wata
神社の社殿に興味のある方は正直少ないと思います。一般の方が知っている有名社殿といえば、県内だと国指定重要文化財の笠間稲荷でしょうか。
桜川市にはそれに負けないスゴイ社殿があるんです。有名ではないので、ぜひ多くの方にご覧いただきたいです。この記事では桜川市の八柱神社とその本殿をご紹介します。
八柱神社の社殿は茨城No.1の彫刻を誇ると思います。装飾社殿の専門書でも茨城といえばまずこちらを取り上げますので、知っておいて損はありませんよ!ちなみに当社は市内の五所駒瀧神社の兼務社です。
由緒
牛頭天王を祀る神社として創建。ただし、社歴を伝える縁起文書は宝暦年間(1751-1764年)に焼失。
村内の雷神社、愛巌神社、富士浅間神社、新宮八幡神社、稲荷神社、日枝神社、厳島神社等を合併。
社号を八柱神社に改称。
*境内石碑による
エンケイマカベ株式会社より設備一色の奉納があり設置完了する。
ご祭神は合祀した神々を合わせた次の八柱です。「厳島姫」は厳島神社で一般的に御祭神とされる「市杵嶋姫」かと思います。
- 素戔嗚命
- 木花開耶姫命
- 倉稲魂命
- 軻遇突知命
- 大山咋命
- 誉田別命
- 別雷命
- 厳島姫命
神社について『真壁町の社寺 装飾彫刻』から引用します。
八柱神社は元来歓喜天を内部に安置した聖天堂で、天保二年(一八三一)の塙世地区田崎直一文書によれば、構造的に一体である本殿、幣殿を合わせて天堂と呼び、近所の人々も昔から「塙世の聖天様」と通称し信仰してきた。
『新編常陸国誌』金剛院条によると、「朱印地二十五石 除地三石 当村聖天丿別当を帯ス」とあり、聖天堂は金剛院に属する建造物であったことがわかる。別当金剛院は一説によれば寛平二年(八九〇)の創建伝わる古刹で、元禄十年(一六九七)の塙世村明細帳に「真言宗山城国大学(覚)寺末寺」とあり、末寺門徒合わせて三十三か寺を有する大寺であった。農村荒廃の最中天明五年(一七八五)頃といわれる聖天堂の建立も、これを前提として考えられることである。明治初めの神仏分離で金剛院は塙世神社を聖天堂内に残して廃絶し、これに村内の七社を合祀して八柱神社と改称され、現在に至っている。
真壁町の社寺 装飾彫刻
神仏習合時代なので神社とお寺が物理的にも混在しており少々ややこしくなっています。八柱神社の前身は塙世神社、その社殿として金剛院の聖天堂が利用されています。金剛院は神社と聖天堂の別当、つまり奉仕役でした。
塙世神社は牛頭天王を御祭神としていましたが、明治期に周辺の七社を合併して八柱神社となりました。その時代には金剛院は廃寺となったので、同院の面影は聖天堂のみということですね。
後ほどご紹介する社殿の豪華絢爛さは半端じゃありません。金剛院はよほど信仰(と資金)を集めていたと考えられるので、それが他に伝わっていないのは不思議な気がします。そのミステリアスさもまた魅力。
昭和47年(1972年) 本殿(県指定)
昭和61年(1986年) 拝殿(市指定)
アクセス
八柱神社は真壁町塙世に鎮座しています。交通の便はあまり良くなく、最寄りICの桜川筑西を下りて20分ほど。最寄り駅は新治駅でやはりタクシーで20分ほどかかります。
しかも…駐車場がありません。申し訳ないですけど安全確保して路駐させていただくことになります。境内(社殿)東側、道路が二股に分岐しているあたりに一台なら停められる若干のスペースがあります。
名称 | 八柱神社 |
住所 | 茨城県桜川市真壁町塙世968 |
駐車場 | なし |
Webサイト | 桜川市公式 |
社号標
車を停めて(路駐申し訳ない)境内に近づくと立派な社号標がありました。書かれているのは「輪煥之地八柱神社」。辞書で調べると「輪煥」は社寺などの建物が広大で壮麗であるという意味だそう。
拝殿
境内は決して広くありません。入口の石段をのぼるとすぐ目の前に拝殿があります。拝殿は昭和62年(1987年)に再建されました。それまでの拝殿は明治期に建てられた素朴な佇まいだったそう。
本殿よりも利用機会が多かったと思いますし、痛みが激しかったので残念ながら取り壊すことになりました。本殿が文化財の指定を受けるタイミングだったので多くの方を迎えるにあたって一新されたんですね。
昔からこの神社のご利益は「なんでも願い事が叶うこと」だったそう。なんとも大胆な。明野町や協和町からも参拝に来る方がいたとか。
当社で一般的に祈願されるのは無病息災、商売繁盛、そして縁談の成功とのこと。前の2つは牛頭天王と稲荷社の影響が強いと思います。
縁談の成功(縁結び)の御利益はどこから?じつはそれこそが聖天堂の本尊である「聖天さま」のご利益だといわれます。聖天は男女和合の神で子育ての神。水商売関係者が特に信仰するのだとか。
本殿
本殿は遠くから見てもなにか違う。彫物と木鼻の数が圧倒的です。それに拝殿以外に唐破風がついているのは激レアだと思います。本殿について前書から再び引用します。
本殿は三間社造向拝付き、屋根は入母屋造で四面に唐破風付き、建物の外周を飾る彫刻類には現在でも朱・緑と彩色の跡を残すが、総体極彩色塗という建立当時の豪華さを今でも十分に偲ぶことができる。外壁彫刻裏面の墨書から彫物師については、「下野國都賀郡富田驛住磯辺義兵衛英信」と、「峕天明五巳三年三月吉日」が明らかである。なお彩色師は水戸御用細工人井上亀之助といわれる(昭和二十八年『郷土』発行真壁町)。
真壁町の社寺 装飾彫刻
本殿が三間ともなると見るからに大きく感じます。構造的には別のようですが、幣殿と一体化しているように見えるせいもあるでしょう。彩色師がいることは上で知りました。建物と彫物の分担はよくあることですけどね。
ぐるりと裏の方に周って見える本殿。これが本当に素晴らしい。県の指定文化財です。
初めて見たときは驚愕しました。これが本殿なのかと。彫刻というよりペンで書いたような細かさ。それなのに立体的。人間業とは思えません。県内で類を見ないのは下野国の職人のおかげかもしれませんね。
暗くて写真が撮れませんでしたが、床下のあたりまで凄まじい彫刻で埋め尽くされています。わたしは県内一かと思いますので、ぜひ実際にご覧いただきたいです。
それではこんな建物に安置されていた聖天さまとはどんな存在だったのでしょうか。
聖天は大聖歓喜自在天の略で、一般には歓喜天といいます。もともと、バラモン教の神で、仏教に入り、病魔退散、夫婦和合、長寿延命の守護尊として信仰されています。
素晴らしい彫刻をちりばめた本殿/一般財団法人 茨城県郷土文化振興財団
かつて八柱神社では、二十センチほどの銅造聖天像に香油をかける浴供の行事を行っていました。行事は旧暦三月二十一日で、弘法大師の命日にあたり、御影供といい、その日、たくさんの参詣人が集まり、像に香油をかけて諸々の願いことを祈っていました。現在、聖天像は不明で行事はありませんが、神仏混淆の祭りとして意義がありました
以上は今瀬文也さんの文章です。わたしがいつも参考にしている”茨城の寺”の執筆者。ネットでもご活動を拝見できて嬉しい限りです。
金剛院が真言宗だったので八柱神社(天王社)にもその名残があったんですね。神社で護摩。。あまり耳にしませんが、福島の方ではいまもやっている神社があったはず。。
神仏混淆は明治になって排斥されてしまいましたが、信仰の事実は紛れもなくありましたから、こうして残っているものは大切にしたいものです。
社殿東側
東側の羽目板の彫刻についてご紹介します。
古代中国の伝説上の女仙人。崑崙山に住む不老不死の西王母の庭には、三千年に一度実のなる仙桃があって、これを食べると永遠に年をとらないといわれた。場面は、長生きを願っていた漢の武帝に七つの仙桃が与えられているところである。
真壁町の社寺 装飾彫刻
よく中国にはほとんど神話がないなんて言われますが、日本人からしたら神だと思える存在はたくさんいます。それは「仙人」として描かれ、人の欲望を叶えてくれるのです。
仙人は道教の世界でよく語られます。道教は中国の中心的な思想であった儒教と対立的なので公に広まることはありませんでした。しかし日本では修験道や陰陽道が取り入れ、広く学問する僧侶も知るところです。
こうした作品を見ると神道とは違う立場でありながら、神のような超人的な存在を信じた人々の気持ちに触れた気がしますね。根本は同じということです。
・八柱神社は明治以前は牛頭天王(社)
・明治に別当が廃寺になったことでお堂を本殿とした
・本殿(元聖天堂)は茨城一といわれるほどの彫刻
茨城県神社誌|茨城県神社庁
真壁町の社寺 装飾彫刻|真壁町歴史民俗資料館
いばらきの装飾社殿|河野 弘
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
御朱印巡りをされる方へ