【豪華絢爛】飯沼鎮護の神!沓掛香取神社|坂東市【社殿】

記事内に広告を含みます

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神について
  • 創建について深堀り
  • 御朱印のいただき方

香取神社の本営は下総国(いまの千葉県)の一宮・香取神宮です。香取神宮の祭神は経津主ふつぬしなので、そこから分霊した各地の香取神社のご祭神も経津主命。

香取神社の由緒というと、それに「いつ」「だれが」を加えたものなんですが。。たまにはそうでない場合もあるんです!!

今回は坂東市の沓掛くつかけ香取神社をご紹介します。少し気になる創建についてシェアさせてください!

沓掛香取神社とは

沓掛香取神社

沓掛香取神社

由緒

不詳
創建
経津主命の傍系の孫の美計奴都加佐命が神籬をたて創祀したことに由来するといわれる
大同2年/807年
十一面観音勧請
巡錫の空海が神社裏に十一面観音を勧請
弘仁元年/810年
別当建立
ふたたび参詣した空海が別当香取山金乗院を創建
正長元年/1428年
社殿修繕・刀剣献納
結城氏朝が社殿を修繕し・刀剣を献納
慶長19年/1614年
勅額奉納
後陽成院が勅額を奉納
元禄2年/1689年
金幣・社領の附与
代官栗六右衛門が金幣を奉納し社領を附与
正徳2年/1712年
神階:正一位
享保9年/1724年
飯沼開発祈願
八大将軍吉宗の命により飯沼を開発。それにあたり沼周辺の24村が当社に起誓文を捧げて大願成就を祈願。4年後に無事竣工
寛政10年/1798年
大般若経の奉納
疫病流行のため氏子および近郷が大般若経六百巻を金乗院に奉納。祈願祭が社寺で執行
天保年間/1830-1844年
合祀
愛宕神社の軻遇突智大神を合祀
天保7年/1836年
空海作断碑出土
嘉永5年/1852年
社殿造営
元治元年/1864年
社領改定
社領地が9石1斗3升2合になる
明治初期
金乗院が廃寺になる
明治6年/1873年
村社列格
明治35年/1902年
専任社掌就任
明治39年/1906年
国有林野法によって境内編入許可
大正2年/1913年
合祀
村内の無格社・天神社と日枝神社を合祀
大正6年/1917年
合祀
村内の無格社・春名神社を合祀
昭和4年/1929年
月読神社建立
二十三夜講により月読神社建立
昭和8年/1933年
忠魂碑建立
陸軍大将・鈴木荘六書の忠魂碑を建立
昭和28年/1953年
拝殿・幣殿等造営
昭和35年/1960年
沓掛幼稚園を設置
昭和41年/1966年
社務所新築
昭和43年/1968年
一の鳥居建立
昭和47年/1972年
二の鳥居(両部鳥居)建立
昭和50年/1975年
本殿屋根銅板葺替
昭和52年/1977年
県の文化財に指定
本殿が県の文化財に指定される
昭和53年/1978年
市の文化財に指定
奉納絵馬が市の文化財に指定される
平成4年/1992年
本殿修繕
1平成3年から2年かけて本殿が修繕される

ご祭神は経津主ふつぬし大神です。それに軻遇突智かぐつち大神を配祀しています。後者は茨城県神社誌になかったので、近年史料から明らかになって加えられたのでしょう。

由緒の「美計奴都加佐命」が興味深いですね。経津主命の傍系の孫とは姪孫(兄弟の孫)でしょうか。経津主命に兄弟はいませんのでまるで暗号。ここでいう経津主命とは布都御魂神のことで物部氏に関係すると思うのですが。。長くなるので後述します。

由緒に度々登場する空海が遣唐使として帰国したのは大同元年(806年)。予定より大幅に早い帰国のため大宰府(九州)にある観世音寺に滞在しました。大同4年(809年)に嵯峨天皇の意向で高雄山神護寺(京都)に入ると、翌年に薬子の変が発生。変はすぐに収束しましたが、それからしばらく同寺で鎮護国家の祈りを捧げています。

というわけで同時代にこの地にいるのは難しいでしょうね。また、帰国後に勝手に布教することもできなかったのではと思います。由緒が具体的なので一応補足してみました。

アクセス

圏央道の坂東ICを下りて約2分。駐車場は南北に分かれた境内の南側です。

駐車場入口

駐車場入口

県道20号から境内の中央の方に入り左折してください。その先、左手に駐車スペースがあります。公園も兼ねているようですね。

名称(沓掛)香取神社
住所茨城県坂東市沓掛4124
駐車場あり
Webサイト茨城県神社庁
SNSを

鳥居と忠魂碑

一の鳥居

一の鳥居

南側に位置する一の鳥居です。鳥居の先は美しい並木道となっており、右手には子どもたちの公園が広がっています。のどかで癒やされる空間です。

忠魂碑

忠魂碑

坂東市の神社を参拝して感じるのが忠魂碑の多さ。戦争で亡くなった方々を顕彰し後世に伝えています。こちらの忠魂碑は陸軍大将 鈴木荘六とあります。碑建立時は陸軍を退役後ですね。

二の鳥居

二の鳥居

道路を挟んで二の鳥居。建立されたのは昭和になってから。両部鳥居なのでかつて密教と関係していたことを思わせますね。区画整理の影響か何やら石碑等が密集しています。

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿は風格があって堂々たる佇まい。建立されたのは70年ほど前です。

狛犬(阿)

狛犬(阿)

手前の狛犬にもぜひ注目してください。この首から胸にかけての膨らみはなんでしょうか。わたしは筋肉だと思います。パワー!!

県指定文化財の本殿

本殿の覆屋

本殿の覆屋

本殿は覆屋によって見ること叶いません。これだけ立派な覆屋なのですから本殿もきっと。。そう、本殿は県指定の文化財。かなり鮮やかで綺羅びやかなようです。見たいっ!

と思っていたら、近年神社で頒布されるパンフレットにそのお写真が掲載されておりました。ありがたいですね。

パンフレットの本殿写真

パンフレットの本殿写真

社殿に興味のある方のために『いばらきの装飾社殿』にある内容を要約してご紹介します。

  • 向拝中備は「竜」、軒唐破風の大平鰭は「鳳凰」、手挟は「瑞雲」、木鼻は「獅子と獲」内法長押と頭貫間小壁は「花鳥」。彫刻は一般的だが、彩色は細部まで行き届いていて絢爛
  • 正面小脇羽目板は「昇竜と降竜」。外壁左側は「鶴亀」。右側は祝福図の「高砂」。後ろは「養老勅使図」
  • 単純な彫刻が見えること、祝福図が多いことから飯沼干拓後まもなく建立したか

造営年代は定かでありませんが、飯沼干拓を祝うために時間をかけずに建立したのではないかと考えられているようです。

境内社を周る

庚申社と日枝神社

庚申社と日枝神社

二の鳥居の右手には境内社が並んでいました。日枝神社(祭神:大山咋神)庚申社(おそらく祭神は猿田彦命)。その左手には庚申塔と青面金剛らしきものが見えます。周辺の講によって建立されたのでしょう。

聖徳社と天満宮

聖徳社と天満宮

鳥居の先には聖徳太子(正式には厩戸豊聡耳命)を祀る聖徳社と菅原道真公を祀る天満宮の社殿。

聖徳太子は日本の大偉人ですが、神社で名前を見るのは珍しいかも。お寺だと多いですけどね。この聖徳社はかつての別当・金乗院の名残ではないかと思います。

聖徳太子といえば十七条憲法。第一条はあまりにも有名な「和をもって尊しとなす」、そして第二条が「篤く三宝を敬え」。三宝とは仏・法・僧。つまり仏教を大切にせよ、という意味です。

日本の仏教にはさまざまな宗派があり、ときには対立することがあります。しかしながら「聖徳太子はエライ!」は宗派問わずに賛同。太子のおかげで「和」が生まれているわけです。

牛さん

牛さん

天満神社の隣には道真公ゆかりの牛さんが。そんなところにお賽銭を置かなくても。。

月読神社

月読神社

月読神社は昭和4年に二十三夜講によって建立されました。二十三は月の満ち欠けに由来し、同じ満ち欠けであっても勢至菩薩を祭神とする場合もあります

建立時は月読尊ですが、江戸時代までさかのぼるとどうだったのでしょうね。明治初期は廃仏の動きが激しかったようなので、少し気になるところです。

御朱印

沓掛香取神社と境内社の御朱印

沓掛香取神社と境内社の御朱印

沓掛香取神社の御朱印と境内社の天満宮・聖徳社の御朱印です。

拝殿右手の宮司宅でいただいてください。案内がありますし迷うことはないですよ。

なお、兼務社の八龍神社(生子)の御朱印もこちらでいただけます。

現在の沓掛香取神社は季節ごとにさまざまな御朱印を頒布しています。XやInstagramなどをご覧ください。

生子の八龍神社|坂東市

創建の謎

当社で気になるのは、やはり創建について。やたら具体的です。詳しいことがわからなければ、「下総国の一宮、香取の神を勧請」とかでよかったのに。

たぶん、本当にそういう伝承が残っていたのでしょうね。しかし、「経津主命の傍系の孫」を文字通りに受け取れば該当者なし。そこで「経津主命」の意味を広げてみます。

國學院大學が編纂した『神道辞典』によると命は「霊剣フツノミタマを神格化したものという説がある」。じつはそれだと石上神宮(奈良県)のご祭神である布都御魂大神と同じになります。

そして、ここからは思い切り飛躍して神道の伝承者・竹内睦泰さんが著書で残した次の言葉。

私は、比古布都押之信命ヒコフツオシノマコトノミコト(彦太忍信命。母物部もののべ氏遠祖女伊香色謎命イカガシコメノミコト)について、第四章で、別名を布都御魂大神フツノミタマノオオカミともいうと書きました。この別名が物部氏の祭祀権を比古布都押之信命が貰い受けたことを意味しているとも書きました。
布都御魂大神の別名を持っているということは、比古布都押之信命が布都御魂大神を降ろすことができるということです。
古事記の邪馬台国

神秘的な内容で興味深いことです。つまり、石上神宮のご祭神である布都御魂大神を「降ろせる」場合は実在の人物であっても同じ名で呼ばれるということ。当社の由緒にある神籬(依代)も剣なのでしょうか。

布都御魂大神こと比古布都押之信命の父親は孝元天皇です。母は物部氏の血統で叔父の伊香色雄いかがしこお命は物部氏の祖です。その先祖を遡ると宇摩志麻治命や饒速日命がいます。物部氏は石上神宮を守護する役目があったため、大神を氏神とも位置づけており非常に関係が深いといわれます。

話を戻すと経津主命を布都御魂大神に置き換え、それを比古布都押之信命をはじめとする祭祀者とすれば、「傍系の孫」はけっこう出てきます。では、具体的にだれかというと。。分かりません!候補者はいるものの経歴が確認できないためです。だからこそ可能性があるということなんですけどね。

前述の竹内さんは伝承が事実かどうかまで言及していません。本人曰くそこにはあまり興味がなく、伝承自体が面白いので多くの人に伝えているそうです。ちなみにご本人は驚異的な記憶力の持ち主で同じ話を何回もできる方です。

真偽はともかく伝承の存在自体が事実なら、それをもとに新たな伝承が誕生するのはおかしくありません。当社の創建はいくつかの伝承を組み合わせたものではないかと思います。ただし、「傍系の孫」とか「祖神」という言葉が出てくるので、物部氏は関係しているんじゃないかと思いますけど。。(香取氏だと直系になってしまう)なんとも深いお話ですね。

wata

本当のことはわからないという前提で、あれこれ考えながら楽しく散策しましょう♪

伝承についてもっと深く知りたい方はこちら

まとめ

この記事のまとめ

  • 経津主命の傍系の孫が創建したといわれる
  • 創建には物部氏が関係しているかもしれない
  • 御朱印は社殿右手の社務所兼宮司宅でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁

この記事で紹介した本はこちら

wataがいま読んでいる本

マンガで『古事記』を学びたい方向け

神社巡りの初心者におすすめ