |
国王神社のTwitterとInstagramは活動を終了しました。
鳥居&参道
国王神社の境内は至ってシンプル。鳥居はこちらの両部鳥居のみです。由緒にある通り度々再建されているんですよね。昔から同じ形なのでしょうか。
両部鳥居は写真のように左右の足が三本ずつのガッチリした鳥居です。「両部」とは密教で金剛界と胎蔵界を意味する言葉。仏教と深い関係があります。
鳥居の傍の由緒書には将門公について「汚名をきせられたが」とあり、ネガティブな評価に対して否定的です。
国王神社の参道は天井を覆うような巨木の並木。厳かな雰囲気だと思いますが、少し怖く感じる方もいるようで。お天道様がなければずいぶん暗いので致し方ないところではあります。
ただ、もともと神は人々が畏怖する存在なので、気軽に参拝できる観光名所のような神社のほうが特別なのではないでしょうか。
納札碑
何度も参拝しているのに見慣れない石碑を発見。しかも真新しい。近づいてよく見ると「納札碑」とありました。
納札碑は千社札を刻んだ石碑のことで神田明神にも建立されています。総代をはじめとし奉賛会や賛同者の札が並んでいました。
コロナ禍で神社への参拝もままならない中、有志が集まってこのような動きがあったとは。現代の千社札(というかシール)にはネガティブな印象を持っていますが、こちらは見ていて本当に気持ちが良くなりますね。
拝殿
国王神社の拝殿は入母屋造で茅葺屋根。昔話に出てきそうな建物です。社伝では延宝3年(1675年)に改築されたとありますが、棟札の記述から文化14年(1817年)ではないかとされています。本殿とあわせて県指定の文化財となっています。
中を覗くと驚くほど暗い。電球がなければ昼間でも辺りがよくわからないほどです。江戸時代はロウソクを灯していたのでしょうか。
屋根の棟木の部分には神紋の九曜紋が3つ。九曜紋は将門公の紋ですね。公式サイトでは次のように紹介しています。
國王神社は九曜を神紋としていますが、北極星・日・月・火・水・木・金・土・羅ごう・計都の十星中、北極星は天帝であり畏れ多いために除き、これを以って九星にしたと縁起にあります。
九曜紋は相馬氏の家紋と同じであり、相馬氏は将門の後裔として将門公関係の寺社を厚く援助しました。
神紋と宝物/国王神社
将門公が生きた平安時代、丸(○)は星を意味する記号でした。そのため九曜紋は「星紋」に分類されています。
星で思い出すのは将門公の民話「七人の影武者」。これは妙見菩薩(北斗七星あるいは北極星を神格化した天部)が七人の影武者の姿で将門公を守護したという物語なのですが、発想が道教や陰陽道的でなんとも興味深い。
星は古くから吉凶の占いに使われてきたので中には人々にとって恐ろしい星も存在します。将門公は星辰信仰と結びつけられ、より強烈なインパクトで語り継がれたのではないでしょうか。
ちなみにさまざまな将門伝説は大きく分けて聖系(山岳信仰)と比丘尼系(念仏聖)の2系統があります。例えば「桔梗」に関する伝説は比丘尼系に属するそう。いずれも遊行の立場の者で身元がわかりにくいから広めやすかったのでしょうね。
幣殿と本殿
幣殿と本殿も茅葺き。かっこよすぎです。こちらも江戸時代初期の建てられたとされています。状態は良好。彫刻も形が崩れておらず美しいと思います。
茅葺きは維持の難しさから銅板に葺き替える神社が多く見られます。できるだけ長くこの形を続けられたらいいですね。
今見ても立派なのですから建立された当時も村の鎮守として篤い崇敬を受けていたのでしょう。ただ、それには転機があったのではと思います。
以下は神田神社(神田明神)の古い由緒の一部。以前は同社で頒布されていた栞(パンフレット)にも記載されていたようです。
寛永三年(一六二六年)烏丸大納言光広卿が当社に参拝され、将門公が天慶の乱で朝敵とされたことを八所御霊の例に倣い、国家鎮護の社として勅免の沙汰が下り、神田大明神の勅額を賜った。
ご由緒書/玄松子の記憶
寛永3年、大納言・烏丸光広の提言により後水尾天皇が将門公に勅免(罪を許す)を下したという内容です。
その背景には光広が天皇の信任を得ており、なおかつ幕府に好意的だったこと。そして神田神社が江戸総鎮守であったため一肌脱いだということなのでしょう。
とはいえ、光広が独断でするわけはありませんので、当時の将軍・徳川家光の意向が強かったのではと思います。そう考えると国王神社で家光を配祀していることが説明できますね。
ちなみに家光は勅免の下される年にはじめて天皇に拝謁しています。光広はそちらにも貢献した可能性が高いと思います。
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妙見神社と守大明神
社殿の向かって左手に鎮座するのが妙見神社(左奥)と守大明神(右手前)です。いずれも主祭神と関係が深い摂社とされています。
両社のご祭神は天之御中主神。古事記に記述される造化三神の一柱。それがどうして国王神社の摂社なのでしょうか。
神仏習合の時代、天之御中主神は妙見菩薩を本地仏としていました。妙見菩薩はあらゆる災いを取り除いて延命をもたらす「尊星王」。そして前述の伝説にあるように将門公の守護神的な存在です。
御朱印
国王神社の御朱印です。以前は以下の機会のみ頒布しておりましたが、令和5年9月現在は拝殿に書き置きがあります。賽銭箱に初穂料を納めてから頂戴してください。
まとめ
この記事のまとめ
- 国王神社は将門公の娘が創建したといわれる
- 将門公は古くから「星」と深い関係があるとされている
- 御朱印はお正月と将門まつりの機会にいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
常陸五山の山岳信仰/志田諄一
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。