【式内社】機織の神を祀る長幡部神社|常陸太田市

この記事でわかること
  • 神社の由緒とご祭神について
  • アクセスおよび駐車場
  • 御朱印のいただき方

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

常陸太田市は由緒ある神社が密集していますね。市街から離れておらず参拝しやすいのも魅力です。わたしも楽しく周らせていただいています。

そこで今回は中心地からあまり離れていないけど雰囲気満点の長幡部ながはたべ神社をご紹介します。文字通り機織にゆかりのある神社です♪

長幡部神社とは

長幡部神社

長幡部神社

由緒

当社の由緒を茨城県神社誌と常陸国風土記をもとにご紹介します。

不詳
創建
常陸国で機織りを指導した多弖命を祀る神社として子孫が創建
仁寿元年/851年
神階・正六位上を授かる
中世
改称
小幡明神、その後に駒形明神と改称する
康平年間/1058-1065年
改称
前九年の役の際に源頼義が旗を一旒奉献して戦勝祈願。凱旋後、当地に鹿島、三島、神明、若宮八幡を祭り、四所明神と称する
明応10年/1501年
神階・正三位を授かる
延享年間/1744-1748年
改称
古老の口碑に従い旧社号に改称。なお、それ以前は四所明神から鹿島神社に改称していた
明治6年/1873年
郷社列格

ご祭神は綺日女かむはたひめ多弖たてです。いずれも長幡部連の祖神とされています。

綺日女命は天孫降臨にお供した天津神です。綺日女命の子孫は筑紫から美濃、そして常陸国に渡って機織りを広めました。多弖命も綺日女命の子孫です。常陸国に渡ったのは崇神天皇の代といいますから、正史(日本書紀)をもとにすると紀元前97〜30年でしょうか。

常陸国風土記によると多弖命の織った布はひとりでに着物になったので縫う必要がなかったとか、鋭い刃物でも断てなかったとあります。まるで伝説の防具!

また、社伝には「以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、是を神調とした」と書かれています。神調は奉納されたという意味でしょう。それだけ優れた織物だったのでしょうが。。明らかに静神社(倭文神)を意識しているのが気になる。。

wata

延喜式神名帳に常陸国二十八社および久慈郡七座の一つとして名のある小社です。その頃は現在地から少し離れた地に鎮座していたそうです。

アクセス

常磐道の日立南太田インターチェンジを下りて約15分(約6km)。本務の若宮八幡宮から車で10分ほど。

中心地からさほど離れていないということですが、参拝は車になるかと思います

境内北の道路から駐車場へ続く道

境内北の道路から駐車場へ続く道

表参道から参拝するのはなかなか大変なようです。わたしはナビに従って行ったところ社殿のすぐそばに駐車できました。

ただ、駐車場は整備されているわけではないので場合によっては道路の端に停める方がよいかもしれません。あまり長居はできませんが、広い神社ではないので問題ないでしょう。

名称 長幡部神社
住所 茨城県常陸太田市幡町539番地
駐車場 なし

鳥居と手水舎

一の鳥居

一の鳥居

駐車場を降りると鳥居をくぐらずに手水舎、そして社殿と進んでしまいます。せっかくので少しバックして鳥居を拝見。

けっこう新しいですね。震災の影響か一度崩れてしまったようで近くに扁額が置いてありました。

険しい表参道

険しい表参道

ちなみに表参道から入ろうとするとなかなかに険しい道程になるようです。りんさんのブログによると切り通しの原始的な参道になっているようです。

二の鳥居

二の鳥居

二の鳥居は両部鳥居。どうでもいいですが、わたしは両部鳥居が好きです。なんだか強そうなので。

笠木が緑なのは銅板のサビでしょうか。周囲の植物と調和しているようですね。

手水舎

手水舎

手水舎にはおしゃれな柄杓が置かれていました。台もお手製のようです。当社ではちょっとした台や足場を木材で手作りされています。参拝者は多くないと思いますが、こうして迎える気持ちが嬉しいですよね。

長幡部神社郷土資料館

長幡部郷土資料館

長幡部郷土資料館

社殿の少し手前にしめ縄で結界が張られた長幡部神社郷土資料館がありました。

中にはかつて利用したと思われる機織り機。由緒から中世の頃にはこの辺りに長幡部氏の子孫はいなかった気がしますが。。産業はきっと続けられていたでしょうね。

機織り機は当社にとっては重要な意味を持っていますので、こうして現物を残しておくのは素晴らしいことかと思います。

ところで、常陸国風土記にはご祭神が織った布を次のように説明しています。

その織られた布は、ひとりでに衣裳おきものとなって、あらためて裁ち縫う必要がなかった。(だから)これを内幡うつはたと言っているーと。また別の人はこうも言っている。ー絁を織るときは、容易に人に見られてしまうので、幡屋の戸をしめきり、屋内を闇くらして(暗闇の中で)織る。だから烏幡うつはたと名付けるのだーと。
常陸国風土記 全訳中

織物を「うつはた」と呼んでいたこととその由来を紹介しています。暗闇で機を織る姿を烏(からす)に例えるのはわかるとして、内幡はピンときませんよね。同書の解説によると内は「まったく」や「すっかり」の意味で内幡は「すでに完成された幡(布)」だそうです。なるほど〜

社殿

拝殿

拝殿

入母屋造の拝殿。いつ頃建てられたかはわかりませんが、建物側面に多くの方々が奉納をしたことが残されていますのでお手入れはしっかりされているようです。

しめ縄もきれいだし、お賽銭箱の隣には記念?に押せる社判も用意されていました。

常陸太田市史によると当社は結城紬で知られる結城市や織物で有名な足利市、桐生市の織物関係者も信仰しているとか。

結城は中臣氏と並んで祭祀を司る忌部氏の拠点があったといわれる場所です。祭具の調達は忌部氏の役割です。もちろん織物も調達していました。結城の忌部氏は当地の長幡部氏と関係していたのでしょうか。可能性はありそうですね。

本殿

本殿

本殿は神明造。男千木で鰹木3本、神紋は三つ巴です。男性神を連想させますが。。そういえばご祭神に性別はあるでしょうか。

たびたびご祭神が交代した歴史なので、社殿の造りは鹿島神(タケミカヅチ)を意識しているかもしれません。

でも、機織りは神話の時代から女性によって支えられてきたので、ご祭神の多弖命や綺日女命は女性神だと思うんですよね。後者は名前に「ひめ」ってついてますし。

当社は薄暗くて少し怖く感じるかもしれませんが、閑静な場所にあって落ち着く境内だと思います。

境内社

境内社

境内社

よく整備された境内社を見て回るのも一興。浅間(木花開耶姫)、羽黒(木花開耶姫)、石尊(大山祇)、熊野(伊邪那岐、伊邪那美)、愛宕(軻遇突智)、松尾(大山咋)、白山(菊理姫)、阿夫利神社(日本武)を目にしました。

羽黒神社と浅間神社

羽黒神社と浅間神社

これらは元々は別の場所にあったものが当社に集められたのかもしれませんが、それにしても。。山岳信仰が凝縮されているようです。

県北の常陸五山には多くの山伏が集まっていましたし、それぞれの信仰の起源は山伏なのかもしれませんね。おそらく社伝などは残されていませんので想像するしか無いのですが。。

こうした結論の出ないことに思いを巡らせるのも参拝の楽しみですね〜

御朱印

長幡部神社の御朱印

長幡部神社の御朱印

御朱印は本務である若宮八幡宮でいただけます(茨城県常陸太田市宮本町2344)。同社の社務所でお申し出ください。

わたしの参拝したのは2020年9月だったこともあって書き置きでした。

まとめ

この記事のまとめ

  • 長幡部神社は常陸国風土記に記載があり、式内社に比定されている
  • ご祭神は長幡部氏の祖神
  • 御朱印は本務の若宮八幡宮でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
常陸太田市史/常陸太田市史編さん委員会

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