【高浜】民話「爪かき如来」と阿弥陀堂|石岡市【親鸞】

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

浄土真宗の開祖とされる親鸞しんらんは常陸国(現在の茨城県)で20年ほど布教しました。そのため拠点となった稲田の草庵(笠間市)周辺にはいくつもの伝説が残っています。

そんな親鸞は常陸国の一宮である鹿島神宮に参詣したと伝わり、その道中でいくつかの出来事があったというのです。その真実性はともかくとして、かなりミステリアスなせいか県民なら一度は耳にしたことがあるはず。

今回はそんな親鸞伝説のひとつであるつめかき如来」をご紹介します。舞台は現在の石岡市。ゆかりの阿弥陀堂は今なお残っておりますので、ぜひ足を運んでみてくださいね。

この記事でわかること

  • 民話「爪かき如来」について
  • 「西の観音」こと西光寺について
  • 謎の「小麦の焼いたもの」
爪かき阿弥陀堂

早速、民話として伝わる「爪かき如来」をご紹介しましょう。親鸞のいた鎌倉時代初期、高浜では次のような出来事があったといいます。

 親鸞は、 一二〇七年浄土宗の法難にあたり、法然らとともに罪に問われ、越後の国府に流された。のちに許され、常陸の国を二十余年間各地に布教し、多くの門弟ができた。

 この間、聖人は、稲田の庵をでて鹿島神社参拝にゆく途中、この里にかかると、はれもので苦しんでいる男がいた。慈悲心のある聖人は気の毒に思って「その苦痛を治して進ぜる」といったが、男は、頑固な性質で「放っておけ、俺は、天命を待つばかりだ。汝のごときにこの苦痛をなおせる手段があるはずはない」と、最初は聞き入れない。

 ききわけのない、しようがない奴だと思いながらも、聖人は、静かに念仏を唱えながら、その男の身体をなではじめた。

 すると、苦痛はたちまち去って、はれものは不思議にもへこんでしまった。男は、驚いて心から聖人にわび、小麦の焼いたものを出して聖人にすすめた。

 やがて、聖人は、西浦から船に乗って行くのであるが、浦の岸辺まで送って来た男は「聖人さまのおかげで、現在の苦悩はなおりましたが、この上は未来の苦悩もしりぞけて下さい」と、衣の袖にすがって懇願した。

 聖人は「極楽往生は、他事なし。念仏を唱えることだ。汝の家の庭にある石には、阿弥陀如来が宿っているから、今後はそれを信心するがよい」と、いい捨てて船に乗ってしまった。

 彼が家に帰ってみると、庭石には如来の尊像が浮彫りのように、あらわれているので、彼はここに一堂を建立して祭り、自ら「常願房」と称して聖人に弟子入りしたというのである。

 これが「爪描き如来」であって聖人の爪で描いた如来だと伝承され、はれものを病む者は、この像に小麦の焼いたものを供えると、聖人の霊験が働いてなおるという風習が最近まで続いた。

 聖人の慈悲心にすっかり感心し、聖人の教えどおりにして、自ら常願房と名乗った男は、鎌倉の武士、筑後入道尊念という者の一族で、年代は承久としてあるが、この寺の縁起を寛政十二年に書いた光伝は、西光寺を再興した僧である。

石岡市の昔ばなし P042-43

西光寺は高浜台地の南縁にありましたが、廃寺となったため現在はありません。しかし阿弥陀堂だけは「爪かき如来」とともに現存し、誰もがお参りできるようになっているのです。

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上記の由来は昭和54年(1979年)に発行された『石岡市の昔ばなし』から引用しました。同じお話が昭和60年の堂宇の修理の際に古い巻物で発見されたそうです。

アクセス

名称爪かき阿弥陀堂
住所茨城県石岡市高浜839
駐車場なし
Webサイト石岡市(公式)

境内入口

境内入口の石柱
境内入口の石柱

爪かき如来があるのは石岡市高浜です。高浜駅から東へ数百メートル進んだ道路沿いにあり、比較的参拝がしやすい場所といえるでしょう。

建物前に駐車スペースがあるものの停めてよいのか微妙なところ。わたしのように高浜駅の有料駐車場に停めてトコトコ歩くのもいいですよ。道中には立派な茅葺屋根の高浜神社もあるのであわせてお参りできます。

ちなみに高浜は霞ヶ浦に面した場所です。古くは港のある交通の要所であり、国府方面から多くの人々が鹿島神宮に参拝したといわれています。九州や畿内などの西国の舟を迎えたのでかなり賑わったに違いありません。

そう考えると親鸞が高浜を訪れたというのも説得力がありますよね。一方で鉾田方面にも伝説を残していますから、本当はどっちの経路なんだろうという気になるのですが。

本堂(外観)

爪かき阿弥陀堂
爪かき阿弥陀堂

(阿弥陀)如来があるのは阿弥陀堂。一見すると素朴な建物ですが、よく見れば意外にしっかりした彫刻がありました。

双頭龍の彫刻
双頭龍の彫刻

正面の龍は独特の位置なのでもしかしたら違う建物にあったものかもしれません。二匹の龍というより双頭の龍として彫られたようです。たまに見かけますね。

手挟は牡丹は分かるのですが、鳥はなんでしょうか。頭が丸くて大きな特徴がないところを見ると鳩?ちょっとのんびりした印象ですね。

木鼻
木鼻

獅子は柱ごとに取り付ける豪勢な振る舞い。素朴な建物に対して装飾はかなり力を入れたと思います。

本尊

本堂内
本堂内

堂内の厨子は他にないスタイル。仏像を安置する場所が筒抜けになっていて、後方の巨大な石があるのです。この石に親鸞が描いたという阿弥陀如来があるのでしょう。ただしわたしの目では厳しい!

写真の左上にある提灯にあるのは「西光寺」。西光寺は高龍山福聚院と称し、天台宗に属していたといいます。

そしてじつはこちらの建物は阿弥陀堂ではなくて観音堂。西光寺の本尊を安置するため寛政7年(1795年)に建てられたそうです。(修繕は何度かしている)

本尊の千手観音
本尊の千手観音

そのため堂内には西光寺の本尊と思われる千手観音像も安置されていました。正確には十一面千手観音でしょう。爪かき如来も本尊格ですが、どちらかといえばこちらが重視されていたのではないでしょうか。

光伝の供養塔(阿弥陀堂隣)
光伝の供養塔(阿弥陀堂隣)

ところで、前述の民話の本には続きがあって、寺伝を残した光伝について次のように補足しています。

 彼の父は、高浜村の豪族、今泉道義。母は新治郡片野の城主、 大田三楽の女である。光伝は、この「爪描き如来」を信仰し一向宗に帰依して堂宇を建立したが、現在の「西の観音」 は、その跡である。

 西光寺の壇家は、ほとんどないが、この寺は、今泉家の内寺として明治初年まで同家の浄財によって、修理保存されていたそうである。

石岡市の昔ばなし P043-44

西光寺について、民話では一向宗(浄土真宗)、史実ベースでは天台宗という違いがあるのはちょっと気になるものの、光伝が親鸞伝説を大切にしたのは事実ですから宗派の違いはさほど気にしなくてもよいのではと思います。

ただ、浄土真宗であればご本尊は基本的に阿弥陀如来一択なので、千手観音が本尊であるとするならば天台宗と捉えるのが妥当かと思います。

それよりも個人的には「小麦の焼いたもの」が気になります。洋食ならパンとかケーキが思い浮かぶのですが、和食となるとピンときません。お煎餅?まさかお好み焼きじゃないでしょうし。

wata

光伝に子孫がいたなら何か知っているかもしれませんね。お煎餅焼いていたら面白いなと思います。

ある仏像

堂内の端に安置された謎の像。仏尊のようですが、頭に鳥居、手前に神鏡らしきものが見えます。判別できないのでXでコメントを求めたら観音像や弁天ではないかと教えていただきました。

かなり珍しいと思いますので、もしご存じの方いたら教えてくださいね。それでいつか地元の方にも聞いて答え合わせしてみたいです。

フォトギャラリー

まとめ

・爪かき如来は親鸞が石に爪で描いたとされる阿弥陀如来像

・爪かき如来は石岡市高浜の阿弥陀堂にあり、かつては西光寺の一部だった

・如来にそなえたという「小麦の焼いたもの」がある

参考文献

石岡市の昔ばなし|仲田安夫