旧千代田村の新治神社|御朱印・新治の井と山桜|かすみがうら市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

水はいつの時代も必要不可欠。古代であればなおさらのこと。古い民話や逸話に水に関する記述が多いのはそのためでしょう。

常陸国風土記には、東征でやってきた日本武やまとたけるにちなんだ湧き水の記述がありますが、じつはそれにゆかりのある神社がかすみがうら市にあるんです。

この記事ではかすみがうら市の新治にいはり神社をご紹介します。新治の井と名物の山桜についても書きました!

この記事でわかること

  • 新治神社の由緒
  • ゆかりの山桜
  • 御朱印のいただき方
参道
参道

新治神社はかすみがうら市の新治に鎮座しています。そう、社名は旧地名の新治村に由来。新治村は合併により千代田村へ、千代田村が出島村と合併してかすみがうら市となりました。

ちなみに千代田村だった頃は新治郡でした。この新治郡は常陸国風土記にある新治郡とは異なるので注意です。

由緒

不詳
創建

元亀年間/1570-1573年
三村城主 三村七郎平常春が上田一石を寄進
明治7年/1874年
二荒神社を合祀
明治15年/1882年
村社列格
明治23年/1890年
新治神社と改称
大正元年/1912年
供進指定
昭和27年/1952年
宗教法人設立
文禄4年/1595年
文禄4年(1595年)

*境内石碑による

大正14年/1925年
鳥居建立
昭和54年/1979年
新治の井の石碑建立
平成20年/2008年
社殿再建および由緒碑を建立
由緒碑
由緒碑

ご祭神は毘奈良珠ひならす。配神は豊城入彦とよきいりひこです。

境内の石碑から由緒を抜粋します。

古の時代より当 新治神社は常陸国風土記に津城しています。関連のある記述をひも解くと、「日本武尊巡狩の折、国造毘奈良珠ひならす命に新たに井を掘らせたところ流泉浄澄、尊は大いに喜ばれ手を洗い給い御衣の袖を漬されたところ」と伝える。以降、例祭日にはこの新治の地にある井を御手洗といい、氏子一同の禊場となっている。爾来、由緒正しき、境内地を持ち、元亀年間、三村城主 三村七郎平常春公は当社を崇敬。一石を寄進。永代祭祀の料とされています。

非常に興味深い由緒ですよね。日本武尊の記述は常陸国風土記の冒頭(総記)にありまして、『常陸』の地名は尊が袖を漬した(漬した地)ことから転化したという説があります。

茨城県神社誌では新治神社の愛称が「日光さま」となっています。これは明治7年(1874年)に合祀された二荒神社のことでしょう。沿革に「二荒神社に合祀」とあることから、この地にあったのは二荒神社の方だったのかもしれません。

常陸国風土記との関係はともかく、新治の井は現存していて神事もあることから社名はその井戸に関係しているといえるでしょう。

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井戸は神社から車で2〜3分の場所です。春になると立派な山桜が咲くんです♪

最寄り駅は神立駅ですが、神社へ車で以外で行くことは困難です。

アクセス

名称新治神社
住所茨城県かすみがうら市新治584
駐車場なし
Webサイトなし

鳥居

鳥居
鳥居

鳥居の前の通りを奥に進むと墓地がありますので、その手前あたりに駐車。周辺は墓地と畑だけなので人通りはまったくと言っていいほどありません。

春に参拝すると鳥居にかかるような桜を目にしました。幹や枝が細く感じられたのでまだ若いようです。小さくひっそりとした神社ですが、とこどころ人の手が加わった様子が感じられて心地よい雰囲気です。

社殿

拝殿
拝殿

参道はおよそ30mほど。コンクリートで舗装されており、手水舎には蛇口がありました。近年整備されたのかな〜と考えていると参道沿いの石碑に平成20年(2008年)に社殿等を再建したとありました。

社殿はシンプルな造りですね。中を覗いたところ暗がりでよく見えませんでしたが、ご神体として御幣があったかと思います。二礼二拍手一礼。いつものお参りをすませてから境内を散策します。

本殿(覆屋)
本殿(覆屋)

本殿は覆屋によってしっかりと保護されていました。

旧社殿は文禄4年(1532年)に再建されたと記録あり。

境内社

稲荷神社
稲荷神社

境内社は社殿の左奥に赤い屋根の稲荷神社(倉稲魂命)、右奥に3つの祠が並べられていました。祠はそれぞれ厳島神社(市杵島比売命)、浅間神社(木花開耶姫)、二荒神社(二荒山大神)です。

3つの祠
3つの祠

詳しい由緒はわからないのですが、市杵島比売命は水神とされていますので本社の井戸と関係があり、木花開耶姫は境内および新治の井に植えられた桜と関係していそうです。

富士山大権現の石祠
富士山大権現の石祠

一番右の石碑だけはかろうじて「富士山大権現」と読めます。浅間神社の神仏習合時代の尊称ですね。

新治の井と山桜

新治の井の桜
新治の井の桜

新治の井は神社から車で2〜3分の場所に位置しています。駐車場はありませんので、近くの行政施設(農業用水の排水施設)の辺りに停めることになります。

施設の辺りまで行けば場所の特定は簡単。見事な枝ぶりの山桜が目印です。春は鮮やかな赤とピンクの花が咲き乱れ、以降はぎっしりと緑色の葉がつきます。

『茨城県の桜』によるとこちらは寄せ木(寄植えの合成樹)のため一斉に満開は迎えないそう。なるほど。たしかに枝の太さがまちまち。開花時期も異なっていました。

りんさんのブログによると土地改良の関係で湧き水はあるものの実際に湧いているところは見えないそう。

新治の井の石碑
新治の井の石碑

石碑の文字はよく見えないのですが、うっすらと「の井」と読めましたので「新治の井」とあるのかと思います。裏には神社の由緒と昭和54年に氏子が建てたと彫られていました。

山桜も同じ時期に植えられたのでしょうか。だとする樹齢40年ほどですね。この場所ですと目印の意味が強そうですが、春になると開花とともに鎮守社を思い出せるのが素晴らしいですね!

ご祭神の謎

常陸国風土記 全訳注 P192
常陸国風土記 全訳注 P192

前述の通り、常陸国風土記の新治は昭和の頃の新治郡とは異なっています。現代だと笠間の西、桜川市の北辺りでしょうか。では、当由緒は『新治』を意識して創作されたのでしょうか。わたしはそうでもないように思います。

もし、単に立派な由緒にしたいのであれば、ご祭神を日本武尊にしそうなものです。どうしてその家臣なのか。しかも常陸国風土記でしか記述のない人物です。

まったくの憶測ですが、毘奈良珠命は実際に井戸を掘った人物の比喩ではないでしょうか。地域に貢献してくれた人物をお祀りしたということです。特定の人名にしないことはむしろ重要なのでしょう。

そう考えると配神の豊城入彦命はどういう意味でしょうか。命は崇神天皇の皇子ですから日本武尊よりも前の時代の人物です。具体的になにをしたかというとピンときませんが、日本書紀には日本武尊のように東征をしたと伝えられます。

これも土地の争い事を鎮めた人物の比喩ではないかと。東征といえば日本武尊や源義家(八幡太郎)なのですが、やはりあえて有名人を出さないことに意味があるように思います。

ちなみに豊城入彦命は県内の神社でなかなか耳にしません。阿彌神社(阿見町)雀神社(古河市)の由緒に少し書かれている程度です。

新治神社のご祭神はどんな神様だと思いますか?

常陸国風土記にある新治郡の国造なのか。それとも別の神様なのか。はたまた実在の人物を伝説の人物に例えているのか。非常に珍しいご祭神なので色々考えてみると面白いですね!

御朱印

新治神社の御朱印
新治神社の御朱印

新治神社の御朱印です。新治神社は市内にある本務の胎安神社でいただけます。宮司は不在の場合もありますので、どうしてもその日にいただきたい場合は事前にお電話しておくといいですよ♪

まとめ

・新治神社は常陸国風土記および井戸と関係がある

・新治の井は現存し、その場所に山桜が植えられている

・御朱印は本務の胎安神社でいただける

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁
常陸国風土記 全訳注|秋本吉徳