常名天神山古墳に鎮座する 常名神社|土浦市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

古墳の上に鎮座するとっても珍しい神社を見つけちゃいました。しかもご近所。わからず建てたのか、それとも。。気になるところです。

それによくよく調べてみると純粋な神社とはいえないような。。これは他の方の意見も聞いてみたいと思います。この記事では土浦市の常名に鎮座する常名ひたな神社をご紹介します。じつは御朱印をいただけるんですよ♪

常名神社の社殿は2023年に不審火により焼失しました。当記事の社殿は焼失前の2020年に撮影しました。

常名神社
常名神社

由緒

不詳
創建

大正2年/1913年
合祀

同地にあった無格社の東天神社と西天神社、それに八幡神社が合併して村の鎮守とされた(茨城県神社誌)
※『茨城県の地名』では大正10年(1921年)

大正14年/1925年
村社列格
昭和46年/1971年
文化財指定

境内の石造宝篋印塔が市の文化財に指定される

昭和54年/1979年
社号標建立
平成3年/1991年
文化財指定

神社を含めた一帯が「常名天神山古墳」として市の文化財に指定される

令和5年/2023年
社殿焼失

不審火により社殿焼失

御祭神は菅原道真公誉田別ほんだわけです。天神社と八幡神社を合併したので当然ですね!

菅原道真といえば「学問の神様」として知られている一方で、死後に怨霊となって恨みのあるものに雷を落とした伝説が有名です。それが雷神であり、稲作を助ける農業神とされる由縁でしょう。

現在の境内は志望校の合格の絵馬が見られるので前者の天神像かと思いますが、かつては後者を意識していたのではと思います。

ただ、当社の例祭は11月3日(文化の日および旧明治節)となっており、天神社特有の初天神などが見られないことから、八幡神社の性質が強かったことが考えられます。

創建について不詳とされていますが、合併して誕生しましたので大正2年、もしくは同10年としてよいかと思います。合併した東天神社などの歴史は不明とのことですね。

常名神社が鎮座する常名天神山古墳(市指定文化財)は全長約70mの前方後円墳。一部削り取られましたが、元は90mほどあって玉塚古墳(手野町)に次いで市内2番目の大きさです。

wata

ところで常名って変わった地名ですよね。「日棚」とか「浸る」に由来するのでしょうか。傾斜のある土地で昔は桜川も近くを流れていましたので、いろいろと想像が膨らみます。

『茨城の地名』によれば、現在の鎮座地は西天神社のあった場所です。

生前の「菅原道真」はこちらから

アクセス

都和南小学校のある高台から少し降りたところ。住宅街に囲まれているので市民であってもほとんど知らないかも。。鳥居付近に駐車場はありません。社殿の裏の方から境内に回り込んで下さい。以下のような場所です。

正直、参拝者はほとんどいませんので駐車できないことはありませんが、道中細い道路なので運転にはご注意を。

名称常名神社
住所茨城県土浦市常名2445-1
駐車場あり
Webサイト茨城県神社庁新治支部

鳥居

社号標と鳥居
社号標と鳥居

車は境内の駐車場に停めてぐるりと回って鳥居まで戻ってきました。村社の社号標と明神鳥居がありますね。

合併してひとつとなった常名神社ですが、それは時の政府の神社合祀令によるもの。氏子自らの意思でないので全国的には不満を持つ方も多かったといわれています。

ただ、常名神社の場合はスッキリまとまったそうです。同じ祭神の天神社だったせいかもしれませんね。

石段
石段

社殿へ続く石段はなかなかの急勾配。手すりがあるので大丈夫ですが、石段は狭い幅で年月が経っていることから丸みを帯びています。要するにかなり注意が必要でした。

不動明王像と青龍大権現

不動明王像と青龍大権現の石祠
不動明王像と青龍大権現の石祠

初めて参拝したときには迂闊にもこれらに気が付きませんでした。右はおなじみの不動明王。右手に剣、左手には羂索を携えています。そして右手が青龍大権現の石祠。これは一体。。

不動明王は大日如来の教令輪身とされるため真言宗や修験道では本尊格とされます。とすると青龍もそれに似た信仰でしょうか。梵字があって「大権現」ですから仏教要素は強めです。

当社の由緒から神仏習合について読み取るのは困難。しかし実際に境内を見る限り他社と同様に神道オンリーとはいえないようです。

wata

お不動の足が妙に短いような。でも愛らしいですね。

青龍大権現は石碑は文政5年(1822年)と彫られています。

社殿

焼失した社殿
焼失した社殿

当社の拝殿および本殿は令和5年に焼失しました。毎日新聞では以下のように報じられました。

 7日午前0時40分ごろ、茨城県土浦市常名(ひたな)の常名神社付近から火が出ているのに近隣住民(40)が気づき、「竹林が燃えている」と119番した。木造銅板ぶき平屋建ての本殿約30平方メートルと、隣接するプレハブ物置約5平方メートルが全焼し、約1時間後に消し止められた。出火当時、神社は無人でけが人はなかった。土浦署と市消防本部が出火原因などを調べている。

 土浦署などによると、近くに住む無職の女性(81)が通いで社務などをしていたが、出火当時は不在で無事だった。

2023年5月8日付|茨城・常名神社が全焼 御朱印ブームで「隠れた人気スポット」|毎日新聞

令和6年2月現在、社殿は焼失したままです。残っているのは拝殿の基礎部と覆屋の鉄骨のみです。

神仏習合の名残が見られる境内

古墳の上の境内社
古墳の上の境内社

少し境内を見て周ります。いまでこそキレイに整備されていますが、かつては木々が鬱蒼と茂った鎮守の森だったのでしょう。写真手前がこんもりしているのが分かるでしょうか。

その部分が前方後円墳の前方部、社殿(写真右側)があったのは後円部ですね。後円部は高さ約6.8m。前方部は4.2mとなっています。

古墳は付近でよく見かけるんですよね。車で5分ほどの武者塚古墳では石棺や数々の銅製品が発掘されていまして、出土品は国指定重要文化財となっています。

神仏習合の名残の石仏
神仏習合の名残の石仏

前方部のあたりには境内社の稲荷神社などが並んでいます。お地蔵さまのように見えるのは神社誌にある大日如来でしょうか。そしてこんなものも。。

不思議な樹木
不思議な樹木

むむっ、よくわからない植物ですが、ここだけ土を残して維持されています。根のあたりに石碑があって「善道法師」と掘られていました。嘉永2年(1849年)に造られたようです。

善道法師の供養塔?
善道法師の供養塔?

なにか特別な場所だと思うのですが。。うーん、ミステリーなまま帰ってきてしまいました。宮司さんだったらわかるかな?

石造宝篋印塔
石造宝篋印塔

同じく前方部にある宝篋印塔。安土桃山時代の作とされ市指定文化財です。

宝篋印塔は免罪と来世の幸せを願う塔なので武士との関係が深いと考えられます。安土桃山時代はいわゆる戦国時代とかぶりますから、当地の武将が残したのかもしれませんね。

そういえば、土浦市史をのぞいてみると殿里に近い水田辺りに常名城があったそう。城主の菅谷治貞で天正18年(1590年)に佐竹氏によって滅ぼされてしまったのですが。。

城跡には「八幡」の祠が残っているそうです。八幡さまは源氏の守護神ですから常名城主は源氏だったのかもしれませんね。

石造宝篋印塔
石造宝篋印塔

この地に合祀された八幡神社はそちらにあったのでしょうか。常名城は高台にあったといいますから、常名神社の景観と少し似ていたかも。

城主の菩提寺は常名神社から徒歩5分の金山寺でしたので、なんだか城がこちらに移ってきたかのようですね!もしかしたら宝篋印塔も!?

御朱印

常名神社の御朱印
常名神社の御朱印

常名神社の御朱印です。個人的に大変思い入れのある神社なので、いただけてニヤニヤしております。

御朱印の頒布場所は宮司のご自宅なので、ネット上での公開は控えさせていただきます。

ただ、神社庁に所属している神社なので周辺の本務社で尋ねれば連絡先を教えていただけるかと思います。もちろん参拝後にいただいてくださいね。

火災により現在の境内は当記事の内容と大きく異なっており、御朱印の頒布等も難しいかと思います。当社について何か変化がありましたらすぐに記事を更新いたします。

フォトギャラリー

まとめ

・常名地区の鎮守社、天神社と八幡宮が合祀された

・古墳の上に鎮座している珍しい神社

・御朱印は宮司の自宅でいただける

・社殿は令和5年に不審火により焼失した

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|下中邦彦

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