2月17日(水)『うなぎ地蔵』(城里町)の記事を公開しました。次回更新は2月21日(水)の予定です。

恋瀬姫は志筑姫!?志筑川に志筑藩、悠久の響き『しづく』をかすみがうら市で再発見!(かすみがうら市・石岡市)

志筑川アイキャッチ

突然ですが、いしおか恋瀬姫をご存知でしょうか。恋瀬川をモチーフにした石岡市公認のマスコットキャラクターです。いわゆる萌えキャラをご当地のマスコットにしたのは全国でもかなり先駆けだったと思います。なかなか可愛らしいキャラクターなので、わたしも好きです。

その恋瀬姫が誕生するきっかけとなった恋瀬川ですが、いくつか別の名前があります。茨城県のWebサイトの恋瀬川のページでも紹介されていますね。鯉瀬川や表川などで、手持ちの本によれば、表川は1646年頃に呼ばれていたそうです。

一番古い呼び名は奈良時代に編さんされた常陸国風土記にあります。その頃は信筑しづくと呼ばれていました。筑はやはり筑波山に由来するのでしょう。水と筑波山を同時に連想させる素敵な名前だと思います。

さて、このしづくという言葉。とても美しい響きなので、ずっと覚えていました。すると、いまでもいろいろな場所に残っていることに気づいたんです。今回は信筑川に志筑藩、師付の田井に志筑県と『しずく』に関することをご紹介します!

信筑川

恋瀬橋から見る恋瀬川と筑波山

現在の恋瀬川は、かつて信筑川(志筑川とも)と呼ばれていました。常陸国風土記の時代ですから、約1300年前です。

筑とありますが、実際には筑波山よりも少し北東の吾国山わがくにさんが源です。古代では、その辺の区別をつけるのはまず不可能ですから、自然な名前でしょう。信筑川は吾国山のある石岡市の八郷地区から、かすみがうら市の千代田地区を通り、石岡の高浜から霞ヶ浦に流れ着きます。約30kmもありますから、市をまたいでいるんですね。

時代をさかのぼるほど、水源は貴重です。恋瀬川がかつて様々な名前で呼ばれていたこと。和歌や詩になんども登場すること。多くの記述が残されているのは、それだけ人々の関わりの強さを示しています。いまでは地域のマスコット誕生にまでつながっているのですから納得です。

MEMO
写真は石岡市の恋瀬橋から撮影したものです。風景には恋瀬川と筑波山が見えます。おそらく、いしおか恋瀬姫の背景はこのアングルが元だと思います。石岡市民なら、みんな気付くかもしれませんね!

wata

ところで、川を辿っていたら八郷に恋瀬と名のついた小学校や幼稚園があることを知りました。名前に恋のある学校は少し不思議ですが、地域に根づいた言葉だからこそですね!

志筑藩

志筑藩はいまのかすみがうら市にありました。江戸時代に秋田からやってきた本堂家が藩主です。新撰組に参加した伊東甲子太郎鈴木三樹三郎も志筑藩にいたことで有名です。細かく言うと、本堂家はやってきた頃、禄高が1万以下だったので志筑領の領主です。

本堂家は明治時代の廃藩置県まで、ずっと統治を続けていました。江戸時代のはじまりが1603年で、廃藩置県が1871年・・・つまり、約270年の長期間です。すごいと思います。江戸時代よりも長いです!

MEMO
江戸時代までこの地を治めていたのは佐竹氏です。佐竹氏は関ヶ原の合戦の際に中立(曖昧とも)な態度でした。そのため、東軍が勝利したのに徳川家康の命令で秋田へ領地を移すことになりました。もちろん、元の禄高から大きく減らされています。

本堂家は常陸国(いまの茨城県)にやってきて、はじめに石岡市の威徳院に入りました。そのあと、かすみがうら市の佐谷にあった笠松城に移っています。そして、1645年にかすみがうら市の志筑にあった志筑城へ陣屋を移しました。それからはずっと同じ場所で志筑領の支配を続けました。

明治維新後は新政府軍に協力したので、禄高を増やして大名へ。本堂家は歴史の重要な場面ではっきりした態度を示しました。そのため、新政府に信用されたということですね。

志筑藩となって4年後、廃藩置県によって志筑県が誕生しました。志筑県の初代県知事は本堂親久ちかふさです。さりげなく志筑県が誕生しましたが、その後すぐに合併によってなくなりました。県同士の合併は続き、最後にはもちろん茨城県が誕生しました!

志筑城跡とクスノキ

志筑城跡入口

志筑城の跡地には、城に関するものはほぼ残っていません。でも、ぜひこれだけは見ていただきたいです。

志筑城跡のクスノキ

クスノキです。樹の太さから樹齢300年から400年とされるそうです。もしかしたら、本堂家はずっとこのクスノキを見ていたのかもしれませんね。

写真の右下に小さくある赤いものがわかるでしょうか。郵便ポストです。かつて、この場所は志筑小学校の旧校舎があったので、その名残でしょうか。いまは使われていませんが、樹と比較すると樹の巨大さがわかります。

アクセス

名称 志筑城跡
住所 〒315-0075 茨城県かすみがうら市中志筑2112
駐車場 なし

長興寺

長興寺のお堂

志筑藩主の本堂家には菩提寺がありました。菩提寺は先祖代々お世話になっているお寺です。つまり、菩提寺にはご先祖のお墓があります。本堂家は志筑城のすぐそばにある長興寺ちょうこうじが菩提寺でした。城跡から歩いて2〜3分です。

長興寺の石像5

長興寺の石像4

長興寺の石像1

長興寺境内

このお寺はとてもユニークな石像があります。境内を見て楽しめるので、お寺好きでなくてもお参りをオススメできます。個人的に問題作ともいえる楽しい石像を発見しました。ちょっと探せば見つけられますので、挑戦してみてください!

MEMO
本堂家のお墓はお堂の裏側にあります。この地の方々の平穏な暮らしに尽力された領主だったと思いますので、お参りをしてきました。長興寺は歴史を実感できる重要な場所です。

指定文化財・一斉公開

長興寺の不動明王

余談です。長興寺はかすみがうら市の指定文化財・一斉公開のイベント会場になっています。簡単にいうと、各地で文化財を見ながら学芸員や学生たちの解説を受けられます。わたしは昨年参加しましたが、貴重な文化財を間近で見れてよかったです。学生たちはしっかり勉強してくるので、わかりやすい解説でした。

たぶん、今年もあるはず・・・まだ日程はわかりませんが、昨年は11月から12月にかけてでした。ぜひその時期にかすみがうら市のWebサイトを見てください!

wata

昨年と同じであれば長興寺は不動明王と二童子の立像を公開します。かなり迫力あるのでオススメです!

アクセス

名称 長興寺
住所 〒315-0075 茨城県かすみがうら市中志筑1056
駐車場 あり

師付の田井

師付の田井の駐車場

最後は師付しづくの田井です。こちらは、長興寺の裏手に広がる田園の中にあります。なんと、田井の前には駐車場があります!農道の先にこんな場所があるなんて驚きです。

師付の田井

師付の田井は、万葉集にも登場する歴史のある言葉です。万葉集は、8世紀頃に編さんされた和歌集です。師付の田井の歌は4500ほどある和歌のうち、1757番目にあります。

師付の田井
草枕、旅の憂いを慰むる事もあらんと筑波嶺に登りて見れば尾花ちる、師付の田井にも雁がねも寒く来なきぬ。新治の鳥羽の淡海も秋風に白波立ちぬ。筑波嶺のよけくを見れば長きけに、おもひ積み来し憂いはやみぬ。
かすみがうら市教育委員会/師付の田井前の立て札より

田井とは田んぼの中の井戸という意味だそうです。つまり、歌が詠まれた古代からこの地には水田があったことがわかります。いまも稲作をしていますので、とても神聖な感じがしました。

田井から少し歩くと、かすみがうら市の田園と筑波山が見えます。とても気持ちのいい風景です!

アクセス

名称 師付の田井
住所 〒315-0075 茨城県かすみがうら市中志筑
駐車場 あり

粟田橋

師付の田井から車で5分ほど走ったところに粟田橋があります。粟田は石岡市との境目ですね。

粟田橋から見る恋瀬川と筑波山

粟田橋から見る筑波山です。やっぱり、恋瀬橋から見る風景と似ていますね。しづく巡りの締めとしてふさわしい場所です。

イラスト『かすみがうら信筑姫』

イラスト『かすみがうら信筑姫』

Illustration by りゅうか1105

恋瀬川よりも先に名前のあった信筑川をモチーフに誕生しました(*^^*)
いしおか恋瀬姫よりもお姉さんという感じです。志筑から雫を連想し、雨の似合う女性として描かれています。

志筑はかすみがうら市の地名なので、関係しているものを盛り込んでみました。着物の柄はあじさいです。雨(梅雨)の時期に咲く花で、かすみがうら市の花でもあります。また、かすみがうら市は、いちご、梨、栗、ぶどう、柿、ブルーベリーが名産です。それぞれの色が使われていますが、わかるでしょうか?

恋瀬姫は持っている扇で恋の願いを叶えてくれるそうです。こちらは、持っている傘を開くと雨の恵みがあるとか・・・

まとめ

恋瀬川は太古に志筑川と呼ばれていました。川の名称は変わりましたが、志筑の名は地名をはじめ様々な場所で見ることができます。

特に志筑藩は新選組参加した伊東甲子太郎とも縁があって、歴史的にも重要な意味を持っています。たくさんあるということは、それだけ根付いたということです。じっくり調べてみるともっと面白いことが発見できるかもしれませんね!