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- 由緒およびご祭神について
- 式内社の可能性
- 御朱印のいただき型
この記事では石岡市の足尾神社をご紹介します。足尾山の山頂に鎮座するので参拝がちょっと大変。でも、それだけの価値ある神社ということをお伝えしますよ!
足尾神社とは
由緒
※これにより足尾山と改称したと伝わる。
ご祭神は国常立尊、面足尊、惶根尊の三柱です。そして明治に愛宕神社を合祀したことから軻遇突智命を配祀しています。
主祭神はいわゆる神世七代。国常立尊は『日本書紀』の初めの神。国土を創生したと考えられています。面足命と惶根命は伊弉諾・伊邪那美の前に誕生した夫婦神で、面(顔)や足の字から察するに人間の体を司るのでしょう。
とはいえ、初めからそれらを祀っていたかは明らかでなく、ご祭神を「足尾権現」などと呼んだ時代の方が長いです。神格は現在のご祭神にこだわらず色々考えてみるのが面白いと思いますよ。
また、常陸国風土記の新治郡の項に当地のことが触れられています。それによると葦穂山には山賊の油置売命がいました。
名前からすると女性。単独でいたとは考えにくいのでボス的な存在なのでしょう。「命」は尊い存在に付けますし、しかも女性となると力づくで統率しているわけでもないような。。なんとも神秘的。
由緒で特筆すべきはやはり醍醐天皇の足を完治させたこと。それを機に葦穂山から足尾山と改称し、足にご利益がある聖地とされています。
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明治の神仏分離以前、足尾神社は足尾山麓の大岩寺によって管理されていました。
アクセス
本宮は山頂です。里宮(茨城県石岡市小屋387番地)から車で約20分(10km)。
山頂付近まで道路があるものの問題はその狭さ。基本的には車一台分の車幅なので対向車とのすれ違いは恐ろしいものがあります。
特に神社の近くがハンググライダーの離陸場所となっておりまして、人や物資を乗せたスクールの車両(エアパークCOO)が頻繁に山を往復しています。
月曜日だったらお休みかな?ともかく安全運転でお進み下さい。近頃は自転車もたくさん走っていますのでご注意を。
名称 | 足尾神社 |
---|---|
住所 | 茨城県石岡市足尾山1 |
駐車場 | なし |
Webサイト | 公式サイト |
鳥居
山頂付近、パラグライダーの離陸場を少し進めば冒頭の写真の社号標が見えてきます。
そこから先は舗装されておりますのでちょっと歩きやすい。右左にウネウネ歩いていくと鳥居です。鳥居から境内が一望できるのであまり広くないことがわかるかと思います。
鳥居をくぐるとすぐ右手に履物がまとめられています。健脚や足の病の治癒を祈願する方々が奉納したようですね。所見だとちょっとびっくりしますが、静神社の境内社・手接足尾神社でも同じ光景を見ておりましたので足尾神社ではお馴染みです。
社殿
切妻屋根のシンプルな社殿。色合いを見てもわかるように平成27年(2015年)に再建された新しい社殿です。
社殿の両脇には天狗の彫刻が見えます。これがどんな天狗なのかはわかりませんが、民話レベルでは当山に「天狗権現」がいたと伝えられています。(一応、茨城県神社誌にも記載)
文治(1185-1190)の頃に常陸坊海尊が当山に300日ほどこもって修行した結果、特別な呪法を習得して以来、当山で修験が盛んになり特殊な力を持った天狗も現れたとか。
天狗は霊場を守護する存在で穢れた者が足を踏み入れようとするなら、それを小天狗を引き連れて排斥したそうです。詳しくは筑波書林の『常陸国天狗譚』(著:岡村青)をご覧ください。
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奥の院
社殿に参拝したならもうひと頑張りして奥の院に進んでみてはいかがでしょう。足尾山は決して高い山ではありませんが、晴れた日には格別の景色がっ!
社殿の向かって左後方から山頂に続く石段がありまして、登った先に奥の院が鎮座しています。かなり整っていますので拝殿と同時に再建されたかもしれませんね。
古い奥の院は先にご紹介した天狗が神通力で麓から山頂まで社殿(奥の院)を運んだといわれます。
それらの民話がどこまで本当なのかはわかりませんが、古代から岩が突き出る山を登り社殿を建立した人がいたことはたしか。
そして風土記にあるように特殊な生活をする集団もいたのでしょう。いまは観光地のようになっていますが、それは表面の部分。歴史を調べてみると神秘的な場所だな〜としみじみと感じました。
里宮
これまでご紹介した足尾神社は本宮の方で麓に里宮があります。氏子といえどもふだんは山頂まで参拝せずにこちらで済ませるのでしょう。
住所は「茨城県石岡市小屋387番地」です。
拝殿には競輪選手が奉納した額が飾られていました。足は商売道具なので怪我の予防、筋力アップなんかも祈願していたかもしれませんね!
御朱印
御朱印は宮司宅でいただくことになるかと思います。事前に公式サイトにある番号にお電話をして教えてもらった住所に伺って下さい。
ちなみにその住所をGoogle Mapに打ち込むと出てきます。
コラム1:葦穂山を「おばつせやま」と読む理由
茨城県神社誌にあったので「由緒」では葦穂山の読み方を「おばつせやま」としましたが、一般的には「あしほのやま」です。なぜ、「おばつせやま」が出てきたかと言うと、前述の風土記の同項に次のような和歌があるためでしょう。
言痛けば 小泊瀬山の 石城にも 率て籠らなむ 勿恋ひそ我妹
(二人のことが人の噂になって、あまりひどくなったら、おはつせ山の石室にでもあなたを連れていっていっしょにこもりましょう。だから、そんなに私のことを恋こがれないで下さい。いとしい人よ)
常陸国風土記 全訳中/秋本吉徳
だれが歌ったのかは明らかではありません。ふつうに意味を解釈すれば、カップルのうち男性が世間の噂話を煩わしく感じたらだれの目にも触れない場所(でも本来行ってはいけない場所)に行こう、とする歌です。
ただ、引用元の解説によると、「おはつせ山」は大和(奈良)と信濃(長野)にも同じ名前の山があるのだとか。大和の方は古来から墳墓の地、つまり墓地です。さらに、「言痛けば」は万葉集の歌(大和地方のもの)にあるので、この歌は大和国との関係がありそうですね。
コラム2:足尾神社は式内社の夷針神社なのか
平安時代に成立した『延喜式』の神名帳に記載された神社を式内社と呼び、由緒ある神社として語られます。
常陸国の式内社は二十八社あり、足尾神社はその内のひとつ「夷針神社」ではないかとされています。いわゆる論社ですね。
夷針神社は現存するかどうかも含めて比定されていませんが、八郷町史を読むと足尾神社が夷針神社である可能性が高いと思いました。理由は大きくわけて2つです。
- 平安時代の百科事典『和名類聚抄』(通称:和名抄)によると、葦穂山の辺りは『夷針郷』と呼ばれていたこと
- 「夷針」はイシミあるいはイシムと読み、「石のあるところ」の意味があるので地勢的に足尾山と合致すること
- 葦穂山の葦は「崖地」、穂は「突き出たところ」の意味があり、夷針の意味と合うこと
他の論社は夷針神社(茨城町大戸)、胎安神社(かすみがうら市)、子安神社(かすみがうら市)、愛宕神社(笠間市泉)です。
すごくざっくりですが、それらが式内社でないと考えられる理由は以下のとおりです。
- 夷針神社→武熊明神に夷針神社を合祀したといわれるが、明和7年(1770年)以前に夷針神社があったことを示す根拠がない。水戸藩の鎮守帳にも夷針神社の名がない
- 胎安神社&子安神社→夷針を「ヒラバリ」と読むことで同社の鎮座する「荒張」と結びつけて比定しているが、夷針の読み方は「イシミ」や「イシム」が妥当
- 愛宕神社→鎮座地の泉(いずみ)の読み方を夷針と結びつけているが弱い。夷針神社としての由緒もまったくわからない
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まとめ
この記事のまとめ
- 醍醐天皇の足を治した由緒ある神社
- 式内社の可能性が高い
- 御朱印は宮司宅でいただける。事前電話必須
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
八郷町史/八郷町史編さん委員会
常陸国天狗譚/岡村青
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。