【式内社】天志良波神社と古語拾遺|常陸太田市

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神について
  • 延喜式内社とされた要因の考察
  • 御朱印のいただき方

この記事では常陸太田市の天志良波あめのしらはね神社をご紹介します。他の神社にはない珍しい要素がいくつもありますので、ぜひ参拝のご参考にしてみてください♪

天志良波神社とは

天志良波神社

天志良波神社

由緒

茨城県神社誌をベースに由緒をご紹介します。

延暦14年/795年
創建
一説に坂上田村麻呂軍東征の際に創建といわれるが定かでない
貞観8年/866年
神階・従五位下へ
貞観16年/874年
神階・従五位上へ
天文13年/1544年
造営
佐竹義篤により社殿修営遷宮式あり
元禄年年/1688-1704年
別当の取りやめ
大聖院の社務をとりやめ神職の奉仕とする
享保12年/1727年
造営
徳川実堯(宗堯の誤記?)により社殿の営修あり
天保15年/1844年
五ヶ村の鎮守となる
水戸藩主・徳川斉昭の命により、白羽、田渡、西宮、三才、小沢の五か村の鎮守社となる
明治4年/1871年
郷社列格
明治6年/1873年
村社列格
大正11年/1922年
再び郷社列格
平成19年/2007年
大鳥居建立

ご祭神は天白羽あめのしらはねです。同神は天志良波神長白羽神の別名も持っています。

あまり耳にしたことのないご祭神ですよね。県神社庁は次のように紹介しています。

御祭神は天照大神天岩戸にかくれましし時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父神天日鷲命は白和幣を作られた。
弟神健葉槌命と共に麻を植え織物を広めた神であり、麻績氏の祖神である、白羽は衣服のことである。
天志良波神社/茨城県神社庁

これでなにかピンとくる方はスゴイ。有名な天の岩戸神話ですが、天太玉命が記紀の表記(布刀玉命・太玉命)と異なっていて忌部氏の伝承をまとめた古語拾遺こごしゅういを元にしていると読み取れます。

茨城県民なら少々マイナーな天日鷲あめのひわし健葉槌たけはづちもご存知かもしれませんね。前者は各地の鷲神社や鷲子山上神社(常陸大宮市)に、後者は常陸国の二の宮である静神社(那珂市)に祀られています。天白羽神はそれらと家族で衣服とゆかりのある神とされています。

この辺りはいろいろな方のブログに書かれているのでもうちょっと深いことを突っ込んでみます。

当社の由緒にある天太玉あめのふとたま命、天日鷲命、そしてご祭神の天白羽神は忌部いんべ氏の祖神です。忌部氏は中臣氏と並んで朝廷の祭祀を担う氏であり、特に神具の調達や配布(班幣という)を行っていました。

地方の忌部氏(地球のおへそ『古語拾遺』編より)

地方の忌部氏(地球のおへそ『古語拾遺』編より)

どうしてひとつの氏にいくつも祖神があるのかというと、同じ氏であっても必ずしも血の繋がりはないためです。中央の氏(伴造とものみやつこ)に対して地方の氏(品部しなべ)という関係があり、中央の氏は地方の氏を統率していました。

現在の奈良県橿原市が本拠地とされる中央忌部氏の祖神は天太玉命です。つまり、前述の神話は天太玉命が天日鷲命(阿波国の忌部氏の祖神)や天白羽神(伊勢国の忌部氏の祖神)たちを率いて祭具の準備をした伝承というわけです。現実の忌部氏も同じような関係なのが面白いところですね。

wata

「羽」は動物が身にまとうものです。人間にとって「服」にあたりますので、やはり天白羽神は衣類に関係するご祭神でしょう!
MEMO
坂上田村麻呂の伝承は別当の大聖院に伝わる創建の由緒と同じです。ただし、大聖院の創建時すでに白羽村があるので神社が先に創建されたのではないかと考えられます。

アクセス

参拝するなら車になるでしょう。日立南大田ICを下りて約15分。周辺はコンビニなどもあまりないのどかな場所です。

鳥居左の道路を進んで駐車場へ

鳥居左の道路を進んで駐車場へ

整備された駐車場はありませんが、鳥居の先に数台駐車可能です。大勢参拝することはないと思いますので、ほぼ確実に駐車できます。

ただ。。道路が狭いので運転にはご注意ください。

名称 天志良波神社
住所 茨城県常陸太田市白羽町1760
駐車場 あり(3台程度)

鳥居と社号標

鳥居と社号標

鳥居と社号標

駐車場に車を停めたら境内を一旦出てこちらの鳥居へ。

2007年に建立された鳥居で現代的な色合いをしています。なにか意味があるのかもしれませんね。

鳥居の右手前には社号標。「延喜式内」「郷社」とあった文字が塗りつぶされています。

郷社は廃止された社格なのでわからないでもないですが、延喜式内は社号標を建てた時点で律令制時代における重要な神社という意味なので消さなくてもいいと思うんですよね。事情は理解しているものの神社としては残したかったはずなので複雑な気分になります。

石段

石段

鳥居をくぐり、突き当りを右へ。するとすぐに左手に石段が見えてきます。(御朱印をいただきたい方は石段右手に進んでください)

社殿跡

社殿跡

少々不安定な石段を歴史を噛みしめるような思いで登っていくと左手に手水舎、右手にかつての社殿跡が見えました。

しめ縄らしきもので仕切られているので祓い清めているのでしょうか。じつはこの神社のことを調べているうちにでひとつだけ気になった境内社があるのでそれかなぁと考えているところです。

社殿

拝殿

拝殿

山を切り開いたかのような場所にありますので、晴れた日の昼間に参拝すると社殿に神々しく光が差しているようです。神秘的で大変美しい!

本殿にある神紋は葵紋。享保に四代水戸藩主・宗堯が造営したことによるのでしょう。

創建については不詳となっていますが、式内社、佐竹氏と水戸徳川家の加護、郷社列格と極めて多くの信仰を集めていた神社なので気に留めていただきたい場所ですね。

本殿

本殿

ところで、当社はなにゆえ式内社として重視されたのでしょうか。決して有名なご祭神ではないので気になる方は多いはず。

わたしは神社の「役割」にあるのではと思います。前述したとおりご祭神は忌部氏の祖神であり、神話では祭具の調達を担っています。麻を植えた神とされるので氏子は御幣や神職の神衣を生産していたのではないでしょうか。祭具は他の神社でも利用するので特に重要です。

長幡部神社(常陸太田市)や静神社(那珂市)など近くの別の式内社も似たような役割を持っていたと思いますし、泉神社(日立市)も祭神名からするとその可能性があります。各社のご祭神に謎を感じるのは記紀をもとに考えているからであって、忌部の視点なら自然なのかもしれませんね。

わたしの考えは当社の周辺に忌部氏がいたということではなく、重要な祭具を地方で勝手に作っていては問題が生じるので朝廷(神祇官)の管理下に置かれたのではないか。それで結果的に延喜式の神名帳に書かれたのではないか、ということです。

式内社となる前から祭具を作っていて朝廷が後追いで公認したのかもしれません。いずれにせよ幣帛を与える代わりになにかあれば神社を通じて生産に介入できるようにしたのではと思います。

御朱印

天志良波神社の御朱印

天志良波神社の御朱印

天志良波神社の御朱印です。神社となりの宮司宅でいただけます。

この日は宮司がご不在でしたので書き置きをと思いましたが、ちょうどご帰宅されたので直に書いてくださいました。神社についてお話も伺いご縁に感謝する参拝となりました。

MEMO
兼務社の河合神社(茨城県常陸太田市上河合町1)、稲村神社(茨城県常陸太田市天神林町3228)の御朱印もいただけます。

余談:天”白”羽神とは

扁額

扁額

古代における「白」の字は現代の白、つまりホワイトとは別の意味を持っていました。漢字の成り立ちを調べてもらえばわかるように、白は人間の頭蓋骨に由来します。

古代中国で白事といったらお葬式です。日本でもあまりポジティブな意味ではなく、中国と同じく葬儀あるいは「浄化」を意味する色でした。現代の日本人が白から純粋や清潔をイメージするのは西洋の影響、つまり明治以降といわれます。

当記事でご紹介した忌部氏の「忌」の字は忌中など葬儀関係で用いられますが、忌部氏は葬儀を含めた祭祀全般を担う氏です。

この2つの事柄を繋げると祖神に白の字をあてている品部はとりわけ葬儀に関係していたと考えられます。とはいえ、「天志良波」のように白を使わない場合もあるのでずっと同じだったとも思えないのですが。。

wata

まだまだ謎の多い神社、そしてご祭神です。いろいろな想像が働きますね!
MEMO
中央の忌部氏は延暦22年(803年)に斎部氏と改めました。忌の字が葬儀と関係することを嫌ったといわれています。同様の理由で氏を改めた土師氏は菅原氏となりました。なお、天満宮に祀られる菅原道真も同じ菅原氏です。

まとめ

この記事のまとめ

  • ご祭神は忌部氏の祖神
  • 古くは周辺で祭具を生産していたかもしれない
  • 御朱印は宮司宅でいただける(兼務社の河合神社、稲村神社も可)

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