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雨が降るとイマイチな気分ですよね。でも、かつて人々の生活が農業中心だった頃はありがたいことでした。茨城の雨乞い伝説を知るたびに感じます。
以前書いた潮来市の竜神伝説が思いのほか好評だったので第二弾に挑戦。今回は一般的なものと違った点が多いです。あれ?と思うことを探してみてくださいね。
舞台は筑西市。合併前は下館市と呼ばれていました。五所神社ゆかりの八竜神伝説をご紹介します。雨がとてもありがたく感じる内容です。
この記事でわかること
- 五所宮の五所神社の由緒
- 五所神社に関わる八竜伝説について
由緒
以下の由緒は主に境内の立て札を参考にしています。
勧請により創建。
奥州合戦で功を成した藤原朝宗の子・為宗と資綱により伊佐郷三十三郷の総鎮守となる。
社領として三石を賜る。当時の別当は満願寺だった。
*『茨城県神社誌』による。郷社の誤記?
*境内石碑による
ご祭神は次のとおりです。
- 武甕槌命
- 経津主神
- 天児屋根命
- 比売命
江戸時代に別当を務めた満願寺が明治22年(1889年)に火災にあったことで、社記などの社宝を失ってしまいました。それにより信仰の詳細はわからないのですが、御祭神からすると本質は春日神社なのでしょう。
しかし、創建が春日大社よりも早いことを考えると、まったく違う信仰があった可能性もあります。そもそも社号が「春日」でないのですから。なんとも気になるところです。
「五社」については五社を合併した可能性が高いと思います。江戸時代初期に建てられた鳥居に「五社大明神」とあることから、明治政府の方針とは関係がありません。それよりずっと古くからあるということですね。
当社の実質的な開基は藤原為宗と資綱の兄弟でしょうか。父の朝宗と別の兄弟(宗村・為家)は伊達郡(福島県)に移り、先代伊達家の祖となりました。このあたりのお話は伊佐城のあった中舘観音でも伝えられています。
昭和52年(1977年) 本殿(市指定)
平成29年(2017年) 石鳥居(市指定)
アクセス
境内の西側から車両を入れられるようになっていますが、南側に駐車スペースがたっぷりあるのでそちらがオススメです。
名称 | 五所神社 |
住所 | 茨城県筑西市五所宮1-2 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
春爛漫。数本のソメイヨシノが見事に育って花びらを散らせていました。この日は本当に暖かくて夢心地の参拝です。境内には「桜まつり」の幟があったのですが、人の姿は見えず。この素敵な空間を独り占めしてよいものか。
正面の石鳥居は市指定文化財です。延宝2年(1674年)の建立といいますから、ちょうど350年が経っています。銘文によると江戸深川の石工職人によって建てられました。ちなみに筑西市最古の鳥居です。
火災によって多くの歴史や社宝を失ったものの石造だけは不変。ありがたしですね〜
社殿
桜吹雪の参道。素晴らしい光景です。前回来たのは7年前。ずいぶん久しぶりになってしまいました。拝殿の屋根が新しくなっていて驚きました。少々明るすぎる気もしますが、桜にはマッチします。
唐破風付きの立派な入母屋造。天気がいいので扉を開放していました。中には伐採されたご神木や記念写真などが置かれています。なかなか興味深い内容なのですが、人物が写っているのでここでは控えるとしましょう。
正面の扁額には赤文字で「郷社五所神社」。「郷社」は明治時代の社格制度で定められました(終戦により廃止)。一般的な神社が「村社」、その上にあるのが「郷社」です。非常に数が少なくて貴重なのですよ。
当社はかつて伊佐郷にある三十三郷の鎮守とされていたそう。じつはこの「三十三」は観音信仰と関係が深い数字。観音さまは三十三の姿で人に教えを施すともいわれます。もしかしたら当社にも観音信仰があったのかも。
ちなみに当社の別当だった満願寺(神護山 教王院)は下平塚(筑西市)の最勝寺の末寺です。最勝寺は天台宗ですから、当社も天台系の信仰が少なからず影響したのではないでしょうか。
市指定文化財の本殿です。大きい!
関係文書の紛失により詳細は不明。ただ、鳥居や石灯篭の奉納が延宝年間なので、社殿も同時期ではないかと考えられています。一間社流造りで質実剛健な印象。男千木で鰹木は五本。一般的ですね。
神紋は境内社も含めて左三つ巴でほぼ統一。人為的ではないようですが、所々欠けてしまっているところが見えます。背面の羽目板になにか彫刻らしきものがあったようなのがちょっと気になりました。
彫物で目立つのは水引虹梁の龍です。これは肉眼ではまず見えません。ミラーレスや一眼レフなどの望遠でやっと見ることが叶います。勇ましい表情でヒゲまでイキイキとしているではありませんか。
主に風景を撮るためですが、カメラ持ち歩いていてよかった〜!と思える瞬間です。寺社巡りする方はこうした感動に出会えるかもしれないので、常に望遠レンズを持ち歩くことをおすすめします!
民話『八竜神の雨乞い』
神社をおさらいしたので昔話をご紹介します。その前に簡単な補足を。登場する山崎村というのは神社のある五所宮のすぐ南にあった村。いまは筑西市山崎という住所だけ残っています。
江戸時代のお話です。五所の山崎村はこのあたりでゆびおりの豊かな村で、たくさんのおだいじん(お金持ち)がいました。しかし、ある年、雨がまったく降らずに田んぼや畑がカラカラに乾いてしまいました。村人たちは、なんども寄り合いましたが、天気だけはどうしようもありません。
すると、年寄りが言いました。「五所明神の北の沼には、八つの頭を持つ八竜神がむかしからすんでいるというぞ。なんとかしてくれるのはきっと神様だけだ。みんなでお願いしてみようじゃねえか。」村人たちはそろって五所明神にお参りしてから沼に行くことにしました。
沼では村人たちが太鼓を鳴らしながら「八竜神さま〜、なんとかしてくだせえ〜」と祈り続けました。沼の底で眠っていた八竜神は、いつもよりも熱心な太鼓の音で目を覚ますと「村人たちが相当困っているようだ。助けてやりたいが、この沼の水では足りないな。どうしたらいいものか。」竜神は少し考えた後、ひらめきました。そして、沼から一気に飛び出すと、そのまま南の空へ飛んでいきました。
八竜神の向かった先は、いまの下妻市のあたりにあった大宝沼。竜神は沼にたくさんの水があるのを見つけると、八つの頭を突っ込みました。そして、お腹いっぱいに水を飲み込むと、重たいお腹を抱えて再び村へ飛び出していきました。しかし、大宝沼の守り神、大宝八幡さまはそれを見逃しませんでした。「おれの沼の水をからっぽになるほど盗んでいくとは許せないやつ。」八幡さまは得意の>弓矢を構えると、八竜神めがけて一の矢を放ちました。矢は正確に飛んでいき、八竜神の片方の耳を削ぎ落としました。
八竜神は矢におどろき、痛みに耐えながら村を目指して飛び続けました。そして、やっと思いでたどり着き、倒れ込むように田畑の上に水を吐き出しました。滝のような雨で田畑がよみがえり、村人たちはとても喜びました。しかし、大宝八幡さまは、まだ竜神を許していませんでした。二の矢を放つと、今度は尻尾を削ぎ落としました。竜神も応戦しようとしましたが八幡さまには敵いません。やがて力尽きて空から落ちてしまいました。
村人たちは竜神が立ち直るのではと必死に看病しましたが、残念ながら竜神が生き返ることはありませんでした。そこで「おれたちの村を救ってくれた八龍神さまをおまつりしよう」と、神社を建てて八竜神を祀ることにしました。このようなことから、いまでもこの土地では耳取川、耳取橋、竜尾橋などの名前の川や橋があって、竜神のありがたさを語りついでいるそうです。
人々を救済するために尽力した八竜神が八幡神に誤解されて討たれるという悲劇です。あまりにも意味深な展開なので、その背景に何があるのか気になってしまいますよね。
当社の境内社には八幡神社がありますから、当地に八幡神を敵視するようなことはないと思います。ではなぜゆえ??
ゆかりの地はいくつか残っているようなので、それらを巡ったらなにかに気づくかもしれませんね。参拝に合わせてぜひ散策してみてください!
大宝沼は明治から大正時代にかけて干拓されていまは田んぼになっています
・五所神社は5つの神社、もしくはご祭神を祀る神社
・八竜は人々を助けようとしたが、誤解によって八幡さまに討たれた
いばらきのむかし話|編:藤田稔
茨城県の民話|編:日本児童文学者協会
茨城県の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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