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初詣はどこにいかれたでしょうか。県内だと笠間稲荷、鹿島神宮、大洗磯前神社が特に人気ですよね。すごく混むので大変なんですけど。。特別な御朱印めぐりを楽しむのも素敵だと思います。
わたしも県内各地に足を運んでいますが、氏神さまを忘れてはいません。わたしの場合は土浦市の真鍋地区にある八坂神社です。
この記事では八坂神社と初詣のようすをご紹介します。派手な神社ではありませんので、初詣や氏神について考える参考になればと思います。
この記事でわかること
- 詳しい由緒
- 文化財指定された社殿について
- 御朱印のいただき方
由緒
霞ヶ浦沖で引き上げられた牛頭天王像を御神体とし霞ヶ浦八坂神社と称し祀りはじめる。
口伝では応永3年(1396年)に現在の市営グランド傍の天王松の下といわれる
牛頭天王社として現在地へ遷宮。
口伝では応永22年(1415年)のこととされる。
神仏分離令を契機に社号を八坂神社とし、土浦町の総鎮守となる。
都和村の常名羽黒神社を合併
小田氏久公により修繕
土浦藩主・土屋政直により再建。大工・棟梁は野州千本住長野太左衛門清氏。
*『土浦の文化財』より
土浦藩主・土屋陳直により再建。
*『土浦の文化財』より
土浦英直により修繕。本殿の彫刻類はこのとき組み込まれる。
*『土浦の文化財』より
土屋相模守により修繕
*『土浦の文化財』および境内石碑より
*境内石碑より
*境内立て札より
*境内立て札より
*創祀650年記念
*『土浦の文化財』より
ご祭神は素戔之男命です。それに宇迦之御魂命を配祀しております。ただし、由緒の通り、はじめは牛頭天王としていました。祭神を改められたのは社号と同じ明治初期です。
当社の創建の伝説は牛頭天王社ではよく聞くもの。筑波(現:つくば市)の大杉に鎮祭されていた牛頭天王の御神体が川に流され、それを引き上げた土浦で祀られるようになりました。
江戸時代には天王像を流す風習があったんですよね。村内の疫病(災厄)を牛頭天王が引受け、それを川に流すことで清め、祓われるという考え方です。
流れ着いた御神体はいわば「マレビト」。そうした偶然を大切にするのが日本人です。神体に限らず流れ着いたご遺体なども丁重に葬ることで豊漁や除災につながるといわれていました。
真鍋に遷座後、牛頭天王社として真鍋の鎮守社に。その後、北西を向いていた社殿を南向きに替えて土浦城の鎮守も兼ねたとか。城の北東にあたるので鬼門除けのためでしょう。
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八坂神社は1872年(明治5年)以前は土浦、真鍋、都和地区の氏神でした
平成6年(1994年) ケヤキ(土浦指定名木・古木)
平成9年(1997年) ムクノキ(土浦指定名木・古木)
平成13年(2001年) 本殿・幣殿・拝殿(市指定文化財)
八坂神社について学ぶならこちら
アクセス
土浦一高から合同庁舎の方に続く道の途中にあります。この道は八坂神社の前にあるので八坂通りといいます。
名称 | 八坂神社 |
住所 | 茨城県土浦市真鍋5丁目9-1 |
駐車場 | あり(無料) ※初詣は合同庁舎に駐車できます(真鍋5丁目17-26) |
Webサイト | 公式サイト |
鳥居
現在の鳥居は1728年(享保13年)に土屋陳直が建てました。本殿は1700年(元禄13年)に土屋政直が。どちらも土浦藩の藩主で土浦城の城主。土浦の歴史と共にある神社です!
明治6年には政府の社格制度で郷社となりました。村社よりもひとつ上の格式です。権威付けがされたんですね。社格制度は戦後廃止となりましたが、神社の位置づけの参考になります。
境内入口は八坂神社だけでなく境内社の招魂社の石柱も建てられています。戦没者の慰霊も鎮守社にとって重要な役割です。
駐車場は鳥居の先です。50mほど進んだ左手に用意されています。
拝殿
八坂神社の拝殿・幣殿・本殿はいずれも市指定の文化財。さすが郷社といったところ。
拝殿はお賽銭を入れるときに目の前にある建物。その裏に御神体のある本殿があって拝殿と本殿の間に幣殿があります。つまり拝殿→幣殿→本殿の順に並んでいます。
拝殿は入母屋造り。聖徳太子が建てた奈良の法隆寺も同じ造り。格式高いです!
シンプルかつ常に薄暗い境内なのでいつも変わらぬ雰囲気。子どもの頃から来ているのでこともあって、わたしにとっておなじみの神社です。
拝殿の正面で待ち構えているのは龍。寺社でよく見る光景ではありますが、彩色までされているのは珍しい。神前にはよく龍と鳥(鳳凰が多い)が置かれているので注目してみてくださいね!
本殿
本殿は流造。男千木で鰹木は五本。県内の神社としては一般的な造りです。ただし、そのサイズと装飾については見るからに格上。少々地元贔屓かも知れませんが、土浦ではトップクラスといっていいでしょう。
社殿を建てた大工の棟梁は野州千本の長野太左衛門清氏です。『いばらきの装飾社殿』によれば、那珂市の引接寺客殿、北茨城市の花園神社本殿、常陸大宮市の鷲子山上神社本殿も建てた方なのだとか。
大棟には神社でおなじみの巴紋。巴紋にはいくつか種類があるのですが、この場合は左三つ巴ですね。端部に見える山状に並んだ四角形は、土屋家(土浦藩主)の家紋である「三つ石」です。こちらは神紋ではありません。
当社が土浦城の鬼門にあたることを考えれば、社殿の建立には藩主も大いに貢献したことでしょう。藩内の疫病除けも祈願したのではないでしょうか。
本殿の東側の虹梁上部には丸彫の鳳凰が取り付けてあります。描くだけでも大変なのに3D化するなんて!
同じく東側の羽目板に彫られているのは獅子、その背景にあるのが牡丹です。この組み合わせは「唐獅子牡丹」とも呼ばれ、たいへん縁起が良いとされています。
人々の災厄を食べてしまう獅子と獅子が恐れる「虫」を鎮める牡丹。無敵の組み合わせですね。
脇障子のモチーフは「梅福仙人」。上部にあるのは鳳凰のようですね。左右の脇障子が一体となってひとつの世界観を表現しています。ちなみにこの裏側にあるのは「瑞雲」で、背面の羽目板と関連しています。
本殿の建立は元禄13年(1700年)です。ご紹介した彫刻が加えられたのは享和元年(1801年)。約100年以上経過してのことでした。当時の土浦藩の石高は95,000石。貿易都市として栄え、資金的な余裕もあったのでしょう。
現在、安全上の理由で本殿の後方に回り込むことはできません。したがって本殿背面と西側については見れないようになっています。
招魂社
拝殿の向かって右手にあるのは招魂社。戦没者を慰霊するための神社です。倒壊してしまった鳥居は令和2年に立派に再建されました。
社殿は伊勢神宮の内宮・外宮で知られる唯一神明造り。棟持柱があるのが特徴です。日本でもっとも尊厳を集める造りとすることで戦没者への想いを形にしようとしたのでしょうか。
お賽銭箱の星は大日本帝国陸軍の勲章や帽章をイメージしたと思われます。
写真ではわかりませんが、招魂社の右手には右籾にあった海軍航空廠で亡くなった方のための忠魂碑が建てられています。かつて海軍の街として栄えた土浦の歴史を感じます。
土浦祇園まつり
毎年7月下旬の土浦祇園まつりは八坂神社の例祭です。
祇園は祇園社のこと。明治以前、京都の八坂神社は祇園社と呼ばれていました。神社の名前は変わりましたが、おまつりは同じなんですね。
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初詣
というわけで、初詣に行ってきました。
ふだんの境内は閑散としていて、社務所にはだれもいません。それが鳥居のあたりから参拝の行列ができているのを見ると、なんとも不思議な気持ちになります。
神社の由緒やご祭神は知らないとは思いますが、家族行事として親しまれているようですね。人生が豊かになるならレジャー感覚でも良いかなと思います。
氏神という考え方は人々の移動が自由な現代ではあまり意味がないかもしれません。でも、人は必ずどこかの土地で生活しますから、その土地に敬意を払う意味で参拝してみてはいかがでしょう。
たこ焼き焼きそば、大判焼き。定番のテキ屋を見つけましたが、昔よりも少し減りました。最近は外国の方も出店。世の中変わりましたよね。。
神社の駐車場は鳥居の奥に新設されました。初詣では利用できません。八坂通りはほぼ通行止めと思ってください。ただ、臨時駐車場は合同庁舎側から入った通り沿いにあります。
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御朱印
八坂神社の御朱印です。社殿左手の社務所でいただけます。さいきんは土日であれば常駐されていることが多いようです。
また、令和3年頃から兼務の真鍋鹿島神社(真鍋小学校隣)の御朱印の頒布もしております。鹿島は駐車場がないので八坂から歩いて参拝するのがよいかと思います。
近年は書き置き(印刷)による頒布をされているようです。
・真鍋の八坂神社は牛頭天王社を祀ることにはじまった
・毎年7月下旬の土浦祇園は市を代表するお祭
・御朱印は拝殿向かって左の社務所でいただけ
茨城県神社誌|茨城県神社庁
土浦市史 民俗編|土浦市史編さん委員会
民話100話 土浦ものがたり|著:本堂清
いばらきの装飾社殿|著:河野 弘
この記事で紹介した本はこちら
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。