2月17日(水)『うなぎ地蔵』(城里町)の記事を公開しました。次回更新は2月21日(水)の予定です。

平将門の首塚!じゃなくて胴塚がある延命院!謀反者でなく英雄としての将門に触れてきました♬(坂東市)

将門の胴塚

茨城県には立派な武士や武将がたくさんいます。それを地域ごとに考えてみても面白いですね。県北の佐竹氏。県央の徳川家。県南の小田氏。鹿行だと塚原卜伝(剣豪)が有名です。そして、県西はなんといっても平将門たいらのまさかどでしょう!(๑•̀ㅂ•́)و✧

さまざまな評価がありますが、茨城では間違いなく英雄です!38年の短い生涯でしたが、常陸国(いまの茨城県)で人々の期待を背に大活躍しました。いまでもゆかりの史跡や関連したイベント、お土産品がたくさんあります(*^^*)

今回はその中から特に重要な延命院えんめいいん平将門の胴塚をご紹介します。これを読めば、きっとただの謀反者でないことがわかると思います!

延命院とは

延命院入り口

延命院は坂東市の岩井にある真言宗のお寺です。どれくらいの時代に建てられたのか不明ですが、本堂は昭和39年(1964年)に不審火によって無くなってしまいました。でも、立派な観音堂、毘沙門堂、不動堂は健在です。そして、もっとも有名なのは平将門の胴塚があることです。

延命院の山号(呼び名)は、神田山かどやまです。お寺の住所も神田山で、地名の由来に『からだ』がなまって神田山になったという説があります。あとで紹介しますが、将門の体を埋葬した地とされています。地名に英雄の伝説が関わっているのは、とても面白いですね!

境内のご紹介をする前に、平将門とよく知られている首塚についてご紹介します。

平将門と首塚

詳しくやると本筋から離れるので、簡単にご紹介します。

平将門は平安時代に関東で活躍した武将です。先祖には天皇(!)お父さんが下総国しもうさのくに(いまの千葉県と茨城県の一部)の偉い役職だったので、いずれはそれを引き継ぐ予定でした。それまでの若い頃(15歳くらいから)は、京都で藤原氏に仕えていました。でも、思うように出世ができず、故郷に戻ってきます。

将門が帰ってきた頃の下総と常陸国は平氏同士で土地の支配権を争っていました。開拓地が広がっていて、みんなその権利を欲しがっていたのです。将門は争いに巻き込まれていきますが・・・戦に強く、勝利を重ねます。

それから土地の人々に頼られることになり、常陸国の国司(いまの県知事のような立場)と戦うことになります。戦いは数で劣るものの見事勝利。以降は身を守る戦いから領地を広げる戦いへ変わります。続いて、いまの栃木や群馬県の国司も降伏させ、勢いに乗り(?)新皇しんのうを名乗ります。


ついてこれますか?(^_^;)
身内に狙われたり、仲間を助けたり・・・戦う理由はさまざまです。動乱していた地に帰ってきたら、いきなり親戚から命を狙われる状況。なんとか打ち破っても、常に支配者決定トーナメントに参加しなくてはいけない・・・そんな厳しい中で勝ち続けてきました。既存の支配者のもとで苦しい生活をしていた百姓たちの期待も後押ししたかもしれませんね。当時の将門も自分の展開についていけなかったことでしょう。


新皇を名乗ったことは、朝廷から反逆の意思ありとされました。しかし、天皇と藤原家に将門を討つ力はありません。将門の討伐には、藤原秀郷ふじわらのひでさと平貞盛たいらのさだもりらが参加しました。

天慶3年(940年)の2月14日。いまの坂東市内で北山合戦がありました。そして激闘の末、将門は額を矢で射抜かれてしまいます。秀郷は将門の首を京都に持ち帰りましたが・・・首は大声をあげて武蔵国(いまの東京都)まで飛んでいったそうです。東京都大手町の将門の首塚は、そうした経緯で将門の首が眠っているのだとか。。。

平将門の胴塚

将門の首塚は都内にあります。では残された胴体は?胴体は戦場からこの地に運ばれて埋葬されたといいます。境内の立て札によれば、この地は相馬御厨そうまみくりやという神聖な土地で、埋葬すれば賊にあばかれないと考えられたからです。前に延命院の山号は神田山とご紹介しましたが、伝説にちなんで将門山とも呼ばれています。

将門の胴塚

将門の胴塚です。境内の不動堂の裏にあります。塚の後ろにあるのは天然記念物のかやの木です。その下に円墳(将門山古墳)があって将門の胴体が眠っているとされています。訪れたときには、お酒や花、柿がお供えされていました。しっかりと祀られています。

胴塚を見守る菩薩像

また、胴塚を見守るように仏像が並んでいます。

wata

それにしても平将門の首塚は有名ですよね。重要な史跡ですが、それよりもオカルトな話で知られています。首塚周辺の事故は当時であれば起こりうることだと思います。それが、『新皇』将門の印象によって怨霊説を生み出したのではないでしょうか

南無阿弥陀佛の碑と大威徳将門明王の碑

胴塚のそばに将門に関連した2つの石碑があります。写真右手の南無阿弥陀佛の碑は東京都の将門塚保存会から贈られたものです。つまり、こちらの胴塚が首塚の保存会から公認されているということでしょう。

将門ゆかりの石碑

左手の大威徳だいいとく将門明王の碑は延命院の住職が贈ったものです。大威徳明王は「閻魔を倒すもの」という意味があります。ちょっと怖いイメージですが、死の神から守ってくれるということだと思います。戦勝祈願のご利益にも納得ですね(*^^*)

大威徳明王については、以下のサイトに詳しくてわかりやすい解説があります。

参考

大威徳明王の特徴寺社巡り.com

観音堂と不動堂、毘沙門堂

大雨の日に訪ねてしまいましたが、立派なお堂もありますのでご紹介します。

延命院の観音堂

延命院の不動堂

延命院の毘沙門堂

上から順に、観音堂、不動堂、毘沙門堂です。

観音堂は入門してすぐ左手にあります。1710年に建てられたもので、聖観世音菩薩があります。延命院は篠越山 延命院 観音寺ともいいます。それだけに立派な観音堂ですね(*^^*)

ところで、坂東市役所の公式サイトによると、菩薩像は伝教大師の作とあります。伝教大師は最澄さいちょうのことで、最澄は天台宗の開祖・・・宗派が違うので不思議なのですが、わたしがなにか誤解しているのでしょうか?詳しい方、教えてくださいm(__)m

まとめ

茨城では平将門を悲劇の英雄としています。わたしも強い力を持った悪いヤツ、というよりもそちらに共感します。地元に戻って早々に親戚から命を狙われたり、数で勝る相手と戦うなど辛いことばかりです。また、土地争いが激しい状況で、平氏同士であっても話し合いが通用しません。

戦わざるをえない状況で勝ち続け、その勢いに乗ろうとする勢力や朝廷への不満をぶつける民衆の願いが合体していきます。みんなの願いを素直に聞いていたらこうなった・・・というのが真相ではないかと思います。

ただ、新皇を名乗ったことはよくわかりません。謎の巫女のお告げに従ったという奇妙な話があるくらい、その理由は不明です。京都で藤原家に仕えているなら、それがどういう意味を持つかわかりそうなものですが・・・平将門の最大の謎ですね。

アクセス

名称 神田山 如意輪寺 延命院
住所 〒306-0617 茨城県坂東市神田山715
Webサイト 坂東市公式サイト内
駐車場 あり


参考図書
茨城県の民話/編:日本児童文学者協会
いばらきのむかし話/編:藤田稔
あなたの知らない茨城県の歴史/監:山本博文