wata
- 島崎城と島崎氏について
- 城跡のようす
- 御城印のいただき方
2021年6月5日、潮来市の島崎城跡で御城印の頒布会が開かれました。
はじめて城跡に足を運びましたが、広大でよく造りを残しています。「守る会」の努力によって城や城主の島崎氏の紹介も充実しており大変楽しめました。
この記事ではそれらをざっくりとご紹介させていただきます。
島崎城とは
島崎城について境内の立て札から抜粋してご紹介します。
島崎城
島崎城は鎌倉時代初期常陸大掾氏の一族行方宗幹の第二子高幹が島崎氏を名のり、以来四百年間歴代の居城として、武威を誇った。
1591年(天正19年)佐竹義宣により17代城主島崎義幹(安定)が滅ぼされ島崎城は廃城となった。
潮来市教育委員会
築城は室町時代の応永年間(1394〜1426年)に十一代成幹によるともいわれます。
島崎城のポイントは3つです。
- 鹿行地域で最大
- 築城から廃城までその名の通り島崎氏の居城
- 鹿行地域の動乱期に島崎氏を支えた
この後ご紹介しますが、島崎氏は血族と熾烈な争いをしました。そこで生き抜けたのは強固な居城のおかげもあるかと思います。
廃城に関しては、いわゆる三十三館の仕置がありました。佐竹氏が鹿行地域の城主を太田城へ招き、ことごとく暗殺したという出来事です。褒美(領地)を与えるという名目で招かれたのは、鹿島、玉造、行方、手賀、島崎、烟田氏らでした。
これらは史実ですが、詳細は不明。それゆえ鹿行地域には民話としてさまざまな説が伝わっています。そもそも佐竹氏はなぜすでに支配下となっている城主を狙ったのか。しかもまとめて。
各城主に独立の意志が見られたためといわれますが、豊臣秀吉が天下統一した後なのでこの頃の下剋上は難しい。他にも理由があったと思うのですが。。
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島崎氏とは
島崎氏は前述の通り常陸大掾氏の一族の分家です。
常陸大掾氏の祖は平維幹とされており、その子孫に行方氏の祖・行方宗幹がいます。島崎氏は宗幹の次男・高幹が島崎に分封されて島崎を名乗ったことにはじまります。
- 為幹…行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となる
- 高幹…島崎に分封されて島崎氏となる
- 家幹…麻生に分封されて麻生氏となる
- 幹正…玉造に分封されて玉造氏となる
兄弟はみな行方地方で有力な城主となり行方四頭と呼ばれました。はじめは長男の為幹を行方氏の後継者(惣領)として兄弟が支えましたが、戦国時代に突入すると一族で争うようになります。
島崎氏の最期は天正19年。佐竹氏の策略により鹿行地方の有力者共々滅ぼされました(三十三館の仕置)。やがて城主を失った島崎城は佐竹氏に攻略されて廃城となります。
城跡でいただいたパンフレットにある出来事を年表にまとめると以下のようになります。
島崎氏については『嶋崎盛衰記』のほか『行方軍記』や『鹿島治乱記』などの軍記物に記されています。ただ、それらの信ぴょう性は分かりかねるので、ぜひ守る会のブログをご参照ください。
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アクセス
最寄りICは東関東自動車道の潮来ICです。下りてから約12分ほど。
道中、道路が細くなっている場所がありますが、さほど険しい道程ではありません。
城跡としては珍しく駐車場が完備です。15台停められる広さなので、イベントのときでなければ問題なく利用できます。
名称 | 島崎城跡 |
---|---|
住所 | 茨城県潮来市島須530 |
駐車場 | あり(15台) |
Webサイト | 島崎城跡を守る会 |
城跡入口
駐車場から城跡への入口には写真のような案内があります。
旗の下のあたりに見えるのは島崎城のパンフレット。驚くほど充実しています。このブログよりもずっと詳しい解説がありますので、ぜひ手にとってご覧ください。
城跡の案内は「島崎城跡を守る会」によって作られています。会の活動は活発でブログも充実。御城印に関する情報もありますので購読をオススメします♪
パンフレットは「守る会」の公式サイトからも見れます。(リンク:「島崎城跡登城案内パンフレット第2版」を作りました。)
城跡のようす
城跡は見学者のために丁寧な案内がされています。入口のパンフレットだけでもありがたいのに曲輪ごとに立て札が置かれています。
広大で高低差が激しく、侵略者側にしてみたら常に高所から攻撃される心配があったでしょうね。周辺は平地なので物見台から常に侵略者の動きを把握できそうです。
深い空堀で敵の侵入を防ぎ、限られた出入口で撃退。山林にありますので視界が悪く防御能力は高そう。とはいえ、籠城だと勝ち目がないので暗殺や諜報を防ぐために役立ったのでしょう。
御札神社
島崎城の本丸跡に建つ御札神社。かつて焼失し、その際に社伝等も失ってしまったそうです。
『茨城県神社誌』によると、当社は氏の第十三代島崎長国によって創建されました。長国は鹿島神宮を崇敬しており、そこでいただいた御札によって戦場では怪我をしたことがなかったのだとか。鹿島神の神徳に感謝して城内にその御札を祀ったのが御札神社のはじまりです。
というわけで、ご祭神は鹿島神宮と同じ武甕槌命です。
扁額には(たぶん)「明治39年」「出征軍へ」と書かれています。日露戦争は前年に終戦したので関東軍として大陸に渡った兵に対してでしょうか。ご祭神を考えると武運長久を祈願したと思います。
御札神社の社宝は室町・桃山時代の作といわれる古面五面。大癋見、抜頭、貴徳、翁、醜男の五種類です。
祭礼で使われたのでしょうか。正直、どれも見た目が不気味なのでどんな物語があるのか非常に気になります。。
境内社の八幡神社は誉田別命、天照大御神、宇迦之御魂命をご祭神としています。
島崎氏は平氏ですが、源氏の守護神があるのは。。島崎城が廃城になった後のことでしょうね。
御札神社の旧社格は村社。古面五面は茨城県の指定文化財です。
御城印
島崎城の御城印です。書き置きのみで価格は税込み330円です。
こちらは頒布会でいただいたものですが、ふだんは同市内のフラワーショップやまぐち(潮来市牛堀59)で購入できます。
店名からすると「守る会」の会長のお店でしょうか。イベントは案内などでお忙しかったと思いますので、お店だったら少しお話できそうですね。
販売元は「守る会」ですが、デザインと製作はLocal Activate(@Local Activate)です。書は代表の筆ですね。いつもながら達筆!
右下の絵は島崎氏で特に評価の高い十三代長国です。城内の御札神社のほかに市内の長国寺(曹洞宗)も創建していますよ♪
まとめ
この記事のまとめ
- 島崎氏は鹿行地域の大名。島崎城の築城された年代は定かでないが室町〜室町時代といわれる
- 城跡は広大。地勢を利用した強固な造り
- 御城印は同市内のフラワーショップやまぐちで購入できる
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。