- 由緒沿革
- 社名「太宮」と「大宮」について
- 御朱印のいただき方
地名や社名って面白いですよね〜なにかしら理由がありますから、知ると「なるほど」と思うことばかりです。
でも、わからなくてもあれこれ考えてみるのは楽しいですよね。今回は気になる社名、地名の神社をとりあげます。
この記事ではかすみがうら市(旧出島村・旧霞ヶ浦町)の太宮神社をご紹介します。境内にはたくさんの歴史が詰まっていますから、あれこから考えながら参拝してみましょう♪
太宮神社とは

社号標と境内
太宮神社はかすみがうら市の安食に鎮座しています。珍しい地名ですよね。つくば市にも安食がありますが、そちらは「あじき」と読みます。
戦国時代に安食氏が当地を治めていましたが、地名のほうが先ですね。由来はわかっていませんが「安」と「食」があることから食べ物には困らなかったのでしょう。
安食の地名については『まほらにふく風にのって』で詳しくご紹介されていますので、ぜひご覧ください。わたしは崖地に由来する説が気になっています。当社の鳥居は断面から判断すると崖のような斜面の樹木が使われたようなんですよね。
さらに菅谷氏へと移りましたが、佐竹氏の南三十三館討滅の戦によって菅谷氏は滅亡。それにより神社は荒廃したと伝えられています。
しかし寛文3年(1663年)に鳥居を建立。延宝4年(1675年)に本殿と拝殿を建立しました。(復活ですね!)
貞享4年(1687年)、水戸藩主の徳川光圀が参拝。光圀公は宮司に色々と尋ねて、改めて安食、柏崎、岩坪、堂山、成井横町の5か村の総社として命じました。
太宮神社の歴史で特に重要なのが光圀公に認められていたことです!『日乗上人日記』によると井石(井関)に舟を止めて上陸、宍倉→安食→乗船して小川と移動したそうです。ただ、元禄9年(1696年)の条にあるのがちょっと気になるのですが。。社伝とは違う??
ご祭神は大宮売命、国常立命、天津彦火邇々杵命、国狭槌命、高皇産霊命、神皇産霊命、天照皇大神、天忍穂耳命、武甕槌命、経津主命です。なんと10柱。多いっ!
市内の最勝寺には『葵の紋』のある仏画、杲泰寺には光圀公が詠んだとされる漢詩が残っています。最勝寺の仏画は秋の一斉公開で見ることができます。
アクセス
常磐道のICを下りて約20分です。
神社の行き方はかすみがうら市内を通る県道354号と霞ヶ浦沿いを走る118号の交差点(ファミリーマートが目印)を北へ。道なりに進むと右手に見えてきます。
駐車場は数台分用意されていますのでご安心ください♪
名称 | 太宮神社 |
---|---|
住所 | 茨城県かすみがうら市安食1795-1 |
駐車場 | あり |
鳥居

鳥居の代わりにしめ縄
太宮神社のシンボルといえば朱色の両部鳥居。。だったのですが、築400年を超えて危険だったことから令和元年(2019年)12月に解体されました。
現在は鳥居の代わりにしめ縄が設けられています。一応くぐれますよ〜

2019年4月の鳥居
こちらが在りし日の姿です。解体される年の4月のようすですが、この時点でコーンが設けられて近づけないようになっていたんですね。
青空や新緑で映えていたのが印象的でした。隣の立て札には再建する旨がありましたので、微力ながら支援させていただきました。
狛犬

狛犬(右)
拝殿の手前にある狛犬です。よく見ると頭の上に丸い物体が。。宝珠といわれています。いや、丸くなった角かも。
県内では非常に珍しいと思います。わたしが覚えているのは龍ケ崎市の八坂神社くらいですね。ゆる〜い丸みでなかなか愛らしいと思いませんか?

狛犬(左)
ちなみに宝珠があるのは右側の狛犬です。左はだれかが乗せた石が置かれています。おそろいにしたかったようですね。
どちらも口を開いているように見えるので阿吽になっていないんです。色々と興味深い狛犬ですな。
拝殿

拝殿
拝殿です。扁額は時間が経っているせいか、なにも見えなくなっていました。社名に関わるのでじつは結構気になっていたんですよね。
拝殿の奥には大宮八景の書がありました。八景はその土地の景勝地を8つ選んだものです。大宮八景は次のとおりです。
以上すべてがわかったら、この地区のスーパー教養人に認定します。霞浦帰帆や筑波夕照なんかは想像できますけどね〜
wata
本殿

本殿
太宮神社の本殿です。一般的な流造ですね。千木は外削ぎ。鰹木は5本です。ふむふむ。
当社は前述の通り5か村の総社です。祭神はあくまで10柱で大宮売命を主祭神としているわけではありません。出島村史では主な祭神として国常立命を紹介しています。
なんでこんなこと気にするかというと、主祭神がわかると神社の性質もわかるからです。
もし千木が内削ぎで鰹木が偶数なら祭神の大宮売命や天照皇大神の存在感が強くなるわけですが。。まったく違いますね。謎は深まるばかり。
社宝『鰐口』(県指定文化財)

鰐口(市公式より引用)
忘れちゃいけないのが、太宮神社の社宝である鰐口です。この鰐口には色々な情報が詰まっているのですが。。そのひとつが次のような銘文です。
常州國南野庄安食郷大宮鰐口 応永十年癸末三月廿八日 浄超敬白
応永10年(1403年)に社僧である浄超が奉納したことを意味しているのですが。。まず「社僧」が気になるところ。
現代ではほとんどないと思いますが、社僧は神社で祭祀をする僧侶のことです。神仏習合の時代ならではですね。
それに浄超はどこのお寺にいたどんな方だったのでしょう。神社誌には別当についてありませんし。。いまも残るお寺なのでしょうか。
常州國南野庄安食郷は当時の土地についてわかります。南野庄は荘園のこと。出島全域に加え、稲吉、中貫、真鍋、藤沢、斗利出の一部から小田付近までを指します。広大ですよね〜
太宮神社はその中の安食郷にありました。ややこしいのは同時期、同地域に安飾郷があったこと。郷はいくつかの村をまとめた行政区分なので同時期にあったとは考えにくいんですが。。
出島村史にある中世の地図では次のようになっています。(餝は飾の異体字)

出島村史(P44)より抜粋
とりあえず安食郷は太宮神社周辺としてよいでしょう。安食氏(小田氏)が勢力を拡大して得た領地でしょうから、その地の人は正当性を示す意味で「郷」を用いたかもしれません。
わずか一文でいろいろなことが考えられますよね。銘文があると史料価値がグッと増すので文化財になりやすいんです!
かすみがうら市の公式サイトの銘文には「大宮」ではなく「太宮」とありますが、誤りです。
庚申塔

庚申塔
周辺の石仏にも目を向けてみましょう。こちらは社殿の左手にある庚申塔です。
猿田彦大明神とあるんですが、石仏自体は明らかに青面金剛です。写真だと見ずらいのですが、足元に三猿が彫られています。

青面金剛と足元の三猿
この猿が『三尸の虫』ですね。道教の思想によると虫は人々の体内に潜んでいて、庚申の夜になると天帝に主の悪事を報告しに行く。報告された主は寿命が縮むといわれています。
だから庚申の夜は寝てはいけない。もちろん、みんな同じ条件なので講というグループを組んでおしゃべりなどをしながら朝まで過ごすんです。実際にはどこも『お楽しみ会的』だったみたいですけど。
庚申塔は「庚申」の文字だけの場合も多いですから、しっかり彫られているということは熱心な信仰があったのかな〜なんて想像できますね!
wata
錨

錨
参道左側の狛犬の後ろあたりにあるのがこちらの錨。
由緒はさっぱりわかりませんが、船乗りが役目を終えた錨を神社に奉納することはよくあること。無事に生きて帰れたことの感謝やよく働いた錨への労いの想いからです。
出島村は霞ヶ浦に面していますから大勢の船乗りがいましたし、それで生活をしていた方もたくさんいました。地域のシンボルとして鎮守社に飾られるのはいい感じですね〜
御朱印

太宮神社の御朱印
太宮神社の御朱印です。
社殿の左側にある社務所でいただけます。いつもいらっしゃるわけではありませんが、土日にお会いできることが多いですね。
この日は2月2日(日)で翌日の節分の準備をされていました。例祭は日程きっちりでいくそうですよ!
社名について

太子古墳
太宮神社の社名が気になる方も多いと思います。「おおみや」神社といえば「大宮」と書くのが一般的ですからね。
なぜ「太」が使われているのか。色々調べてみたのですが、結論としてはりんさんのブログにある通りだと思います。
元々の社名は読み方と同じ「大宮」なのですが、点があるのにもかかわらず「おおみや」なのはなんなのかと思い聞いてみると、ほど近い場所にある太子古墳群(たいしこふん)と結びつける為に、ちょっと前の宮司さんが点を付けたのだとか?
太宮神社(かすみがうら・安食)/山地の住人
おそらく「太宮」を称したのは文化財に指定された昭和52年(1977年)頃からではないでしょうか。
太宮神社は太陽神である天照大神と大神の従者である大宮売をお祀りするお社ですから「太」の字を当てるのはピッタリかと。氏子の皆さんも社号標を建てて賛同していますから、末永く信仰を続けていただけたらと思います。
まとめ
この記事のまとめ
- 太宮神社は水戸黄門から5か村の総社として命じれた
- 「太宮」と称するのは近世と考えられる
- 御朱印は社殿左の社務所でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
出島村史/出島村史編さん委員会
出島村史(続編)/出島村史編さん委員会
年表
この記事は筆者の主観が多分に含まれております。
筆者の誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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