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護国神社をご存知でしょうか。主に戦没者をお祀りする神社です。
例外がありますが全国に建立されており、茨城には茨城県護国神社があります。そして各地のすべての戦没者(英霊)をお祀りしているのが東京の靖国神社です。
この記事では茨城県護国神社を由緒や歴史を辿りながら紹介します。
護国神社は幕末から日清・日露戦争、支那事変、そして大東亜戦争(太平洋戦争)などで亡くなった方々をお祀りする特別な神社。国の方針によって建てられました。
ただ、それとは別に県民の意志でお祀りしていた歴史があります。順を追ってご説明します。
神社のはじまりは常磐神社の境内にあった鎮魂社です。幕末、新時代のために亡くなった水戸藩烈士(およそ1,800柱)と義のある他県の方を祀っていました。
明治10年(1877年)、官の許可を受けて社殿を造営。翌11年にはじめて合祀の祭典を行いました。
以降、昭和20年(終戦の年・1945年)まで靖国神社に祀られた茨城県出身のご祭神を逐次合祀をし、現在までに63,494柱を数えます。
常磐神社の境内から現在の場所に移ったのは昭和16年(1939年)。ご祭神(戦没者)が増えたため、社殿を造営し、独立の上、茨城県護国神社と改称しました。
アクセス
茨城県護国神社は水戸市の見川に鎮座しています。水戸駅からだと少し遠いのですが、偕楽園や常磐神社から徒歩でいける距離です。
駐車場も広いので初詣などでなければ問題なく駐車できるかと思います。
名称 | 茨城県護国神社 |
住所 | 茨城県水戸市見川1-2-1 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
鳥居・参道
一の鳥居です。車でお越しの場合、駐車場がこの鳥居の左側から坂(しあわせ坂)を上ったところにあるので、少し戻ることになります。
昭和16年にみかげ石で建てられました。高さ6m以上になります。
鳥居の前の立て札には次のようにありました。
当護国神社は我が国の永遠の平和と隆昌とを願いつつ、日本民族を守るため尊い生命を国のために捧げられた人々の御霊をお慰めしようとする、全県民の深い敬愛と尊崇の念が結集して昭和十六年十一月水戸桜山の現在地に創建されました。
桜山にあったことから昭和二十二年に桜山神社と改称したことがあります。重要な意味を持つ『護国』がなぜ単なる地名に変わったかというと、敗戦によって連合国軍から圧力を加えられたからです。
神道指令や神社の一宗教法人化などは有名ですが、靖国神社と全国の護国神社は祭祀の禁止や土地を譲渡されないといった特に厳しい措置でした。
さらに連合国軍は護国神社の廃止・解散させる準備をしていたので、改称によって圧力を避けようとしたんですね。
護国神社は県や市町村から寄進(寄付)を受けることも禁止されたので財政的にも困難だったそうですが。。朝鮮戦争の勃発によって状況が変わりました。
いまこうして護国神社があるのは偶然といえるかもしれません。
参道には日清戦争の戦勝記念碑や特攻隊の顕彰碑などが並びます。顕彰碑は平成30年とありましたので近年でも見直す動きがあるようです。
二の鳥居も昭和十六年製。高さは5mを少し超えるくらい。一の鳥居と同じく上の部分が反り返った明神鳥居です。
6月は境内のあじさいが見頃。鳥居前には御朱印の案内もあって参拝者を迎えているようです。
余談ですが、平成16年の社報を読むと、むかし神社の辺りは「お化け屋敷」とウワサされていたとか。。境内の薄暗さもあって怖い印象だったようです。
誤解されたままではいけないと、お花を植えたり清掃に力を入れて変わったそうです。
桜ノ宮とねがい桜
参道の左側には近年建立されたと思われる桜ノ宮があります。ご祭神は木花開耶姫です。
後ろにある古木はソメイヨシノ。ねがい桜といいます。
日本人と桜は切っても切れない関係。戦没者も桜を慈しみ、願いをかけたのでしょう。
茨城県護国神社の神紋は桜花。茨城県神社誌では「大和魂の象徴」と説明されています。
神紋は後ほどご紹介する御朱印にありますので、ぜひご覧ください。
茅の輪
お参りは6月29日。夏越の大祓の時期でした。大きな茅の輪をくぐる神事です。
ご存知のかたも多いかと思いますが、区切りの季節に穢を払うため輪っかを左→右→左とくぐります。
毎年6月と12月の末頃になると神社に設置されています。
なぜ年2回かというと大昔はいまの暦の1年を2年と数えていたからです。つまり昔の1年はいまの半年。わかりずらいかな?
神話の天皇がやたら長生きなのは昔のカウント方式だからなんです。
社殿
入母屋造りの拝殿。本殿は流造りです。鮮やかな柱ですよね。仏教の五色幕と同じ配色。おめでたいときに使われる色です。
はじめの由緒で護国神社のご祭神は靖国神社から合祀したと書きました。合祀は文字通り合わせて祀るのですが、合祀するとご祭神は二箇所で祀られることになります。
一人だったのに二人になるの?って思いますよね。そういうわけじゃないんですが、神社の歴史をたどると理解できるかもしれません。
神様とか信仰は神社のできる前からありました。神様は『どこか』にいると考えられ、それを『降ろす』ために依代とか祭壇ができ、やがて神社も造られるようになりました。
つまり、神様はいつも同じ場所にいないのです。この世のどこか、あるいはずっと世の中と一体化しています。
合祀は祀る場所を増やすことなので、ご祭神には影響しません。それは人から神となった場合も同じです。
とはいえ、こうした神社やお墓といった『かたち』は大切です。大切な存在はそれに相応しい場所に置くべきだと思います。それにかたちある方がわかりやすいですからね。
7月の『みたま祭り』は遺族会の行事です。英霊たちを顕彰して平和の尊さを伝えています。
この日は祭りの日ではありませんが、社殿周辺に黄色の提灯が整然と並べられ来るべき日を待っているようでした。
ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑
鳥居からまっすぐ社殿に向かうと目に止まらないのですが、しあわせ坂の途中にペリリュー島守備部隊の鎮魂碑があります。
ペリリュー島はパラオの一部。地図でご覧いただければわかりますが、非常に小さく日本よりもフィリピンやパプアニューギニアの近くに位置しています。
終戦の前年である昭和19年、太平洋の重要な拠点であるペリリュー島で水戸歩兵第2連隊が守備にあたり玉砕しました。
1万の兵で4万の米軍を迎えたのですから、戦う前から結果はわかっていたのでしょう。連隊長の中川州男大佐は全島民をパラオ本島に避難させて日本軍だけで戦いました。
連隊は上陸した米軍に70日以上抵抗しましたが、11月24日に中川大佐が「サクラ サクラ」の決別電報を打電して自決。残った兵はゲリラ戦に転じて散っていきました。
2019年、ペリリュー島で戦った水戸市出身の兵の遺品(日章旗)が水戸市に寄贈されました。こうした歴史は忘れてしまうよりも未来のために思い出せるようにした方がよいと思います。
御朱印
茨城県護国神社の御朱印です。
社殿のすぐ左の授与所ではなく、参道左側にある大きな建物(参集殿)でいただけます。。達筆ですね!
令和2年(2020年)のお正月限定(元旦〜5日)で頒布されたのが桜ノ宮の御朱印です。いまでは通常御朱印としていただけます。
護国神社と桜は大変深い関係がありますから限定とはいえ人々に知っていただく機会となり嬉しいですね。
令和3年には西ノ内和紙を用いた御朱印が限定100枚で頒布されました。今後も年始の御朱印には注目です!
常磐神社境内で維新のために亡くなった人々を慰霊
国の方針により各県に護国神社が置かれたため改称
常磐神社の境内を離れ、神社独立に伴い改称
連合国軍による干渉を避けるため地名に改称
日本独立により本来の名称へ改称
・茨城県護国神社は桜山とも呼ばれる水戸市の見川に鎮座
・茨城県出身者や縁のある戦没者をお祀りする神社で、これまで63,000を超えるご祭神を合祀
・境内には鎮魂碑や顕彰碑が並び、先人への感謝や平和の大切さを伝えている
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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