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大河ドラマ『青天を衝け』がはじまりました。渋沢栄一が水戸学に影響を受けていたということで、いま水戸学と水戸藩が注目されています。茨城県民としてはなんとも嬉しい限り。
ただ、水戸学については大いに誤解されているように思います。まるで危険思想のように捉えてる方がいるようですが、そんなことありません。では、なにが水戸学で水戸藩とはどんな藩なのか。その理解に役立つのが今回ご紹介するマイケル・ソントンさんの『水戸維新』です。
わたしなりの見方もお伝えしますので、ぜひ深いところまで楽しんでいただけたらと思います。
概要
タイトル | 水戸維新 |
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著者 | マイケル・ソントン |
発行日 | 2021年1月28日 |
出版社 | PHP研究所 |
ページ数 | 320ページ |
『水戸維新』は水戸藩の主要な人物を通じて水戸が明治維新にどのような影響を与えたかを論じた一冊です。水戸藩の通史にもなっていますので郷土の歴史を知りたい茨城県民にもオススメです。
本書は『水戸ど真ん中再生プロジェクト』の一部として制作され、次のコンセプトがあります。
1 外国人や歴史に興味がない人にもわかりやすいものにする。
2 歴史書だけど、人物にフォーカスをして面白いものにする。
3 六人の人物の哲学や思い、そして風景や遭遇した事件を章ごとに描くことにより、明治維新の源流となった水戸学から、幕末まで時代の流れを追うことができるようにする。
4 コラムや写真・地図などを多用して、飽きないものにする。
おわりに P311|水戸維新
事実を積み上げて論証するよりも明治維新につながる重要な部分をピックアップしてまとめた内容となっています。今後英語版も出版される予定だとか。
江戸時代は水戸藩出身の徳川慶喜による大政奉還で終焉を迎えました。慶喜公は水戸で学んでいましたので水戸と維新を繋げることはある意味で容易です。でも、それではあまりにも表面的というもの。水戸の誤解を解く意味でも本書のように歴史と思想をじっくりと辿ることは大切かと思います。
わたし自身は水戸学を「調和を重視する平和的な思想」と捉えています。水戸学で国体や天皇を強調するのは、それ以外は柔軟に対応せよという裏返しだと思います。譲れない部分を先に確認しておけば、交渉の末に譲歩したとしても政治的な影響を小さく留めることができます。いくら幕府に問題があったとしても即解体や徳川の排除は極論です。慶喜公を中心に日本を改革したかったのではないでしょうか。
また、世界の国々よりも軍事力が劣っているのを知っているのに一方的に敵国認定して戦争を仕掛けるような考えは持っていなかったでしょう。負けたら国体護持になりませんので戦わないことが最善です。ただ、はじめから弱気な態度だと交渉が難航するので外野の立場であえて強硬論を主張したと思います。つまり、現実を見据えた思想なんです。
こうした考えは「桜田門外の変」や「天狗党の乱」からは想像がつかないかもしれませんが、だからこそ本書で語られる水戸学の本流ともいえる人物を知ることは重要です。日本人といってもさまざまな考えがあるように水戸藩にも幅がありますし、数が多かったり目立つからといって本流とはいえません。
ちなみに水戸の「尊皇攘夷」は政治的なスローガンだと思います。尊王と攘夷(敵を打ち払う)は幕府も否定していませんので、なぜ尊皇攘夷が幕府と対立する言葉になるのかがポイントです。それは幕末以前にさかのぼって歴史を知る必要があります。わたしは徳川家斉の頃(特に1787-1841年)に原因があると思いますが、その辺りの理解に本書が役に立つというわけです。
取り上げられている人物は以下です。(かっこは西暦)
- 徳川光圀(1628〜1701)…水戸藩第2代藩主
- 立原翠軒(1744〜1823)
- 藤田幽谷(1774〜1826)
- 会沢正志斎(1782〜1863)
- 藤田東湖(1806〜1855)
- 徳川斉昭(1800〜1860)…水戸藩第9代藩主
- 徳川慶喜(1837〜1913)…徳川幕府最後の将軍
一般の方がご存知なのは①⑥⑦でしょうか。それらを支えたのが②〜⑤です。幕末の水戸藩の躍動は学問を重んじる者たちによるところが大きかったといえるでしょう。しかも極めて近代的な思想を持っていたことには驚かされます。特に藤田東湖には注目してください!
正直なところ、わたしも藩主や将軍以外はよく知らなかったので大変勉強になりました。解説している本は他にもあるのですが、すごく難しいんですよね。本書は明治維新に繋がる文脈でまとめられているので理解しやすいと思います。
わたしの視点
水戸維新を読むにあたって少しだけ注意したいのは「難しい」ことです。わたしも完全に理解できてませんし、著者自身もあとがきで誤解している部分を訂正してもらったと述べています。一般人にとって高いハードルがあると思います。
また、内容が水戸藩に集中していますので、当然ながら日本史全体や日本に影響を与えた世界史までフォローしきれていません。よくわからない部分は一旦置いておいて、まずは全体の流れを掴むことが大切かと思います。
ところで、一通り読み終えて「これを知っておくともっと面白いかも」と思えることがいくつか浮かびました。歴史家じゃないのでユルく捉えて欲しいのですが、以下を知ると新たな視点になるかもしれません。本書にないことに触れますので、よかったら参考にしてみてください!
「鎖国」の克服
明治の開国に対してそれまでは鎖国だった、ということになっています。たしかに学校でそのように習いましたが、すべての国との関係を断絶していたわけではありませんでした。
朝鮮半島(李氏朝鮮)や明(のちに清)、オランダとは貿易をしていました。鎖国は日本にとって不利益なキリスト教を禁じるためで正確にはカトリックのことです。当時だとポルトガルやスペインなど。オランダはキリスト教であってもプロテスタントなので鎖国の対象になりませんでした。
カトリックはプロテスタントと違い積極的な布教活動で信者を増やしました。戦国時代の宣教師(フランシスコ・ザビエルなど)はそのために大きな役割を果たしたといえるでしょう。でも、当時の彼らの行動は単なる布教にとどまりまらず、勝手な貿易(奴隷貿易含む)や領土問題を次々と引き起こしていたので豊臣秀吉や江戸幕府はカトリックを排斥するようになりました。
鎖国は問題の理想的な解決法に思えます。ただ、気になるのは原因の多くに日本人が関与していたことです。一部の日本人が外国の思想に影響され、他の日本人や日本国に対して不利益を与えた「弱さ」は鎖国をしても変わることはありませんでした。
開国とは貿易を通じて外国の思想も受け入れることなので、日本人が江戸時代初期のような感覚のままだとそれこそ国家存亡の危機に繋がります。日本はどういう国で日本人はどうあるべきなのか。開国しても日本があり続けるためには日本人が「自分の国を守るという」強い意識を持つ必要がありました。
そのような切迫した状況で注目されたのが水戸学です。徳川光圀以来、歴史書の編纂をしていた水戸藩は「日本」を語るに相応しい立場にありました。
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欧州の国々が布教や貿易に積極的なのは単なる信仰拡大や経済活動の他に宗教戦争の延長の側面があります。特に1618年〜1648年は凄惨な三十年戦争が起きており、幕府の鎖国はその最中(1639年)に完成。なお、アメリカは三十年戦争で欧州を離れた人々の子孫が建国しました。
「朱子学」の克服
江戸時代の日本を考える上で知っておくと役立つ思想が朱子学です。朱子学は南宋の朱子(本名は朱熹)が儒教を元に提唱しました。官学とされたので武士は朱子学を学び実践する立場です。
つまり、朱子学を知っていると武士たちの行動原理をつかめるのですが。。現代人にとって朱子学とその元になった儒教の理解は極めて難しいと思います。
朱子学についてよくある説明は「幕府は権力を維持するために階級社会を肯定する朱子学を官学にした」というものです。
また、本書のニ章「徳川光圀」では次のように説明されています。
個人と社会、個人と自然との関係を、合理的かつ道徳的に分析することを強調し、得られたスキルを社会に適用する朱熹の実践的な考え方は、光圀にとって完璧なモデルだったのである。
また、社会階級における孝養や主君への忠義、義理などの具現化を強調する朱熹の社会理論に、彼は魅了されていた。
光圀公も重視した思想なので知っておきたい人は多いと思いますが、どの説明を読んでもなかなかに難しい。そこで、わたしが誤解を覚悟で朱子学を一言で説明します。
朱子学は人治主義です。儒教も同じです。
朱子学とはだれかの「徳」、すなわち「いいと思うこと」によって社会を統治する思想です。もちろん徳は人それぞれ違います(同じなら法になる)。規則や法律をもとに統治する法治主義とは本来両立するのですが、江戸時代は法よりも優先されたとしていいでしょう。それは法が万人に共通して適用されなかったことからも言えます。
朱子学は人それぞれの解釈があるので理解にくいのですが、数の多い役人(武士)の理解が一般的です。すなわち将軍を頂点としたピラミッド型の社会階級(武士は農工商より上位、天皇や公家は除外)があり、「上の者の徳は下の者よりも優れているので優先される」です。雑な表現で失礼。
朱子学や儒教は中華皇帝による絶対王政の理論的な裏付けなので基本的には権力者に迎合しています。わたしは皇帝に徳はないと思っていますが、中華王朝では認められない意見です。
階級の上位が時代劇の水戸黄門や大岡越前のような聖人ならよいのですが、逆の場合は悲惨です。また、日本の「徳」は事情を知らない外国人に通用しない場合が多いので、人治主義のまま開国すると問題が頻発してしまうんですよね。
つまり、日本は開国することで、これまでの人治主義が通用しなくなる心配がありました。欧米の国々との条約は国際法であり、締結すれば当然従う義務があります。「偉い人」であっても法に縛られる法治主義を受け入れることは幕府の根幹を揺るがすほどの事件だったのです。
では、日本人は法治主義への対応が難しかった、というと違います。王政復古した日本はむしろ国際法を使いこなして大国のロシアや清などをやり込めていきます。それは江戸時代の蓄積があったためでしょう。
注目してほしいのは、水戸藩がこの法治主義をどのように捉えていたかです。国際法とか法治主義といった言葉は出てきませんが、朱子学や儒教の思想を利用しながら「約束を守るって大事だよね」「勝手に上下関係つくっちゃダメだよね」「日本にも法はあるよね」と少しずつ新しい概念を受け入れようとしています。
本書ではこの辺りについて詳しく書かれていませんが、主要人物の言動や行動を覚えておくと新時代に繋がる思想がすでにあったとわかると思います!
儒教についてもっと知りたい方は
朱子学や儒教についてもっと知りたい方は石平さんの著書『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』がオススメです。過激なタイトルですが、中身は中華思想史と儒教の思想的変遷をわかりやすくまとめたものです。
朱子学と儒教は同じもの、と前述したのは、儒教のさまざまな理論は枝葉であって根幹は「皇帝とその統治機構に従え」だからです。朱子学は枝葉の組み合わせによって人気を博しましたが、儒教と区別して考える必要はないと思います。儒教の理論には「天人相関説」「性三品説」「復性論」などいろいろありますが、どれも道教や仏教の思想を組み合わせたもので、儒教の政治的な立場が危うくなるたびに誕生しました。それが悪いとは言いませんが、理論優先で儒家の行動が伴わないので庶民に対して圧力をかけるばかりです。
朱子学で有名な「理気二元論」は道教の「道」の思想に仏教の理論を組み合わせたものです。理気は道教だと道と気にあたり、紀元前からほぼ同じ理論が存在します。仏教で悟りを開いて得られる真理を理法ともいいますので「道」に代わる言葉として「理」を用いたのでしょう。ちなみに真理や理法をダルマといいますが、禅宗の始祖はボーディダルマ(達磨大師)です。朱子学は儒教が大衆の支持を失っていた時期に提唱されたので、競合する禅宗を参考にしたのかなと思います。
儒教の悪口ばかり書いている気がしますが、じつはそんなに悪いものだと思っていません。水戸藩の二代藩主・徳川光圀は儒教を正しく運用しました。儒教の教えを役人に実践させるだけでなく自分で実践する。当事者となることで非現実的なことをしない、させない。儒教を建前として終わらせなかったことが偉大です(そのため本場と異なる「光圀スタイル」の儒教が存在する)。こうした光圀公の姿勢は細々ではありますがしっかり受け継がれ、後期の水戸学に影響を与えていると思います。
法治主義は大事ですが、法を作るのは人間なので人治主義も完全に否定してはいけません。異なる主義であってもそれぞれ尊重し、お互いに良い影響を与えられるといいんですよね。
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まとめ
この記事のまとめ
- 明治維新に影響を与えた水戸藩を学べる
- 水戸藩の通史にもなっている
- あわせて日本史や世界史を学ぶとより楽しめる
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。