平将門の胴塚がある延命院|坂東市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

茨城県には有名な武士や武将がたくさんいます。地域ごとに考えてみても面白いですね。県北の佐竹氏。県央の徳川家。県南の小田氏。鹿行だと塚原卜伝(剣豪)が有名です。そして県西はなんといっても平将門たいらのまさかど

評価はさまざまですが、茨城では間違いなく英雄です!38年の短い生涯でしたが、常陸国(いまの茨城県)で人々の期待を背に大活躍しました。いまでもゆかりの史跡や関連イベントがたくさんあります。

今回はその中から坂東市の延命院えんめいいん平将門の胴塚をご紹介します。これを読めばきっとただの謀反者でないことがわかります!

延命院入口
延命院入口

延命院は坂東市の神田山にある真言宗智山派の寺院です。正式には『神田山 如意輪寺 延命院』といいます。どれくらいの時代に建てられたのか不明ですが、坂東市の公式サイトには次のようにあります。

天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。

延命院と胴塚/坂東市公式

本尊は延命地蔵尊です。名前の通り長寿を祈願されたと思いますが、寺号からすると子宝・子育てなども多かったと考えられますね。

本堂は昭和39年(1964年)に不審火で消失しましたが立派な観音堂、毘沙門堂、不動堂は健在です。延命院でもっとも有名なのは平将門の胴塚があることかと思います。首塚じゃないです。首から下です。

延命院の山号(呼び名)は神田山かどやま。お寺の住所も神田山で地名の由来に『からだ』がなまって神田山になったという説があります。これには将門の体を埋葬した地という説が。地名に英雄の伝説が関わっているのは面白いですね!

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7月下旬に参拝すると境内に咲く250本ほどのヤマユリも楽しめます!

平将門と首塚

境内のご紹介をする前に平将門の首塚についてご紹介します。詳しくやると本筋から離れるので簡単にご紹介。

平将門は平安時代に関東で活躍した武将。先祖を辿ると(桓武)天皇です。

お父さんが下総国しもうさのくに(いまの千葉県と茨城県の一部)の偉い役職だったので、いずれはそれを引き継ぐ予定でした。それまで京都で藤原氏に仕えていたのですが、思うように出世ができずに故郷へ帰ってきます。

将門が帰ってきた頃、下総と常陸国は平氏同士で土地の支配権を争っていました。広がった開拓地の権利を奪い合っていたんです。将門は争いに巻き込まれていき勝利を重ねます。

それから土地の人々に頼られることになり、常陸国の国司(いまの県知事のような立場)と戦うことに。戦いは数で劣るものの見事勝利。以降は身を守る戦いから領地を広げる戦いへ変わります。

続いていまの栃木や群馬県の国司も降伏させ、勢いに乗り(?)新皇しんのうを名乗ります。

ついてこれますか?身内に狙われたり、仲間を助けたり。戦う理由はさまざまです。地元に帰ってきたらいきなり親戚から命を狙われる。なんとか打ち破っても、常に支配者決定トーナメントに参加しなくてはいけない。そんな厳しい中で勝ち続けました。

既存の支配者のもとで苦しんだ人々の期待も後押ししたと思います。

新皇を名乗ったことは朝廷から反逆の意思ありとされました。しかし、天皇と藤原家に将門を討つ力はありません。将門の討伐には藤原秀郷ふじわらのひでさと平貞盛たいらのさだもりらが向かいました。

天慶3年(940年)2月14日。いまの坂東市内で北山合戦がありました。そして激闘の末、将門は額を矢で射抜かれてしまいます。秀郷は将門の首を京都に持ち帰りましたが。。首は大声をあげて武蔵国(いまの東京都)まで飛んでいきました。

東京都大手町の将門の首塚は、そうした経緯で将門の首が眠っているのだとか。。

平将門の胴塚

将門の胴塚
将門の胴塚

将門の首塚は都内にあります。では残された胴体は?胴体は戦場からこの地に運ばれて埋葬されたといいます。

境内の立て札によれば、この地は相馬御厨そうまみくりやという神聖な土地で、埋葬すれば賊にあばかれないと考えられたからです。前に延命院の山号は神田山とご紹介しましたが、伝説にちなんで将門山とも呼ばれています。

将門の胴塚です。不動堂の裏にひっそりとあります。塚の後ろにあるのは天然記念物のかやの木です。その下に円墳(将門山古墳)があって将門の胴体が眠っているとされています。訪れたときにはお酒や花がお供えされていました。

六地蔵の如意輪菩薩

塚の前には六地蔵と如意輪菩薩の石仏。お寺の寺号、院号にもある菩薩ですね。見守るように安置されています。

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平将門の首塚はオカルトとして知られています。首塚周辺の事故は当時であれば起こりうると思います。

南無阿弥陀佛の碑と大威徳将門明王の碑

南無阿弥陀佛の碑と大威徳将門明王の碑
南無阿弥陀佛の碑と大威徳将門明王の碑

胴塚のそばに将門に関連した2つの石碑があります。

写真右手の南無阿弥陀佛の碑は昭和50年(1975年)に東京都の将門塚保存会から贈られたもの。胴塚は首塚の保存会から公認されているということでしょう。

左手の大威徳だいいとく将門明王の碑は延命院の住職が贈ったものです。大威徳明王は「閻魔を倒すもの」という意味。ちょっと怖いですが、死の神から守ってくれるということだと思います。戦勝祈願のご利益にも納得ですね。

境内

観音堂

観音堂
観音堂

鮮やかな朱色が特徴の観音堂は入門してすぐ左手にあります。宝永7年(1710年)に建てられたもので聖観世音菩薩が安置されています。延命院は篠越山 延命院 観音寺とも呼ばれますので、それに見合った観音堂ですね。

菩薩像は伝教大師の作なのですが。。伝教大師は最澄さいちょうのこと。最澄は天台宗の開祖なので当寺と宗派が違うのですが。。だれか教えてください。

観音堂の四方には立派な彫刻が見えます。欠けている部分が多いものの十二支『二十四孝』がモチーフであることは間違いありません。『二十四孝』は親孝行の物語が二十四収録されています。

二十四孝(孟宗)
二十四孝(孟宗)

上部の蟇股の部分にあるのが十二支、四方の十二ありますから一面あたり三支が設置されています。こちらは戌っぽいですね。

下部の横長の彫刻が二十四孝。若い男性と竹の子があるので『孟宗もうそう』かと思います。孟宗は幼い頃に父と死に別れ、母一人に養われていました。その母親が病の末に竹の子を求めたので孟宗は冬なのに竹やぶへ。

見つかるはずがないと絶望しつつも天に祈ると大地が裂けて竹の子が生えてきました。その竹の子を食べた母は不思議と病が治って長生きしたという物語です。

二十四孝(王祥)
二十四孝(王祥)

こちらは『王祥おうしょう』。自分をいじめる継母が魚を求めたので捕りに行ったシーンです。季節が冬だったので水面が凍っておりどうやっても魚は捕れない。そこで裸になって体温で氷を溶かして魚をゲットしたわけです。

二十四孝(楊香)
二十四孝(楊香)

こちらが有名な『楊香ようこう』。神社本殿の脇障子や同羽目板に彫られていたりします。虎に襲われた父を助けるために自らが犠牲になることで父を助けて欲しいと天に願ったところ両者とも救われたお話です。

楊香の父
楊香の父

不動堂

不動堂
不動堂

簡素ながらかなり古そうな不動堂。扁額には『谷原光不動尊』とありました。当院は真言宗ですから、大日如来の教令輪身である不動尊は本尊に並ぶ存在です。こちらも忘れずにお参りせねば。

『谷原光不動尊』の扁額
『谷原光不動尊』の扁額

お賽銭箱の上には市内のパンフレットがありましたので一部いただきました。参拝者のノートがあったのでのぞいてみると将門公を訪ねて遠くからきた方がたくさんいらっしゃるようです。

毘沙門堂

毘沙門堂
毘沙門堂

毘沙門堂には将門山の山号がつけられています。もちろん将門公に由来するのでしょう。こちらの毘沙門天は菅生沼七福神の一画としてお祀りされています。

毘沙門天(菅生沼七福神)
毘沙門天(菅生沼七福神)

新型コロナが流行していた頃は中止されていましたが、令和6年の正月には菅生沼七福神巡りが再開されました。毘沙門堂はご開帳され、その姿を直に見ることができました。なんとも凛々しい御姿!

参道の右手には馬頭観音などの石仏が並べられていました。そういえば将門公は優秀な騎馬隊によって少数ながら戦に勝ち続けましたから、馬は丁重に扱われたのでしょう。

菅生沼七福神は平成19年の正月からスタートした七福神めぐりのイベントです。令和6年現在は1月1日〜1月7日までの7日間、朝8時から夕方4時30分まで朱印をいただけます。

アクセス

名称神田山 如意輪寺 延命院(篠越山延命院観音寺とも)
住所茨城県坂東市神田山715
駐車場あり
Webサイト坂東市公式サイト内

御朱印

延命院の御朱印
延命院の御朱印

延命院の御朱印です。御朱印は2年ほど前にはなかったかと思いますが、2020年3月に参拝したときに境内に案内がありました。

ご希望の方は庫裏へどうぞ。お寺の方がご不在の場合でも書置がいただけるかと思います。

御朱印の種類
御朱印の種類

令和5年時点ではこのような御朱印が頒布されていました。このうち③は期間限定です。今後も催事などにあわせて特別な御朱印が頒布されているかもしれませんね。

まとめ

・平将門は戦わざるを得ない状況だった
・将門の首は京都へ。胴体は坂東市に埋められたという
・胴塚は坂東市内の延命院にある
・御朱印は庫裏でいただける。書き置きも有り

参考文献

茨城県の民話|編:日本児童文学者協会
いばらきのむかし話|編:藤田稔
あなたの知らない茨城県の歴史|監:山本博文