【式内社】藤井町の藤内神社|水戸市

この記事でわかること
  • 由緒と御祭神
  • フツヌシと蛇の関係
  • 御朱印のいただき方

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

蛇を好きな人は珍しいかと思います。嫌いじゃなくても実際に見たら慌てますよね。噛まれたら大変ですし。

中世までさかのぼっても欲望の権化として邪悪視されていることが多いようです。それでは古代なら?じつは最上級に神聖視されていたりするんですよね。縄文土器にも蛇の造型があって他の動物とは一線を画しています。

そんな蛇に対する信仰を思わせるのが水戸市の藤内ふじうち神社です。常陸国の式内社としても知られる非常に歴史のある神社です。

藤内神社とは

藤内神社

藤内神社

由緒

養老5年/721年
創建
当社の遥か西方にそびえる朝望山は磐筒男、磐筒女の神の御子経津主命の神山と伝う。養老五年四月十二日の暁、朝望の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまった。人々驚き恐れ、謹んで同年6月15日社殿を竣功させ鎮斎した(祝詞)。
茨城県神社庁
仁和元年/885年
官社列格
5月22日に官社に列する。延喜式内小社、常陸二十八社のひとつに数えられる
康平5年/1052年
祈願
源義家(八幡太郎)、奥羽征伐の進軍の途中に戌亥の峰に十万の兵を集めて戦勝祈願。
社前の藤の枝を申し受けて鞭としてさらに進軍。
※兵を集めた場所を十万原という
大永年間/1521-1528年
社殿焼失
火災により社殿焼失
寛永5年/1628年
社殿再建
宍戸城主・秋田河内守により社殿再建 ※棟札による
元禄年間/1688-1704年
社殿改築
水戸藩主・徳川光圀の命により社殿改築
※光圀の隠居前であれば1690年までに改築
寛政8年/1796年
裁許状を授かる
寛政12年/1800年
夏越の大祓がはじまる
当時四方に伝染病が猛烈に蔓延し、氏子が非常に苦しんだので、茅輪を作りこの神事を行ったところ御神威を発揮し氏子の病難を消除されたという。
※当社由緒書による
弘化5年/1848年
裁許状を授かる
明治5年/1872年
村社列格
明治6年/1873年
寄進
徳川昭武、良弓一張を寄進
明治41年/1908年
供進指定
明治27年/1952年
宗教法人設立
大正14年/1925年
一の鳥居建立
昭和51年/1976年
二の鳥居建立
平成19年/2007年
社碑建立

ご祭神は経津主ふつぬしです。神話では武甕槌命と行動を共にすることが多く、香取神社のご祭神として知られています。同社の本営は香取神宮(千葉県)で武甕槌命を祀る鹿島神宮(鹿嶋市)とはご近所さん。

当社の由緒で興味深いのはなんといっても朝房山あさぼうやまの存在。この山は『常陸国風土記』の那賀郡の条にある晡時臥山くれふしのやまに比定され、いわゆる蛇神伝説が記されています。詳細は後述するとして古代の蛇信仰をうかがえる内容です。

ご神木が藤であることや夏越の大祓(通称:わくぐり祭)を重儀として大切にしていることも蛇信仰に通じるように思います。式内社に比定されることも含めて非常に歴史ある神社で間違いありません。

かつては「藤内大明神」と尊称。神職が42人、正保年間(1644-1648年)でも15人いたと言いますから、かなり立派な神社だったのでしょう。

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経津主命は『古事記』になく、『日本書紀』に記載されています。『常陸国風土記』の「普都大神」は経津主命と同神と考えられていますよ!

アクセス

常磐道の水戸北IC(を下りてから約5分。国道123号を北に進み、藤井川を渡った先の交差点を左折。すると左手の方に社殿が見えてくると思います。

駐車スペースはおそらく社殿のとなりのみ。数台であれば停められます。

名称 藤内神社
住所 茨城県水戸市藤井町874
駐車場 あり
Webサイト 茨城県神社庁

鳥居

一の鳥居

一の鳥居

いざ参拝。この日は新型コロナの影響で3年ぶりの例祭でした。昼間は学生さんや子どもたちが縁日を楽しみ、夜は藤井町で初めての花火の打ち上げがされました。

花火大会のチラシ

花火大会のチラシ

『水戸経済新聞』によると、花火の打ち上げには町内の全世帯が寄付に応じたとか。素晴らしいことです。(参考記事:水戸で夏越祭と花火打ち上げ 台風19号被害から3年、「みんなで上げる花火」

なお、鳥居の前に若干のスペースがありますが、ここに駐車するのは難しいので社殿側に停めたほうがいいでしょう。正面から参拝しようとするとずいぶん回り込むことになります。

参道

参道

参道

しっかりと舗装された参道。100mほどあって長めに感じますが、御神木の位置など考えるとかつての境内は広大だったことでしょう。

『茨城県神社誌』によると、氏子140戸に対して崇敬者1000人。この地を離れても信仰している方がかなりいらっしゃるようです。

子供向けの縁日

子供向けの縁日

スーパーボールすくい

スーパーボールすくい

わたしの参拝はお昼前。お祭りは午後からでした。境内は準備万端で子どもたちが待ちかねている様子でした。夏休みとはいえそう簡単にお出かけする雰囲気なかったですからねえ。

社殿と夏越の大祓

拝殿

拝殿

催事用に開放された拝殿。ふだんの閑静な境内とは打って変わって活気を感じます。

それにしても面白い形のしめ縄ですね。2つのしめ縄を中央で結び、各縄の左右に輪ができています。2つのささら(小さく藁を束ねたもの)もとても印象的。どんな意味があるのでしょう。

拝殿の神輿

拝殿の神輿

当社の夏越の大祓は拝殿内で行われます。高橋市長のブログからそのとき様子がうかがえますよ。(参考記事:藤内神社創建1300年祭・夏越祭

夏越の祓といえば、一般的には6月中旬から末にかけて行われます。しかし当社の場合は古式に則り旧暦の6月末を目安に催しており、2022年は7月31日となりました。

茅の輪をくぐる行事は一般的には季節の区切りにケガレを祓う行事とされ、『法性寺関白記』などの史料から12世紀頃にはあったといわれます。また茅の輪は牛頭天王の「蘇民将来」の伝説でも知られています。

ただ。。茅の輪の捉え方は地域差があるような気がします。わたしが神社検定の受験で使用したテキスト『神社のいろは用語集 祭祀編』には次のようにあります。

鹿島神宮の大宮司の宅で行われる名越の茅の輪行事は、室町時代の「鹿島宮年中行事」に見えている。

先、現座ノ祓有リ。上二茅ヲ以、七尺竜虵ノ形ヲ作リ、同一尺二寸剣作リ、ソノ剣、大宮司所持シテ、東向立テ地虵形ノ輪ヲ左ノ足ヨリ越始、三度越。
役人、虵形ノ鉢、大宮司烏帽子ノ上ヨリ打越、云々

つまり、鹿島でも、大宮司の頭越しに、網状の茅の輪が打ち越されるわけである。そして、その茅の輪がここでは「竜虵(蛇)ノ形」と意識されている。茅の輪は「蛇」の形象なのである。
神社のいろは用語集 祭祀編

当社のご祭神である経津主命は鹿島神宮の武甕槌命と同一とする説があるくらいですから、経津主命と蛇の関係もたいへん気になるところ。

藤内神社の夏越の大祓は200年ほど前の寛政期からで神社の歴史としては極端に古いわけではありません。それがなぜ始まったのかはもしかすると鹿島神宮にみえる信仰に影響を受けたのかもしれませんね。

本殿

本殿

本殿は以外にも女千木、しかし鰹木は一本という珍しいスタイル。香取神宮とは異なります。神紋は巴で鹿島神宮と同じです。とはいえ神社で一般的に用いられる神紋ですね。

常陸国風土記の晡時臥山伝説

藤内神社は朝房山から降ってきた霊光を祀ることではじまりました。朝房山は常陸国風土記の晡時臥山と同一であるとされますので、同記にどのように記されているか確認しておきましょう。

なお、以下の引用の内容は講談社学術文庫の『常陸国風土記(全訳注:秋本吉徳)』とほぼ同一です。

茨城の里の北にある高い丘に晡時臥山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗咩の元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗咩も神の子ではないかと驚き、清めた坏に蛇を入れ祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗咩は蛇に自分では養いきれないので父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗咩がここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗咩が盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている。
晡時臥山/Wikipedia

朝房山に蛇神伝説があり、当社のご祭神はそれと関係が深いと考えられます。さらに前述のように神事も蛇に関係するかもしれないというわけです。

この伝説は『日本書紀』にある三輪山伝説との類似点がいくつも見られます。大物主が人間の姿で倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめ命のもとに現れたというお話ですね。

晡時臥山伝説は経津主命や武甕槌命の神格にも密接に結びついているかもしれません。水戸商工会議所のサイトに次のようにあります。

 鹿島の神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓むことができます。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓むことができます。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられます。
古代那珂国の守護神

わたしは「チ」を「蛇」ではなく、「霊」の意味で捉えていますが、それ以外は同意見です。甕や瓷に宿る霊威がタケミカヅチやフツヌシであって、それは蛇(蛇神)以外に考えられません。ヘツヌシからフツヌシへの転訛はさほど難しくない子音交替ではないでしょうか。

また、『新撰姓氏録』に上毛野氏の先祖として努賀君が記されていることから、努賀毗古と努賀毗咩、あるいはその先祖は現在の栃木県の辺りからやってきたのかもしれません。

それに上毛野氏の先祖をさらに遡れば崇神天皇の子の豊城入彦とよきいりひこです。崇神天皇こそ大物主を祀ることでまん延する疫病を鎮めた偉大なる天皇。その子孫が三輪山を信仰するのは自然なことです。

那珂川は栃木と茨城をつなぐように流れており、川沿いには大国主(大巳貴命)や少彦名命を祀る神社が少なくありません。式内社の大洗磯前神社や阿波山上神社などはその代表といえるでしょう。その地域が三輪山信仰に親しいのは氏族の移動と関係しているのではないでしょうか。

御神木の藤

御神木の藤と神池

御神木の藤と神池

当社を参拝した際にぜひチェックしておきたいのが御神木のです。参道や社殿の辺りを探しても見つかりません。境内の西側道路の向かい側にあります。

とはいってもこれを見て藤と思える人は少ないはず。大木はケヤキでそれに巻き付いているのが藤です。周囲には小さな池があり、藤の池に由来して藤井の地名がついたといわれています。

藤は当社の由緒によれば八幡太郎(源義家)が社前の藤を鞭にして進軍していったとか。藤には不思議な力があると考えられていたのでしょう。

さて、藤と言えば花に目が行きがちですが、蔓性の植物であることも忘れてはいけません。その性質は易と五行を仲介して蛇と結びついていきます。

易・五行は中国の古代哲学であり、6世紀頃に日本に渡ったといわれます。その影響は聖徳太子の冠位十二階にも見られ、8世紀に成立した記紀や風土記も例外ではありません。

要するにほとんどの伝説や昔話にも少なからず影響しているため、易・五行を知っていれば読み解ける部分があるということです。

話は戻って藤について。蔓は曲がりくねりながら成長します。その性質は「曲直」といい、五行説における木気の本性です。木気は易の八卦における「震」と「巽」の卦に配当され、そのうち「巽」は辰巳、つまり龍と蛇に解せます。藤=竜蛇です。

  1. 朝房山の「蛇神伝説」
  2. 竜蛇を模すといわれる「茅の輪」
  3. 巽(竜蛇)の造型ともいえる「藤」

これらは同じ思想に基づいているといえます。はるか古代にはじまる信仰が脈々と継がれているようですね。

御朱印

藤内神社の御朱印

藤内神社の御朱印

藤内神社の御朱印です。境内に隣接する宮司宅でいただけます。

伺う際にはお電話してからがよいでしょう。番号は県神社庁のサイトをご覧ください。

まとめ

この記事のまとめ

  • ご祭神は経津主命。朝房山から降ってきたといわれる
  • 由緒、茅の輪、藤など古代の蛇信仰を思わせる
  • 御朱印は宮司宅でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社

この記事で紹介した本はこちら

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