水戸黄門が晩年を過ごした西山荘〜光圀の隠れた功績を振り返る(常陸太田市)

西山御殿外観1

水戸黄門こと徳川光圀が最期を迎えた場所は、常陸太田市の西山荘せいざんそうです。

黄門伝説にはマユツバも少なくありませんが、これは事実。だからこそ光圀の人柄のわかるものが残されています。光圀が藩や人々の平和を心から願っていたことは確かで、本当にテレビの黄門様のような面がありました。

でも、いい人ってだけじゃないんですよ。情報に敏感でチャレンジ精神にも溢れていました。融通がきかない面もありましたけどね・・・きっと現代の人々の参考になると思いますので、今回は西山荘と光圀のご紹介をします。

よく知られている大日本史の編さんと諸国漫遊のことはあえて書きません。マニアックかもしれませんが、難しくないので気楽に読んでみてください♪

光圀が特別な理由

水戸黄門は11人います。黄門とは幕府から与えられた役職『中納言』のことで、藩主はみんな中納言。水戸藩には11人の藩主がいましたから、水戸黄門も11人というわけです

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すみません。わたしの認識が間違っていました。藩主でも中納言でなかった方がいましたので正しくは7人です。徳川光圀と斉昭をご祭神とする常磐神社のWebサイトで紹介されています。

では、なぜ第2代藩主の徳川光圀だけ黄門様として有名なのでしょうか。テレビドラマや講談にあったとしても、そもそもなぜ光圀なのかわかりませんよね。大日本史は光圀の時代に完成していませんし、諸国漫遊もしていませんので。

原作者の心を読むわけではありませんが、それは当時から本当に水戸で愛されていたからです。人々は政策を通して光圀の人柄を知っていました。歴代藩主で特に慕われていたことが大きな理由でしょう。

それに水戸藩主として唯一、生まれた場所と亡くなった場所が水戸藩なんです。水戸藩は定府制といって、藩主が常に江戸にいました。ですから藩主の子は江戸で生まれます。さらに歴代でもっとも水戸に足を運んだ回数が多いのも光圀。

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水戸黄門といえば光圀なのは、水戸とのゆかりが誰よりも深いからです。そして政策に優れていたことも重要です。

西山荘で隠居した理由

光圀は63歳のときに肉体の衰えを理由に藩主を辞めて、翌年に西山荘に移り住みました。でも、どうして西山(荘)なのでしょうか。自然は豊かですが水戸城から離れていますし、住んでいる人々は佐竹氏に仕えていたものが多いです。

西山を選んだ理由には以下の説があります。

西山を選んだ3つの説
  1. 隠居するにふさわしい静かで落ち着いた環境だった
  2. 母を弔う久昌寺と妻と父が眠る瑞龍山に近いから
  3. 佐竹氏を慕う人々の心を和らげて水戸藩に協力してもらうため

どれもありそうですが、2番めが有力だと思っています。年老いて母を思う気持ちが強くなっていたこと。若くして亡くなった奥さんのこと。晩年は特に意識していたでしょう。

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光圀は27歳のときに17歳の泰姫と結婚しました。しかし、泰姫は21歳で体調を崩して亡くなっています。光圀の悲しみは大きく、再婚はせず生涯独身でした。

それでは、現代に残る西山荘のご紹介をします。

西山の里桃源

桃源

西山荘の住所に到着!でも、すぐに建物は見えません。西山荘の前には庭園が広がっていて、その中を300mほど歩く必要があります。でも、とってもキレイな場所なので、ぜひのんびりと楽しんでいただきたいですね。庭園には無料で入れます。

庭園の前には食事やお土産品の購入ができる『桃源』。写真の立て札にあるように観光ガイドを依頼できます。庭園だけでなく、その先の西山荘もガイドしていただけます。

庭園2

たくさんの花菖蒲が植えてあります。6月中旬から『花菖蒲祭り』がありますので、その時期に合わせて来るのもいいですね!

ご前田

庭園内にある『ご前田ぜんだ』です。光圀は隠居したこの場所で領民として年貢を納めていました。そんな必要はまったくありませんので、領民の心に寄り添う気持ちがあったと考えられます。

MEMO
写真は水田の一部です。実際には5000㎡も耕して太田奉行所に13俵の年貢米を納めました。

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光圀は肉体の衰えを理由に隠居したはずですが、この体力は一体・・・実は隠居の理由に将軍との不仲説があります。光圀は正しいと思ったことを堂々と主張しましたので。。。

西山荘

西山荘チケット購入場所

庭園の先には西山荘。写真にある建物でチケットを購入して入ってください。中には光圀に関する資料なども少しだけ置いてあります。

西山荘入り口

西山荘は光圀にとっての理想郷。入り口の橋に『桃源橋』と名付けていたことでもわかります。静かな場所でたくさんの薬草を植えて、大好きな歴史書の編さんをしながらときには農業も。。。理想的な晩年です。

くぬぎ門

くぬぎ門

くぬぎの丸太を使った簡素な門です。門の前には「下乗」の文字があります。ここから先は神聖な場所なので馬や籠から下りて歩きなさい、という意味です。

表門(突き上げ門)

突き上げ門

光圀自身が考案した門です。昼間は門を突き上げておいて、簡単に出入りできるようになっています。夜は下ろして塀になります。設置しやすく場所もとりませんから合理的ですね。

この門は水戸藩の役人などが利用します。くぐればすぐに光圀のいる西山御殿です。

西山御殿

西山御殿外観1

光圀が生活していた西山御殿にしやまごてんです。亡くなるまでの10年間過ごしました。もちろん大日本史の編さんも行われました。

光圀が移り住むために1690年に建てられたのですが、残念ながらそのときの建物とは違います。徳川ミュージアムの説明を引用します。

西山御殿は、光圀公の死後も遺徳を偲ぶ歴代藩主により守られてきましたが、残念ながら文化14年(1817年)の野火により焼失しました。その2年後の文政2年(1819年)8代藩主齊脩公により、規模を縮小して再建され、今日に至っています。
国指定史跡及び名勝 西山御殿/徳川ミュージアム

とはいえ、歴史的に重要な意味があるのは間違いありません。2016年に国指定の名勝に指定されました。

MEMO
西山荘は2011年の東日本大震災で大きな被害を受けました。そのため施設を管理する徳川ミュージアムが2013年から2014年にかけて復旧工事をしました。(参考:日本経済新聞

西山御殿外観2

そばの立て札には「武家として品格のある造り」とあります。江戸時代は全体を通せば平和ですが、光圀が生まれたのは関ヶ原から25年ほど。武士にとってまだまだ緊張感のある時代でした。そのため光圀も父の頼房も戦うことを前提とした生き方をしていました。語られることは少ないですが、光圀の武士に対する想いは深いものがあったでしょう。

光圀の人柄がわかるエピソードに『殉死の禁』があります。殉死とは亡くなった主人に忠誠を示すため、家臣が後を追って自殺することです。古くからある武士の悲しい習慣でした。光圀は34歳で水戸藩主になった際に殉死を禁止しています。

父・頼房の後を追おうとする家臣は何人もいました。それを耳にした光圀は家臣の家に赴いて説得して周ったんです。その結果、光圀は一人の殉死を見ることもなく二代目藩主となりました。その2年後に幕府も禁止令を出しましたが、従わない武士はたくさんいました。実現した光圀はやはりなにかある人物だったのでしょう。

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殉死は忠誠心の現れ。しかし、いつしか子孫を優遇してもらうための手段になっていたといわれます。『桃源遺事』によると光圀は「殉死を望む主君はいないし、継いだ主君に不忠。武士は生き残って死すべきときに死すべし」と考えていました。

御殿は簡素な造りで敷居がありません。庶民に分け隔てなく接していたことが見えます。常陸太田市をはじめ県北地域に黄門伝説がいくつもあるのは、こうした人柄が伝わっているせいかと思われます。

裏門(通用門)

裏門

くぬぎで造られた裏門は家臣や近所の人たちが通ります。表門よりも立派なのは領民を大切にする想いからといわれます。とはいえ、表門を通る者は少なかったのでしょう。光圀の倹約家としての面も出ているのかもしれません。

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ちなみに、幕府から使者がやってくるときは礼を尽くすために西山荘でなく水戸城で待っていました。

光圀は弱者の救済にも力を入れました。これも領民に慕われた理由でしょう。隠居する半年ほど前に役人に対して次のような命令を出しています。

光圀の社会福祉政策
  1. 各村に常にアワやヒエなどの雑穀を蓄えよ。凶作の年にはそれを与えること
  2. 家族のいない者や働けない老人、身体の不自由な者には豊作の年でも蓄えから与えること

現代だと年金や生活保護、障害者福祉にあたるでしょうか。調査によって明らかになった274名の対象者にお米を与えています。

また、光圀はたびたび捨子を拾ってきたともいわれています。光圀自身が倹約をして質素な生活だったのは、大日本史の編さんとこうした福祉政策に経費をかけていたからです。

光圀のエピソードはまだまだあります。今回は省略しますが、藩主になる前の苦悩や水戸藩内のトラブルの対処なども現代の人々の参考になるはずです。ぜひ、本で調べたり詳しい方にお話を聞いてみてくださいね。

茶室 晏如庵

晏如庵外観

一通り周りましたら、抹茶で一休みしてはいかがでしょうか。庭園内にある晏如庵あんじょあんです。光圀がお茶を楽しんだ逸話にならって建てられました。

晏如庵のお茶と和菓子

500円で抹茶と和菓子を楽しめます。初夏の陽気ですが温かいお茶をおいしくいただきました。この日の和菓子は菜の花ですね。

なお、「晏如」には次のような意味があります。

「晏如」とは安らかなさまや落ち着いたさまを表す言葉で、光圀公が西山荘に隠棲後、最初に建立した「梅里先生寿蔵碑」に刻まれた碑銘から引用したものです。
静山の里桃源/常陸太田観光物産協会

梅里先生寿蔵碑ばいりせんせいじゅぞうひは簡単にいうと光圀が生前に自分で建てたお墓です。その裏面には漢文で自伝が彫ってあります。要約すると水戸で生まれたことや兄の子に家督を継げてよかったことなどが書かれています。現在、碑は水戸市の徳川ミュージアムにあります。

ふたたび脱線させてください。この碑の内容は光圀を理解するために重要なんです。光圀は神道、仏教、儒教、老子の思想のどれも重んじた一方で非難もしています。この世に完璧なものはなく、信仰にも良し悪しがあると考えていたのでしょう。

例えば、水戸藩は光圀の命で大規模な寺院の整理を行いました。驚くことに1000を超えるお寺に対して取り潰しや僧侶の追放処分をしています。それだけ書くと過激ですよね。もちろん理由があります。

光圀は『開基帳』をつくって藩内の寺院の縁起や由緒を調べていました。処分されたのはその中で新しくできた寺院に集中しています。また、追放された僧侶は堕落して民衆の心が離れた者たちでした。

つまり、寺院や僧侶だからといって優遇せず、問題があれば特権を取り上げました。一般の領民になった僧侶は農業や商業によって年貢を納めることで生活できます。信仰を否定したり、特定の宗教を弾圧したのではありません。

重要な寺院にはむしろ援助していますので、仏教を嫌っているのではなく質の向上をはかったとも言えます。もちろんその背景には水戸藩の厳しい財政状況もあったと思いますが。。。

話が長くなりましたが、光圀は形式ではなく実態を重視していたということです。光圀が『義公』と呼ばれるのは、義(正義・正道)をいうだけなく実践したからです。義公のおくりなは後を継いだ綱條が安積澹泊あさか たんぱく(格さんのモデルになった人)に相談して決めました。

アクセス

名称 西山荘
住所 〒313-0007 茨城県常陸太田市新宿町590
営業時間 9:00~16:00(入荘は閉荘の30分前まで)
駐車場 あり
定休日 年末年始
関連リンク 常陸太田市公式
常陸太田観光物産協会
観光いばらき
徳川ミュージアム
常磐神社
茨城県教育委員会
料金 大人:1000円(一般)、900円(団体)
小中学生:600円(一般)、540円(団体)
※団体は30名以上となります。
※未就学児は無料となります。

まとめ

西山荘は光圀が最期を迎えた場所。美しい自然と光圀とのゆかりに溢れています。

気持ちの赴くままに歩くのもいいですが、ガイドをお願いしたり予め西山荘のことを調べておくとより楽しめます。

光圀の73年の生涯でたくさんのことを残しています。いっぺんに知るのは大変なので、余裕のあるときに思い出して調べてみてください。現代でも大いに参考になりますよ!


参考資料
水戸の光圀/著:瀬谷義彦

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