金龍寺と牛久沼の由来|御朱印・新田義貞のゆかり(龍ケ崎市)

この記事でわかること
  • 金龍寺の新田義貞のお墓
  • 牛久沼の由来となった”牛食う沼”の民話
  • 御朱印のいただき方

龍ケ崎市と牛久市は不思議な関係です。

  1. 龍ケ崎市に女化おなばけ神社があるが、牛久市には女化という住所がある。
  2. 牛久沼の半分は牛久市に面しているが、もう半分は龍ケ崎市に面している。
  3. 横綱稀勢きせの里は牛久市出身だが、10年以上龍ケ崎市に住んでいた。

今回は、牛久沼の由来をご紹介します。実は牛久でなくて、龍ケ崎市の金龍寺きんりゅうじにあるんです。金龍寺の由来とあわせてお楽しみください!

金龍寺とは

金龍寺(山門)

金龍寺(山門)

金龍寺は龍ケ崎市の若柴町にある曹洞宗の寺院です。かなり細い道の先にあるのではじめて行くのはちょっと大変。。

由緒を龍ケ崎市の公式サイトから抜粋します。

元享元年(1321)、新田義貞にった よしさだの創建、天真禅師の開基と伝えられています。
義貞の死後(1338)、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺観を整えたとされています。

新田氏歴代の菩提寺で、はじめ上州新田郡(群馬県太田市)にありましたが、天正18年(1590)、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったときに、寺も一緒に移ってきました。

新田義貞!すごい名前がでてきました。鎌倉幕府の崩壊はこの人あってのことでしょう。楠木正成くすのき まさしげらと一緒に後醍醐ごだいご天皇建武の新政を樹立させた立役者ですね。

ただ、建武の新政は武士の不満が多くて上手くいきませんでした。その不満をまとめて、自分の力としたのが足利尊氏たかうじ。義貞は後醍醐天皇と同じく、武士の不満がよくわかりませんでした。そのため、かつて味方だった尊氏と対立します。

義貞は尊氏の巧妙な手口によって孤立し、ついには討ち取られてしまいます。義貞の最期はかつての仲間や後醍醐天皇から裏切られるかたち。悪いことをしたわけではないので、とても悲しい。。太平記では矢で撃たれたあと、自ら首を切って壮絶な自害をしました。

金龍寺は曹洞宗なので釈迦牟尼仏をご本尊としています。寺宝には国指定重要文化財の絹本着色十六羅漢像があります。由緒正しきお寺ですね!

新田家のお墓

新田家のお墓

金龍寺は新田家の菩提寺なので代々のお墓があります。一般の方々のお墓とは別に、お堂の裏にまとまってあります。

三十三観音

三十三観音

境内には勝軍地蔵や三十三観音など戦勝を祈願したと思われる石仏を多く見受けられました。

MEMO
由良国繁が牛久城主に国替えになったのは豊臣秀吉の命によります。国繁は秀吉の小田原攻めのとき小田原城にいましたが、母親が秀吉側に協力していたので敵方ながら格別の措置となったのです。

地蔵菩薩像

地蔵菩薩像

地蔵菩薩像

お堂の左手にある地蔵菩薩じぞうぼさつ像で通称、お地蔵様。お地蔵様はいろいろなところで見ますが。。この像は特にかっこいいと感じませんか!?青と金がとても美しく輝いています。

地蔵菩薩は、お釈迦しゃか様がなくなったあと、弥勒みろく如来が地上に現れる56億年もの間すべての生き物を救済してくれます。ときには地獄に落ちた者も。。

左手には宝珠、右手には錫杖を持っています。後ろの輪っかは円光背えんこうはい。位の高い仏尊であることを意味しています。

このお寺のご本尊は釈迦如来です。如来は「真理に目覚めたもの」つまり悟りを開いた仏たちのことです。菩薩は如来を目指して修行する存在でどちらも多くの生きとし生けるものを救います。

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仏像は位の高さがピラミッド状になっています。上から、如来、菩薩、明王、天です

観音菩薩(聖観音)像

聖観音像

聖観音像

お堂の右手には観音菩薩像。観音様はお地蔵様と同じくらい耳にしますよね。

千手観音や馬頭観音などとの関係はご存知でしょうか。観音とつくのは、みんなこの聖観音が姿を変えたもの。お願いごとに応じて33の姿があります。お参りをすると姿を変えてどんな災厄も取り除いてくれます。こちらも素晴らしい像です。

本堂

本堂

本堂

金龍寺の歴史は偶然の連続といえるかもしれません。混乱の時代に新田家の菩提寺として創建。『茨城の寺(四)』によると何度か移設があり、元和7年(1621年)には新田貞義が急逝して領地が返上となったそう。

ところが、金龍寺に山林や田畑など多くの寄進が集まったので以前よりも豊かになったといいます。天保年間(1830~1843年)に火災に遭って本堂を再建することになりましたが、やはり多くの寄進が集まりました。

近年、そのとき再建した本堂を大修理したそうです。手元の本に40年ほど前のお堂の写真がありますが、いまよりずっと簡素ですね。

民話『牛になった小坊主』

金龍寺には牛久沼の由来となった物語があります。これ、わたしが小学校のとき給食の時間に流れたビデオで知りました。ちょっと怖かった思いでがあるんですよね

むかしむかし、いまの牛久沼の近くに金龍寺がありました。金龍寺にはおどろくほど大食いで怠け者の小坊主がいました。

小坊主の大食いはすさまじく、毎回大きなお椀でごはんを何杯も食べていました。和尚が呆れて「そんなに食べるやつがあるか。腹八分目という言葉があるぞ」と、言って聞かせましたが、小坊主は「食っても食っても、底なしだあ」とおかわりを止めません。そして、食べ終わるとすぐにゴロンと寝てしまいます。

和尚はだらしない小坊主に注意しますが、いいわけをして動きません。そのうち和尚も仲間たちもその小坊主を相手にしなくなりました。

ある朝、小坊主がだいじなお勤めもせず居眠りしているので、和尚は怒り出しました。「お前の身体にはなまけ虫がすみついている!そんなにゴロゴロ寝ていると、いまに牛になってしまうぞ!」和尚の剣幕にびっくりした小坊主は、さすがにそのときばかりは反省をして、居眠りや昼寝をしないように決意しました。しかし、眠気には勝てず、いつもの生活は変えられませんでした。

ある日、小坊主は井戸に水を汲みにいきました。汲み終わってなんとなく桶の水をのぞいてみると、そこには2本の角の生えた牛の顔がありました。小坊主は驚くと同時に絶望しました。そして沼の方に走っていきました。

一方、和尚は小坊主が井戸に行ったあと行方不明であることを知りました。他の小坊主たちに探させましたが、一向に見つかりません。そのうち、沼の方から和尚を呼ぶ声がしました。

和尚が声のする方にいくと、そこにはまるまる太った子牛がいます。子牛は「和尚の言うことを聞かなかったので、このような姿になってしまいました。こうなってはもう死んでお詫びするしか無いです」そう言うと子牛は沼の中に入っていきました。

和尚は「待ってろ。御仏の力でもとに戻してやるから」子牛を止めようと尻尾を掴みました。しかし、子牛は歩みを止めず、どんどん沼に入っていきます。そのうちしっぽがぷつんと途切れ、子牛はそのまま沼に沈んでいきました。しかたなく、和尚たちはその尻尾を供養することにしました。

以来、牛が沈んでいった沼を「牛喰い沼」と呼ぶようになりました。それがやがて牛久沼となったそうです。

色々と教育的な意味合いがあるのでしょう。ちなみに牛を引き止めたときしっぽが抜けたそう。寺宝にはそのしっぽを使った払子があるとか

MEMO
牛久沼と呼ばれる前は『太田沼』だったと云われます。

御朱印

金龍寺の御朱印

金龍寺の御朱印

金龍寺の御朱印です。御朱印料は300円。

本堂右手の庫裏でいただけます。ご住職は外出されていることも多いようなので、いただけたらラッキーくらいでどうぞ。

アクセス

店名太田山 金龍寺
住所茨城県龍ケ崎市若柴町866
Webサイト龍ケ崎市役所公式内
駐車場あり

おまけ:牛久沼水辺公園

牛久沼の景観を楽しむなら、龍ケ崎市にある牛久沼水辺公園。この公園は2005年にできました。

牛久沼水辺公園

牛久沼水辺公園

素晴らしく広いのでお散歩や運動に最適。季節によっていろいろなお花が咲くことも特徴です。広さのわりに利用者が少ない公園なので、のんびり過ごせます♪

MEMO
たどり着くには近くのお店『伊勢屋』を目指すといいでしょう。そこからお店の正面の通りを(国道)6号と反対側へ進めば公園です。アクセスにはお店の住所を載せました。

アクセス

名称牛久沼水辺公園
住所茨城県龍ケ崎市稗柄町125(伊勢屋)
駐車場あり

まとめ

この記事のまとめ

  • 金龍寺は新田義貞の菩提寺。太田市(群馬県)から移設されてきた
  • 本堂の裏手に新田家のお墓がある
  • 金龍寺の怠け坊主が牛になったという民話があり、牛久沼の由来といわれている
  • 御朱印は本堂右手の庫裏でいただける

参考図書

茨城の寺(四)/今瀬文也
茨城県の民話/編:日本児童文学者協会
知っておきたい仏像と仏教/発行:宝島社
太平記/著:永井路子
筑西風土記/著:中村ときを

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