【日本三天神】御廟天神の大生郷天満宮(常総市)

この記事でわかること
  • 御廟天神の由来について
  • 菅原道真と天神伝説について
  • 御朱印のいただき方

天満宮は全国に1万2千ほどあるといいますので、だれもが名前くらいは聞いたことがあるでしょう。

では、茨城の天満宮といえばどこでしょうか。近年、八千代町の東蕗田天満社が有名ですが、もうひとつ覚えておきたい大切な天満宮があるんです。

この記事では常総市の大生郷おおのごう天満宮をご紹介します。飯沼の天神信仰と大変深い関係がある神社です。

大生郷天満宮とは

参道の石段

参道の石段

大生郷天満宮は常総市の大生郷町に鎮座しています。比較的大きな神社なのですが、周辺の道路は狭いので運転にご注意下さい。

最寄り駅は水海道駅ですが、徒歩だと1時間以上かかりますのでアクセスは車になるかと思います。

由緒を公式サイトから引用します。

社伝によりますと、菅原道真公の三男景行かげゆき公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜三年(九〇三)二月二十五日に亡くなられました。

景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介(地方長官)として常陸国(茨城県)にやってきました景行公は、延長四年(九二六)に現在の真壁町羽鳥はとりに塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(九二九)当時飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神ともいわれています。
大生郷天満宮公式

ご祭神はもちろん菅原道真すがわらのみちざねです。天満宮および天満神社といったら道真公をお祀りしていると断定してよいでしょう。天満宮(天満社、天神社とも)とは、はじめ道真公ではなく天つ神(高天原の神)を祀る神社でしたが、北野天満宮と太宰府天満宮の影響で変化していったそうです。

真壁の天神塚について「関東から東北にかけては最古」とありますが、天神信仰が発祥したといわれる北野天満宮より21年早い創建で日本最古の天満宮ともいわれています。これより古いのはあるのでしょうか。。?

かつて常総市、坂東市、古河市、八千代町にまたがる巨大な沼・飯沼がありました。享保年間(1716-1736年)に干拓されて水田地帯となったのですが、その地域には道真公をお祀りする多くの天神社(天満宮)があるんです。天神信仰は江戸時代にこの地域に限らず流行しましたが、飯沼周辺では当社がその由緒から重要な意味を持っていたと考えられます。

真壁から遷されたことも気になりますよね。茨城県神社誌によると景行公は常陸介の前に下総介でした。それがきっかけで関東にやってきて天神塚を創建。真壁に埋葬したのは豪族との関係でしょうか。いまの地に遷ったのは常陸介の拝命後、父の「和御魂」を祀る場所として飯沼湖畔を選んだとあります。ここにもなにか別の理由がありそうなのですが。。

現在の住所は大生郷ですが、昭和29年(1954年)までは菅原村でした。菅原道真に由来する村名ですから、天神信仰はすごかったのでしょうね〜

wata

わたしが好きな道真公のエピソードは遣唐使の廃止ですね。自分が遣唐使に選ばれたこともあったと思いますが、ほとんど無意味で海難の可能性が高い渡航を中止したのは英断でした。

駐車場

無料駐車場

無料駐車場

駐車場は本殿裏を利用するとよいかと思います。何カ所かあるのですが、わたしがいつも停めるのは以下です。

駐車場にトラックなどが停まっている時があるので、「ほんとにココ?」と不安になるのですがご安心を。

一の鳥居

一の鳥居

一の鳥居

社殿の正面にある一の鳥居がこちら。鳥居周辺には駐車場がありませんので、ほとんどの方はわざわざ境内から外に出てから見ることになります。

でも、神社の氏子気分になれるのでせっかく来たなら正面から順番に進んでいきたいんですよね。

臥牛像

臥牛像

臥牛像

拝殿前、左手に見えるのが御神牛ともいわれる臥牛像です。「がぎゅう」と呼んでいいのでしょうか。。

道真公の誕生日は承和12年(845年)6月25日。これはうし年の丑の日。そして亡くなった日が延喜3年(903年)の2月25日。こちらも丑の日です。

さらに道真公の遺骨は牛車で運ばれていたのです。お墓の場所は牛が腰を下ろしたことで決まりました。牛は道真公とすごく縁のある動物なんです。

拝殿

拝殿

拝殿

社殿は大正8年(1919年)に炎上してしまったそう。拝殿と幣殿は昭和30年(1955年)に再建されました。

賽銭箱はじめ神紋の梅があちこちに見られます。天満宮らしくていいですよね。

大量の絵馬

大量の絵馬

拝殿の右手には絵馬がズラリ。このときは受験の時期だったので合格祈願で訪れる方がたくさんいました。

道真公は勉強して出世したので『学問の神様』としても信仰されています。

『学問の神様』は江戸時代の寺子屋で広まったようです。子どもたちは道真公のようになれるようにと勉強していました。

大生郷天満宮では毎月25日に月次祭がありますが、寺子屋でも25日は掛け軸を拝むなどしていました。天神講と一体となっていたので、子どもに限らず拝んでいたようです。

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寺子屋の勉強机は天神机と呼ばれていました。坂東市の企画展『飯沼廻りの天神信仰』で展示されていましたよ。

本殿

本殿

本殿

昭和4年(1929年)に造営された本殿です。総檜造りだとか。立派です!

境内には周辺から移されてきたであろう石仏が並んでいます。形がキレイに残っていますので、ぜひ眺めてみましょう。石仏(野仏)からは民間信仰が読み取れますので、わかる人には面白い。。はず。庚申塔と月待塔が多いかな?

江戸時代、御朱印地30石を授かった由緒ある神社です。全国の天満社の中でも特別な意味を持っているかと思いますので、いつも興味深く参拝しております。

ここでご紹介していないこともたくさんありますので、あとは実際に参拝して見つけてみましょう!

境内案内

刀研石

刀研石

刀研石

拝殿前、左手にあるのが刀研石かたなとぎいしです。手前は由緒書、後ろの2つが刀研石ですね。

由緒書には次のようにあります。

本碑二面は 当天満宮が真壁町羽鳥より当地へ奉還された由来を記した縁起碑である
古来本碑を「刀研石」と呼び、この碑で刀を研けば心願が成就すると伝わる
本碑はもと当社の東北方七百米 往古の表参道入口「鳥居所」に存在した 現在二面とも長年の風雪により磨滅し読むことはできないが、明治四十四年の解読により左の百二十六文字を刻す

常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行兼重景茂等相共移
従筑波霊地下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩提供養也
 常陸介菅原景行所業也
    菅原三郎景行四十四才也
    菅原兼重三十七歳也
    菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
 延長七年二月二十五日

はじめにご紹介した由緒の通りなのですが、石碑によるとかつて菅原神社と呼ばれていたようですね。これだと菅原村の名称だったことも納得です。

ちなみに当社の正式名称は「天満社」です。東蕗田天満社もそうなのですが、愛称に地名が加わるのはよくあることです。

親鸞聖人礼拝の杉

親鸞聖人お手植えの杉

親鸞聖人お手植えの杉

興味深いのがこちらの杉。左は浄土真宗の開祖・親鸞上人が天満宮を参拝した際にお手植えしたそうです。

樹齢700年といわれましたが、明治35(1902年)の台風の際に折れてしまい大正8年の火災で焼失。右の杉はその火災の後に植えられましたが昭和60年に枯死。いずれも昭和63年(1988年)の境内整備事業によっていまの場所に移されました。

親鸞聖人といいますと稲田の草案(笠間市)が有名です。でも、常総市にも足を運んだという伝説があるんですよね。旧石下の願牛寺は上人が創建したといわれます。常総市と浄土真宗の関係、ちょっと気になりますよね〜

御朱印

大生郷天満宮の御朱印

大生郷天満宮の御朱印

大生郷天満宮の御朱印です。初穂料は300円。

9時〜16時に社殿の右手にある授与所でいただけます。御朱印帳も頒布していますよ♪

MEMO
祭礼日は祭礼の印が押されます。

御廟所

御廟所の石碑

御廟所の石碑

わたしも最近知ったのですが、道真公のお墓が神社と少し離れた場所にあるんです。社殿の北西の方ですね。

社殿裏の駐車場に停めると目につくのですが、正面ばかり気にしているとわからないかもしれません。

Googleマップに名前はありませんが、上の地図の厳島神社を目指してください。

御廟所は小さな公園のようになっており、厳島神社(弁天社)や大国社も鎮座しています。近くの別の公園に恵比寿社がありましたので、どうやら探せば七福神が揃うようです。

御廟

菅原道真の御廟

菅原道真の御廟

菅原道真公の御廟ごびょうです。石像にある天満大自在天神は道真公の神号(神様としての名前)です。

神号の「天満」が社号につながるのですが、天満には「怒りの炎が天に満ちる」という意味があります。こわっ!そして「天神」には、災禍・災害を与える神という意味が。。「台風」や「雷」を呼ぶイメージでしょうか。

つまり、畏怖される神号なんです。美しいとかオシャレな意味じゃないので初めて知ったときは衝撃でした。

ただ、それは初めのうち。道真公について知られていくと農業神や道徳神、学問神といった神格が強まっていき、多くの人々に親しまれる神号となりました。

道真公が亡くなって数百年してから見直されていったんです。生前多くの徳を積んでいたためでしょう!

天神伝説

道真公は讒言(いわゆる悪口やウソ)によって大宰府に左遷され、不本意のまま延喜3年(903年)に生涯を終えました。それから都では不幸な事件が多発したので道真公の怨霊がいるのではないかと噂されるようになりました。

事件は次のようなものです。

延喜9年(909年)
藤原時平、39才の若さで死去
時平は道真公の讒言をしたといわれ、後に大宰府に左遷されるきっかけとなった
延喜23年(923年)
皇太子・保明親王、21才の若さで死去
同年、醍醐天皇が道真公の官位を右大臣に戻す。加えて正二位を追贈。左遷を取り消し
延長3年(925年)
天然痘が流行、皇太孫・慶頼親王が5才で死去
怨霊は時平の縁故者に加えて天皇も祟るとの噂に信憑性が出てきたといわれる
延長8年(930年)
清涼殿に落雷。多くの公卿が死傷
同年、醍醐天皇が病床につき朱雀天皇に譲位後に崩御
天暦元年(947年)
北野天満宮創建
菅原道真公をご祭神としてお祀りすることがはじまる

大事件が連発ですね。偶然なのでしょうか。なお、一連の事件が怨霊のせいという噂が本格的に広まったのは延長8年の落雷からといわれています。

道真公と直接関係ありませんが、落雷事件以降、天慶の乱が発生。関東では平将門たいらのまさかどが「新皇」を名乗り出しました。色々と不穏な時代だったんですね。

ただ、当時の政治が腐敗していたことが最大の原因かと思います。道真公と将門公はどちらも真面目な人です。汚職や不正から縁遠い存在なので民衆からも人気がありました。それが却って「えらい人」たちから反感を持たれたのではと思います。

参考 ご由緒北野天満宮

wata

昔は雷が鳴ると「くわばら くわばら」と唱えました。これは雷神=菅原道真とされており、道真公の住んでいた地名「桑原」には雷が落ちないとされているからです。諸説ありますけどね。

アクセス

名称 大生郷天満宮
住所 茨城県常総市大生郷町1234番地
駐車場 あり
連絡先 電話 / 0297-24-1739
FAX / 0297-24-1707
Webサイト 公式サイト
ホトカミ
SNS
年間行事 1月1日…歳旦祭
1月6日…年賀際
1月25日…初天神祭
2月25日…梅花祭
8月1日…例祭
11月23日…秋季大祭
毎月25日…月並祭

まとめ

この記事のまとめ

  • 大生郷天満宮には菅原道真の遺言によって遺骨が埋葬されたので御廟天神といわれる
  • 不遇のままこの世を去った道真公は怨霊となって雷を落したといわれ「天神」と呼ばれるようになった
  • 御朱印は社殿右手の授与所でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁

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