wata
神社巡りをされている方なら熊野神社や熊野信仰について耳にしたことはあるでしょう。しかしそれを説明せよとなると難しい。わたしもそうです。
茨城県内に多くの熊野神社がいくつもあることは確かなのですが、詳細となると本当によく分かりません。御朱印を出しているところも稀ですから、ネット上でもほとんど言及されません。
しかし記録がないからといって各地域の歴史と無縁ということはありません。今回は桜川市の酒寄熊野神社をご紹介するので、どういう神社かあれこれ考えながら参拝するきっかになればと思います。
この記事でわかること
- できる限りの由緒
- 神社としては珍しい社殿について
- 最勝王寺(東山田)と薬王院(椎尾)の関係
由緒
江戸時代といわれるが詳らかでない。
徳川将府から八石の朱章を賜る
ご祭神は伊弉冉命です。熊野三山をはじめ、熊野神=イザナミではないので、地元の方々がどう捉えていたかは興味があります。民俗学的に山の神は女性、特に母親とされることが多いことも関係するのでしょうか。
熊野信仰は非常に複雑なのでわたしには説明できないのですが、茨城県内のほぼどの地域にもあったことは間違いありません。それは『茨城県神社誌』で熊野神社が点在していることからも確認できます。
ところが、上記の由緒の通り歴史となるとまるで分かっていないのです。これは社寺における宮司や住職のような中心人物が記録を残していないためです。意図的にそうしているとわたしは思います。
酒寄の熊野信仰についてはかなり古くからあります。弘安2年(1279年)の常陸国作田惣勘文案と呼ばれる税書文書には、「酒依三十丁五段大 熊野保」とあって国衙が納物を酒寄から熊野三山へあてたとうかがえます。
同様の記録は応永期にも見られるので、酒寄と熊野の関係は決して短くはないのです。もちろん当時の信仰や建物がそのまま残っているとは考えられませんが、ほぼ不明というのも不思議です。
物証がない以上は熊野信仰について調べるのは困難を極めるのですが、周辺の土地や寺社の知識があれば多少は実態に近づけるかもしれませんね。建物を巡る際には頭の片隅に置いておきたいところです。
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アクセス
神社専用の駐車場といってよいか分かりませんが、鳥居の前に若干の駐車スペースがあります。通りに停めてしまうと危ないので少し入ったところがよいかと思います。車以外で行くのは大変ですね。
名称 | (酒寄)熊野神社 |
住所 | 茨城県桜川市酒寄1756 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居と月待塔
境内への入口がこちら。鳥居の先は参道というか山道。山岳信仰の代表ともいえる熊野神社らしさがあっていいですね。手前には近隣の方々が参加していたであろう月待講の石碑が並んでいます。
左の二つは二十三夜講、右は十九夜講の紀念碑です。二十三夜は神道系なら月読尊、仏教なら勢至菩薩を本尊にしています。十九夜の場合は如意輪観音が本尊と見て間違いないでしょう。種字(梵字)もそのとおりです。
同じ月待ちなのに石碑が二つあるのはなぜ?と思いますよね。二十三夜は男性、十九夜は女性だけに限られることが多いので集まっている方々に違いがあったのかもしれません。
それでは改めまして境内をご案内。明神式の鳥居の鳥居の左手にあるのは枝垂れ桜でしょうか。その奥にあるのは忠魂碑です。
酒寄観音と不動尊
石段を少し上れば左手に小さな社殿が見えてきました。切妻の素朴な建物には扁額が掲げられており、そこに書かれていたのは「酒寄観音」。聖観音がお祀りされていました。
真壁郡新坂東三十三ヶ所観音霊場の二十三番に数えられているそうです。日本最古の霊場巡りといわれる坂東三十三観音に習っているのですね。ただ、現在は霊場としては活動されていないようです。
酒寄観音から少し登ったところにあるのは不動堂。社殿の扉が開放されていたので中を見たところ。。中にお不動は安置されていませんでした。別のところにあるのでしょうか。
いつの時代に建てられたかは不明ですが、密教で本尊格とされる不動明王があるということは天台宗か真言宗の影響なのでしょう。後に紹介する半鐘の銘から天台の最勝王寺(東山田)か薬王院(椎尾)が考えられます。
本殿
石段を登った先の正面にあるのが本殿です。といってもこれを見て神社というのは若干の違和感があるはず。寺社巡りをしている方ほどそうでしょう。
神社の本殿の大抵は屋根が前後に伸びる流造か神明造です。拝殿であれば入母屋造か切妻が多いのですが、やはり前後です。こちらは入母屋造りではあるのですが、屋根は左右に伸びています。
また、軒下には小型の鐘、つまり半鐘が提げられています。これを見るのはほぼお寺に限定されるかと思います。
そうした独特の建物である理由は『真壁町の社寺 装飾彫刻』にある次のとおりです。
もとは朱印地八石を領する熊野山千手院能仁寺と称したが、明治初期の神仏分離令により廃絶し、近在の七社を合祀して熊野神社となった。
真壁町の社寺 装飾彫刻 P44
そもそもこの建物は神社ではありませんでした。しかし、お寺かといえばそれも違う。お祀りしているのは「熊野権現」であってそれ以外の何物でもありません。
半鐘の銘によれば正徳三年(1713年)の鋳造なので、おそらく建物も同時期です。銘には最勝王寺の住職尊孝の名前が見え、尊孝は薬王院の学頭でもあったので能仁寺は有力な天台寺院の支配下にあったのでしょう。
ちなみに尊孝は先代の本孝(信州善光寺に栄転して再興)とともに薬王院の三重塔(県指定文化財)を再建した人物です。三重塔にも立派な彫物があって造営時期も近いですから、兄弟のような関係ですね。
水引虹梁にはあらぶる龍。彫刻はどれも目をむき出していてちょっと怖い。
手挟にあるのは牡丹と菊かと思います。丸彫りされているので、どの角度から見てもそれと分かるようになっています。これが最大の見所でしょうか。
奉納されている扁額や絵馬は薄れてしまってまったく見えません。でも旧真壁町の歴史民俗資料館が『真壁町の絵馬』としてまとめているので、興味のある方はそちらをご覧ください。
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・江戸時代の創建といわれるが、もっと古い可能性が高い
・能仁寺の建物を社殿として利用している
・能仁寺は天台寺院の最勝王寺と薬王院の影響下にあったと思われる
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。