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- 由緒とご祭神の饒速日命について
- 式内社とされる理由
- 御朱印のいただき方
この記事では常陸太田市の稲村神社をご紹介します。延喜式内神名帳に記載のあるいわゆる式内社です!
目次
稲村神社とは
由緒
茨城県神社誌をもとに由緒をご紹介します。
※一説には景行天皇40年に日本武尊が東征の際に天神七代の霊を祀ったといわれる。
ご祭神は以下の通りです。
- 饒速日命…物部氏の祖神
- 國常立尊
- 國狹槌尊
- 豊斟渟尊
- 泥土煮尊、沙土煮尊
- 大戸之道尊、大苫邊尊
- 面足尊、惶根尊
- 伊弉諾尊、伊弉册尊
ここで重要なのは①の饒速日命です。記紀では神武天皇と敵対した長髄彦が仕えた神。天磐船で天降った天神の御子とされていますが、詳しい系譜は不明。かなり謎めいています。
饒速日命の子は宇摩志麻治命。そして宇摩志麻治命の子孫が物部氏です。そのため饒速日命は物部氏の祖神にあたります。
当地には25部もの物部氏が居住していたといわれています。その物部氏に狭竹物部がいたことが佐竹郷の由来になりました。戦国時代に常陸の国を統一した佐竹氏の由来は佐竹郷です。
ただ、佐竹氏は稲村神社よりも源氏の守護神である八幡さまを崇敬していたので、佐竹氏が出羽に国替えになるまで天神信仰はひっそりだったようです。
②〜⑧はいわゆる「神代の七代」ですが、古事記ではなく日本書紀に記載された七代です。七代をご祭神にする神社って他にあるのでしょうか。わたしは江戸時代の水戸藩による寺社改革が関係していると思うのですが。。
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明治に郷社となった際に社号を稲村神社に戻したといわれています。
アクセス
車での参拝になるかと思います。日立南大田ICをおりて約15分(9.4km)。
境内周辺は非常に狭い道路なので注意が必要です。オススメは佐竹寺を左手にしながら行くことです。逆方面から心臓に悪いくらい狭い道です。。
駐車場は社号標の先、右手にあります。車で社殿の前まで行けますが、切り返しが困難なので少し歩くことを覚悟しましょう。駐車場から社殿までだいたい200mくらいです。
名称 | 稲村神社 |
---|---|
住所 | 茨城県常陸太田市天神林町3228 |
駐車場 | あり |
大鳥居
駐車場に車を止めて社殿に続く一本道を進むと大鳥居です。
ここから先は神社の他に旧宮司宅と思われる建物しかありません。場所も絶壁の上となっていて周辺と隔離された空間。異世界への入り口のようで神秘的な雰囲気が漂っています。
二の鳥居
大鳥居の先に100mほど進むと玉垣で仕切られた先に二の鳥居が見えます。近づくとわかるのですが、玉垣の手前に小さな神橋がかかっていました。
地元の方の話では橋の先の小高い場所が天神山です。天神といえば菅原道真公を指しますが、道真公が生まれる前からある言葉です。古くは「天津神」などの意味で広く使われていました。
稲村神社の鎮座地は天神林というのですが、新編常陸国誌によると地名「天神林」は応永(1394年)以降に稲木(稲村)から分かれてできました。稲木については稲置が転化したといわれています。低地で作った稲はそのままだと雨で浸ってしまうので高台の当地に運んでおいたことに由来するのだとか。
社殿
入母屋造の拝殿です。レンガのような赤茶の屋根。濃淡ができて味わい深くなっていますね。
社殿のあちこちに葵紋が見えるのは、もちろん水戸徳川家のゆかりを示しています。光圀公のお気に入りだったようで直筆の扁額まであるんです。社宝なので表には出していませんけどね。
本殿は立派な神明造。面白いことに女千木なんですね。厳かな佇まいで光圀公が度々足を運ぶにふさわしい社だと思います。
本殿に祀られているご祭神は前述したとおりですが、神代の七代については江戸時代から議論があったようです。水戸藩後期の郡吏だった加藤寛斎の『加藤寛斎随筆』には「天神とは七代天神ではなく、佐竹物部の天神」の旨あります。つまり饒速日命のことでしょう。
なぜ七代天神が出てきたかはよくわかりませんが、水戸藩の寺社改革は怪しげな神社を容赦なく潰していましたので氏子が危惧して差し替えたのかもしれません。饒速日命は一時的ではありますが神武天皇と敵対しましたし、謎の多い神ですから。
七代天神の名称は日本書紀本文と漢字や並びまで完全に一致します。諸説をいくつも併記した書物なので、完全一致は。。取ってつけたようなんですよね。ただ、七代天神のいずれかは饒速日命の祖神のはずなので物部氏の祖神信仰という意味では間違っていないと思います。
日立市の蚕養神社も水戸藩の調査で本来の祭神「蚕養大明神」を隠しています。そっちの場合はその後もとに戻していませんが。。
社殿の周辺には多数の境内社。八幡宮や御岩神社までありました。信仰の集合地。神聖な場所として大切にしたいですね。
雷神社
稲村神社の本殿の裏、30mほど進むと雷神社が鎮座しています。距離的には短いものの傾斜があるので少し遠く感じます。
また、夏場は足元がよく見えなくなりますのでよく注意しながら参拝する必要があります。蛇などもいると思いますので無理せずに。
雷神社は稲村神社から分祀された神社で雨乞いのご利益があるとされています。雨乞い神事では社殿を神輿の中に入れて担いで村中を周るのだとか。神事は昭和29年まで続けられました。
御朱印
稲村神社の御朱印です。いただく場合は宮司の本務である天志良波神社でいただけます。
なお、天志良波神社も式内社です。常陸太田は式内社が集中している地域でして、それには特別な理由があったように思います。
それについて言及される方はあまりいらっしゃらないようなので、たくさんの情報を調べられる現代だからこそ迫ってみたいですね!
式内社としての稲村神社
式内社・稲村神社の論社は3社です。当社の他に大子町の近津神社、桜川市の磯部稲村神社がありますが、前者は陸奥国、後者は常陸国の新治郡にあたりますので「久慈郡の稲村神社」でないことはたしか。ふつうに考えれば当社が比定社です。
式内社とされた背景としては物部氏が祭具(矛と盾)の調達をしていたことが理由ではないかと思います。当地の物部氏はかなり多かったようで同市内の長幡部神社や近隣の静神社(那珂市静)の辺りにも居住していたといわれます。
長幡部神社と静神社はいずれも式内社です。少し前にご紹介した天志良波神社も忌部氏の関係で祭具を作っていたと考えられますので、物部氏ゆかり当社はやはり比定社となるのではないでしょうか。
まとめ
この記事のまとめ
- 天神林の稲村神社は式内社に比定される
- 御祭神の饒速日命は物部氏の祖神
- 御朱印は宮司の本務である天志良波神社でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
古社巡礼ー式内社を歩くー/榎本実
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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