【編:高萩郷土史研究会】マンガ長久保赤水の生涯 付 長久保赤水海防意見(高萩市)

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wata

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この記事では『マンガ長久保赤水の生涯』を通して高萩市出身の長久保赤水ながくぼ せきすいをご紹介します。伊能忠敬より先に日本地図を制作した偉大な人物です。

MEMO

赤水図などの資料は長久保赤水顕正会のサイトでご覧ください。また紹介する本の購入につきましても顕正会にお願いいたします。

『マンガ長久保赤水の生涯』とは

『マンガ長久保赤水の生涯』は長久保赤水(1717-1801年)の生誕300年を記念して2017年に長久保赤水顕正会から発行されました。赤水は江戸時代に活躍した赤浜(現:高萩市)出身の学者です。

赤水を一言で説明するのは難しいですね。学者としては儒学、天文学、地理学の分野で当時の最高レベルだったと思います。学問の先にあった赤水図(日本地図)の完成は商業的に成功した上に日本人の文化レベルを引き上げるほどの革新でした。

赤水は農家の出身ですが、合間を見つけては学問に励み、ついには水戸藩の侍講じこう(藩主に学問を教える)にまでなりました。勉強して身分の壁を突破したスゴイ人物です。

数々の功績のうち、もっとも有名なのはやはり赤水図を完成させたことでしょう。伊能忠敬よりも前の時代なので忠敬は赤水図を参照しながら各地を周っていました。赤水は常陸国(現:茨城県)にいながら完成させたんですよね。ほとんど超能力者です。

本書では赤水の生涯をマンガにしています。柔らかいタッチでほのぼのした雰囲気なのでとても親しみやすくなっています。子どもにもわかりやすく手に取りやすいのが魅力ですね。

赤水に関する本は少なく、図書館以外で読むことはほとんどないかと思います。また内容が難しいですから発行元がしっかりしたマンガは貴重です。

あまり知られていない藩主との関係や赤水の思想などが読み取れた点が面白かったです。付録の海防意見(現代語訳)は幕末の水戸藩に繋がっていますので大変興味深い内容でした。

難を言えばマンガの内容をもう少し補足できるとよかったです。固有名詞にフリガナ、枠外に用語説明があると理解しやすかったと思います。

とはいえ、本書を隅から隅まで読むとフリガナや用語の意味を見つけられるのですが。わたしはマンガから読んだのでちょっとだけ理解に苦労しました。

本書を読むと赤水がいかに日本に、いや世界に影響を与えたかわかります。そして学問によって人生を変えたことも大変心に響きました。生まれや育ち、生活環境。自分ではどうにもできないこともありますが、努力は裏切らないことを教えてくれます。

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赤水が初めの地図を完成させたのは52歳。幼い頃からコツコツ学問を重ね、圧倒的な努力の量で水戸藩を代表する学者となりました。
MEMO

「赤水」は号(ペンネームのようなもの)です。名は玄珠はるたか、字は子玉しぎょく、称していたのは源五兵衛げんごべえです。郷士格になる前は名=守道もりみち。字=伯義はくぎ

4分で振り返る長久保赤水の生涯

赤水を語る上で欠かせないのが家族についてです。マンガは青年時代(25歳〜)からなので描かれてませんが、赤水は11歳で祖父母、両親、弟と血の繋がりのある家族を失っています

赤水を育てたのは継母けいぼ・お咸です。継母は農業をしながら学問に励む赤水を温かく見守っていました。親戚からは農業に専念しろと言われていたようです。

14歳の頃に地元の塾(鈴木玄淳塾)に通い始め、後に松岡七賢人と呼ばれる学友に出会います。江戸遊学などを経て知識人として知られていきますが、当時の学者は誰でも名乗れたので決して高い立場ではありません。怪しい学者もたくさんいたそうです。

転機は35歳。儒学を充分に学び、天文学や地理学を学び始めた頃で「学者として大成できないか」と地図の制作を思い立ちます。同年、継母が亡くなったことも関係しているかも。。

赤水は安定した世だったので旅行者に地図が売れると考えてたようです。当時、庶民の地図を描いていたのは画家でした。距離感の正しい実用的な地図を作ろうとしたんですね。

地図はもちろん完成するのですが。。18年の歳月がかかりました。独学で尺度の正確な地図を作るのは極めて難しい。それに家柄の関係で重要な資料を見れませんでした。

当時、役に立つような地図は禁書です。戦国時代なら軍事機密ですからね。赤水が長年必要としていた禁書に森幸安の『日本分野図』がありました。師事していた彰考館の総裁・名越南渓なごし なんけいに閲覧を頼みましたが断られています。

明和3年(1766年)、赤水の2歳上の学友・柴田平蔵が亡くなりました。平蔵の遺産を整理しているとそこには日本分野図の写し。平蔵はなんらかの手段で禁書を写し、赤水に遺していたました。赤水はそれを頼りに2年後の52歳のとき『改製扶桑分里図』を完成させます。

地図は水戸藩に評価されて赤水は郷士格へ取り立てられます。後年、赤水は郡奉行に促されて藩政にも意見するようになります。赤水の芻蕘談すうじょうだんには、風紀を正すことや農業の推奨、年寄りを敬うことなどが記されていました。

地図は改正され続け、安永4年(1775年)に『新刻日本輿地路程全図』が完成します。地図は地名や距離が正しく縮尺してあり、経線・緯線も描かれていました。

それ自体は従来の学者の地図と同じなのですが、赤水の地図は禁書ではなく庶民も見れることが革新的でした。地図は出版されて赤水の名は全国に知られるようになります。

地図の出版から2年後、赤水の評価は藩内で高まり、江戸小石川の藩邸に渡って藩主に学問を教える侍講となります。当時、赤水61歳。5代藩主・治保(文公)は27歳でした。

治保公は文化的な活動のほうが好みで政治には積極的でなかったようです。ただ、赤水から多くを学び、意見を取り入れるうちに少しずつ藩政に関わります。

赤水の農民疾区のうみんしっくを受け入れたのもそのひとつです。赤水は役人の不正『再改め(=年貢を受け取らず賄賂を要求)』を指摘して改善を望みました。役人は大いに反発しましたが、治保公が再改めの制度を廃止したことから赤水の言い分は全面的に認められたことなります。

赤水が侍講に抜擢された背景には、こうした形で藩政を改革したかった治保公や側近の思惑があったのかもしれません。

地図の改正は続けられ、侍講となった2年後に『改正日本輿地路程全部』を出版。さらに治保公の弟にあたる松平頼救まつだいら よりすけ(後の宍戸藩主)や中山信敬なかやま のぶたか(後の松岡藩主)の教育も任されました。

70歳を迎え「隠居格」となっても健康で治保公から「大日本史地理志」の編纂を命じられています。驚くことに72歳で蝦夷(北海道)を旅して、74歳のときに「蝦夷之図」、つまり地図を完成させました。心身ともに充実していたようです。

赤水は81歳になって江戸から水戸に渡ると立原翠軒(侍講)の勧めもあってすぐにふるさとの赤浜に帰ります。それから85歳で最期を迎えるまでは奥さんと一緒に静かに暮らしました。


参考
長久保赤水略歴高萩市(公式)

赤水が水戸藩に与えた影響

水戸藩は徳川光圀(1628-1701年)以来、国史(大日本史)の編纂を続け、国や政治のあり方を学問する『水戸学』で知られます。赤水の存在は水戸学にも大きな影響を与えました。

広い意味での水戸学は光圀からはじまりますが、一般的には狭い意味、つまり幕末に盛んになった『尊皇攘夷思想』(の原型)と捉えられていると思います。

個人的にはさらに具体的に『藤田東湖(1806-1855年)と会沢正志斎(1782-1863年)が教え』と思っています。この2人の共通点は藤田幽谷(1774-1826年)を師事していること。東湖は幽谷の息子です。

そして幽谷は赤水を師事していました。それをうかがわせるのが本書の付録『長久保赤水海防意見』です。海防意見では赤水と幽谷の意見の交換が見られます。

赤水が海防意見をいつ記したかは不明ですが、おそらく藩政に関わっていた時期です。手紙は何度か継ぎ足されているのですが、足された中に『海国兵談』とあることから寛政3年(1791年)頃に書かれたと推察できます。赤水は75歳、幽谷は18歳前後でしょう。

内容は幽谷の海防論(ロシアの脅威にいかに立ち向かうか)に対する赤水の返事です。それによると幽谷は水戸藩の海防の責任者の交代や敵国との戦術について論じていたようです。まさに攘夷論ですね。

幽谷の意見は過激だったようで、赤水は「忠心、直言、切諫、身命を顧みず感心致しました」としています。つまり、幽谷を褒めつつも「場合によっては殺されるぞ」と諌めています。

幽谷の意見はことごとく否定されています。面白いのは頻繁に古典を引き合いにしていることです。中華皇帝や日本史の人物が多数登場する教養あふれる手紙となっています。

意見の交換には次のようなものがありました。

幽谷「ロシアは脅威」
赤水「『職方外記』を元に考えたようだが、いつの時代の書か。秀吉の子、頼朝の子はどうだったか。30年もすると国は変わるぞ」

幽谷「海防の指揮官を有能な者に代えよ」
赤水「必ず勝てる人などいないし、私心で選んでも人はついてこない。指揮官は和を保てる者とし、指揮官を動かす戦略が大切」

幽谷「藩主は無駄遣いが過ぎる」
赤水「ご遊猟は江戸の人から見てもおかしなことではない。それに使ったお金は民間に落ちる」

赤水は幽谷に「狂語」「下計」といった厳しい言葉を使っていますが、一人前として扱い率直な返事をしたのでしょう。

ちなみに、赤水は返事の中で次のようなことを書いています。

「藩政がよくないのは先代(第5代藩主・宗翰)のせい」
「中山備前守はお手盛りで石高を増やした」
「頼朝が田植えの時期に百姓を集めたのは随の煬帝よりも良くない」
「藩主(治保)は懐王に似ている」

己を信じて関係者や歴史上の偉人までメッタ斬り。こうした姿勢も幽谷などを通じて後世に伝わったかと思います。

赤水は農家出身で武士や役人とは明らかに気質が異なります。生まれや育ちではなく、実績や教養、徳によって評価を得ましたので水戸の庶民に大きな可能性を感じさせたはずです。

赤水の活躍は斉昭の抜擢人事に説得力を与え、幕末の水戸藩および水戸学にも大きな影響を与えたことでしょう。

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赤水の『海防』は敵を一旦上陸させてから夜襲するというものでした。正面から戦っては無駄に被害が増えるためです。また、敵の補給を断つため船を焼き払うことも考えていたようです。実践的ですね。
MEMO

懐王=楚の王。遊説家の張儀に騙され、有能な屈原の意見を無視して自殺に追いやった。

まとめ

この記事のまとめ

  • 長久保赤水はいまの高萩市出身
  • 伊能忠敬より先に日本地図を制作
  • 晩年は水戸藩の政治に関わり水戸学に影響を与えた
この本の評価
読みやすさ
(3.0)
面白さ
(4.0)
デザイン性
(3.0)
コストパフォーマンス
(5.0)
オリジナリティ
(3.5)
総合評価
(4.0)