wata
ふと思ったのですが、水の神は数々いれど火の神は少ないですね。パッと思い浮かぶのはヒノカグツチのみ。他にいましたっけ。
そういう意味ではヒノカグツチに対する信仰は特に篤くなりそうですね。愛宕神社とは秋葉神社に祀られることが多い神様です。
今回は常陸太田市の玉造に鎮座する愛宕神社を紹介します。火除(火災予防)のご神徳があるといわれ、立派な文化財を保持していますよ♪
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 社宝の文化財について
- 御朱印のいただき方
由緒
佐竹義篤の男、主計当所に居住し、愛宕大神を鎮祭
※久米町の常光院の境内にあったという説がある
水戸藩主徳川光圀公の命で現在地に遷座
将軍府より朱印地13石を賜る。他除地2石6斗8升余
ご祭神は軻遇突智命です。そう称したのはおそらく神仏が分離する明治以降、それ以前は愛宕権現でした。「権現」は仏の仮(権)の姿の意味で神仏習合の時代によく使われた尊称です。
『茨城県神社誌』の由緒に記載されていませんが、遷座前は市内の久米町にある常光院の境内にあったと伝えられます。これは常光院の由緒にあることで同院の寺号(愛宕寺)から考えれば理解できるところです。
しかし、それだと当社は永享12年(1440年)に創建した常光院より古いか同じ時代に創建したはずなので天文年間とする社伝と食い違います。じつは社伝よりも古くから信仰されていたりして。
なぜ遷されたかは不明ですが、光圀公の寺社改革の時代ですから、一村に一社の鎮守を設ける方針のもとに玉造村の村社とされたのではないでしょうか。神社は信仰に限らず結束の場としても重視されました。
また、当社の特徴として県指定の文化財が2点もあることが挙げられます。いずれも廃寺となった弥勒院から受け継いだ仏画です。同院は当社南の旧久米第二小学校の敷地にあったそうです。
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昭和30年(1955年) 絹本著色五大尊絵像(2幅)(県指定)
昭和44年(1969年) 絹本著色両界曼茶羅(県指定)
アクセス
最寄りのICは常磐道の日立南太田です。国道293号と県道167号を利用して北西へ。下りてから約20分ほどなので、あまり近くはありませんね。
専用の駐車場でないかもしれませんが、境内南の「玉造ふれあい広場」の立て札のある公園に5台停められます。
名称 | 愛宕神社 |
住所 | 茨城県常陸太田市玉造1423 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
玉造ふれあい広場の駐車場に停めてそのまま社殿に向かうとこちらの鳥居は見ること叶わず。立派な両部鳥居なのでぜひバックしてご覧ください。鳥居奥に見えるプレハブのある場所がふれあい広場です。
両部といえば両部神道とか両部曼荼羅などと使われるように真言宗と関係の深い言葉です。前述の弥勒院(明王三曼荼羅寺)も真言宗ですから、もしかしたら同院は当社の別当だったのかもしれませんね。
鳥居の先は一見すると車道ですが、じつは駐車場のそばに小さな神橋があったりします。本当に小さいので注意深くご覧ください。
愛宕山と社宝
社殿は愛宕山と呼ばれる小山の山頂に鎮座しています。こちらが入り口でして、よく見ると登山用と思われる小さな杖が置かれています。
山の高さは80mくらいなので厳しい登山ではありませんが、平地に比べたら格段に大変。
二の鳥居までは少し距離があり、それまでに文化財に指定されている社宝「五大尊絵像」と「絹本著色 両界曼荼羅」を保管している建物がありました。前述の廃寺となった弥勒院の寺宝ですね。
当然、完全防護なので拝観NG。しかし、わたし自身は常陸太田市の集中曝涼の際に梅津会館で展示されているのを見たことがあります。まず驚かされたのはその大きさ。険しい表情と燃え盛る炎は恐怖を覚えるほどでした。
集中曝涼のときは写真撮影が禁止されていたので全容をお伝えできないのですが、参考までに金剛夜叉明王の方だけご紹介します。こちらは茨城新聞が発行した『いばらきの文化財』に納められたものです。
展示は毎年ではないので、ご覧になりたい場合は集中曝涼前の10月上旬頃に市教育委員会のサイトなどで展示物を確認しましょう。
いばキラTVの番組でちょっとだけ映っていますね。集中曝涼のようすと合わせてご参考に。
ところで、境内の立て札には五大尊絵像について次のような説明がありました。
五大尊は、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王を指し、愛宕神社には軍荼利明王像と金剛夜叉明王像の二幅がある。いずれも赫赫とした火焔が広がり、右下に「泉涌寿暈尊」「泉涌寺」の墨書きがある。仁和四年(八八八)に仏門に帰依した、第五九代宇多天皇(寛平法皇)の御真筆と伝えられている。
泉涌寺は天皇家の菩提寺にあたります。神道の長ともいえる天皇が僧侶を中心に仏式の葬儀をされていたと初めて耳にしたときは驚愕でした。明治の神仏分離の際に神式に改められたので、今では知っている人は少ないかも。
もし、この画が宇多天皇の御真筆であれば国宝指定は間違いないでしょう。ここでは真贋よりも明王や曼荼羅を通じて天皇と弥勒院の結びつきを強調していることが重要かと思います。
曼荼羅の製作時期は鎌倉時代とされる。
二の鳥居と参道
やたら頑丈に足を補強された手水舎。古くなれば仕方ないところですね。ただ、ここ以外はいい感じでくたびれており、古社の雰囲気漂うステキな境内です。
こけむした石段。古くなり不安定化して頼りないのもまた歴史の一端。
二の鳥居も両部鳥居。そして色は赤。一の鳥居とほぼ同じです。赤い鳥居は珍しくありませんが、火の神を祀る神社だけにその性質を表しているようですね。
境内社:猿田神社
一の鳥居と二の鳥居の間、左手に見えたのは猿田神社。ご祭神はもちろん猿田彦命。神話では導きの神として大活躍していますよね。
庚申講の祠ではよく目にしますが、こうして社殿で祀られることは少ない神様ですね。知名度の割に扱いがいまいちなのは妻である天鈿女命と似ているところ。
猿田彦命は高い鼻や導く習性から、古い哲学である五行説において「土気」の象徴と捉えられます。土気の神にはさまざまな神徳が考えられ、特にその本性である「稼穡」、つまり種まきと収穫が期待されます。
ただ、その役割は同じく土気と見做されるお稲荷さまに向けられることが多いので、猿田彦命は少々影が薄くなっていたようです。ここではなんらかの理由で立場が見直されているのかもしれません。
猿田神社の裏側には細い通路があり、進んだ先には四体の石仏が並んでいました。一部は倒れていたり欠けているものもありましたが、状態は概ね良好である程度の判別が可能です。
地蔵菩薩と不動明王は分かるとして気になるのは上の二体。左は宝塔と三叉矛らしき持ち物なので、たぶん毘沙門天(多聞天)です。問題は右側。頭と腕が欠けているので分からない…
個性的な仏師がおられたようなので全容がわからずに残念。これが天部ならだいぶレアな作品だと思うのですが。もし判別できるようならぜひ教えて下さい!
拝殿
山頂に鎮座する社殿は極めて異質な趣。拝殿はまるで門のように奥行きがありません。
山頂は足場が少なくカメラを引いて撮影できませんので、このような見上げるアングルとなってしまいます。不安定になるにもかかわらず建立したのは山上に重要な意味があるとしてのことでしょう。
拝殿の側面には寄進者の札がびっしりと打ち付けられています。かなり読みにくくなっていますが、金銭のほかに五色布や三角布団が見えます。
三角布団とは扁額を掛ける際に額が傷まないようにとフックとの間に挟み込む三角形の厚手の布を指すのでしょう。些細と言っては失礼ですが、改めて挙げられることは珍しいと思います。
しかしながら、私見としては、三角形や布、赤色などは前述の五行説でいうところの「火気」にあたるため、火の神に対する供物としてふさわしいとされたのではないでしょうか。
扁額には神額のほかに火除祈願とも思える画がありました。火消しの手には纏が描かれていて時代を感じさせます。ちなみに奉納された昭和27年は当社が宗教法人化された年ですね。
本殿
本殿は立地のせいなのか全体的に傾いており、拝殿から伸びるロープによって支えられています。写真からもそのスリリングなようすが伝わりますね。
見るからに不安定でいつまでこの状態を維持できるか分からないので、気になる方はぜひお早めにご覧いただきたいところ。
羽目板の彫刻はおそらく三面ともに二十四孝です。虎に追われる父を助ける「楊香」、老いても幼いままの振る舞いで両親を安心させようとする「老莱子」、鹿の乳で親の病を直そうとする「剡子」です。
剡子は鹿と一緒にいるところを猟師に狙われる事態となったので人間であることをアピールしているシーンですね。いずれも説話でもっとも盛り上がる場面です。そして彫刻としては定番となっています。
神楽殿
拝殿の向かいにあるこちらの建物は神楽殿のようです。社殿の周囲はあまりスペースがありませんので参集殿も兼ねるのでしょう。中には長椅子と神輿、それに携行缶らしき赤いプラスチックが並べられておりました。
山上の狭いスペースに無理やり建てられていますから、神楽殿といっても格別な意図があるように思います。
かなり個性的な建物でして彫刻では中央の鳥やその左右にいるウサギが目に留まります。ウサギはけっこう怖い顔してます。子どもは泣いちゃうかも。
この二体は構図からすると獅子をベースに改変されたように思います。口元と構図はそのままなのではないでしょうか。
建物の天井にはびっしりと家紋が描かれていました。氏子の方々のもののようですが、こうして眺めてみると色々あるんですね。昭和期の記録によると氏子は45戸とのことです。
それにしても山に神社を建てるのは大変ですよね。愛宕神社としてはよくあることですけど。火の神と山にどんな関係があるのかといえば、まず浮かぶのはヒノカグツチの体から生まれた神がことごとく山神であることですね。
それに当社の神徳である「火伏せ」も山なくして成立しないように思います。火伏せとは要するに火の力を弱めることですが、手っ取り早いのは水を用いること。しかし、火の神に水の要素は一切ありませんから、水源たる山が大きな意味を持つように考えられるのです。
愛宕信仰を単なる火の神信仰とするのは無理がありますので、おそらく当て字であろう「愛宕」の由来や鎮座地の山が強く関係している違いありません。誠に奥深いことです。
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御朱印
玉造愛宕神社の御朱印です。参道沿いの宮司のお宅でいただけます。実際に参道を歩いてみればしめ縄のあるお家が目にとまるはずです。ご在宅ならいただけるでしょう。
・ご祭神は軻遇突智、創建は戦国時代とされるが、もっと古いかもしれない
・社宝の絵画は同地区にあって廃寺となった弥勒院が所蔵していた
・御朱印は参道沿いの宮司宅でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。