【薬師信仰】愛宕山に棲む十三天狗!長楽寺の正体に迫る|石岡市

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ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

岩間の愛宕神社悪態まつりが開催される日。その見物を前にゆかりの地である八郷地区(石岡市)の長楽寺を訪ねることにしました。

長楽寺は愛宕神社の境内で祀られる十三天狗と深く関係するといわれています。県民の方ならその民話をいくつか聞いたことがあるかもしれません。平田篤胤の『仙境異聞』にも登場する天狗のことです。

今回はそんな長楽寺についてご紹介します。実際に参拝する方は少ないかと思いますが、参考までにぜひご覧ください!

長楽寺
長楽寺

長楽寺について分かっていることは僅かです。郷土史の『八郷町史』には次のようにありました。

長楽寺 格内

薬王山長楽寺、初め滝本本坊といっていたが慶長十年(一六一四)長楽寺と改めた。仁王門は二間半四方で、仁王尊はよく保存されている。本尊は薬師如来で十二神将も安置されている。平田篤胤の「仙境異聞」に出てくる空中飛行の杉山大僧正の寺である。薬師棠そばに薬師井戸、天狗のたもと石、天狗腰掛石、大乗妙典、六十六部日本廻国塔(宝暦十年・一七六〇)、西国巡礼塔(安永七年・一七七八)などが見られる。

八郷町史|編:八郷町史編纂委員会

天狗伝説については歴史書の中でも触れられており周知のこととしてよいのでしょう。また当寺は真言宗に属するにも関わらず本尊を薬師如来としている点も個人的に興味深いところです。

真言宗の本尊は基本的に大日如来です。また修験道が色濃いのであれば大日如来の教令輪身である不動明王を本尊とすることもあります。

真言宗でありながらそれら以外を本尊とする場合は、歴史的な経緯によると考えてよいでしょう。ちなみに茨城県(旧常陸国)は真言宗より先に天台宗が普及し、古い天台寺院は薬師如来を祀ることが少なくありません。

たとえば薬王院(桜川市)、東城寺(土浦市)、西蓮寺(行方市)、二本松寺(潮来市)などです。少し離れていますが、水戸の薬王院も同様です。

長楽寺の創建は石岡市観光協会のサイトにもあるように天長元年(824年)とされています。以降の由緒は引用した時代まで不明ながら、その本尊からはかなり古い土着の信仰を感じ取れます。

当寺のもうひとつの特徴は天狗伝説です。少々長くなりますので、先に境内の紹介をさせていただきます。

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紹介した天台寺院の創建は9世紀初頭(天台宗の開創直後)と伝えられるように極めて古く、天台宗以前に信仰を広めていた法相宗の影響も考えられます。

引用元の「慶長十年」は1605年が正確です。

アクセス

名称薬王山 長楽寺
住所茨城県石岡市龍明640番地
駐車場なし(近所の龍明地区公民館に駐車可)
Webサイトなし

参道と仁王門

公民館から長楽寺に続く道路
公民館から長楽寺に続く道路

長楽寺の境内は駐車できません。石岡市観光協会がいうように龍明地区公民館に駐車してから行くのがよいでしょう。ちなみに寺の現所在地は「龍明」となっていますが、少し前までは狢内むじなうちといいました。

駐車してから西へ向かう道中にはいくつかの石仏が並んでいます。文字が読めないくらい古いようで、確認できたのは十九夜塔と「供養」の文字が見える紀念碑。それに青面金剛らしき石仏だけでした。

手水鉢
手水鉢

境内には手水舎や仁王門など寺観を飾るものが揃っています。手水の後ろにあるのは無縫塔でしょうか。住職などの僧侶の墓とされることが一般的です。手水の近くにあるのはやや違和感ありですね。

隣にあるのは巡礼の紀念碑と思われます。「西国」はなんとなく読めました。江戸時代は巡礼地であったようです。

参道の石段
参道の石段

では、石段を登っていざ境内へと行きたいわけですが、その前に写真左側になにやら気になる石が。

倒れた不動明王像
倒れた不動明王像

右手に剣を持った人形の彫り物はおそらく不動明王なのでしょう。長期間この向きにあったら苔などで大きく変色していると思われてますので、倒れてからさほど時間は経過していないようです。

長楽寺が神通力を持つ天狗に関係するのであれば、少なからず修験道に属していたと考えられます。修験道の本尊とされることが多い不動明王こそ長楽寺にふさわしいと思うのですが、ちょっと違うようですね。

仁王門
仁王門

石段の先にある仁王門です。写真に写っていませんが、足の部分の暗くなっているところに二体の仁王像(金剛力士象)が安置されています。仁王像は足の手前にあることが多いので、ちょっとめずらしいスタイル。

周囲が保護された形状であるせいか、仁王像の状態は極めて良好。金網越しにキラリと光り瞳が見る者に畏怖の念を抱かせます。もしかしたら特殊な形の仁王門はこの仁王像保護のためかもしれません。

本堂(薬師堂)

本堂(薬師堂)
本堂(薬師堂)

仁王門の先は竹林を裂いたような境内となっており、門から延びる参道の正面に本堂にあたる薬師堂が安置されています。これがまた立派な姿をしており、傷んでいるものの見事な彫刻を見ることができます。

建物の四方に大きな柱が4本ありますから3間x3間、つまり約5.4m四方になるでしょうか。軒裏のあたりはやや朱色が残っており、わずかながら往年の姿を感じることができます。

大棟の寺紋
大棟の寺紋

大棟の瓦にはずいぶん変わった紋が見えます。寺紋なのでしょうか。川をあらわすような曲線の先に「瓜紋」のような外形。ただし、中心にあるのは「一つ巴」に見えます。周辺の寺社にもあるようなら面白い。

正面の龍の彫り物
正面の龍の彫り物

正面上部の彫刻は定番の「龍」。正面にあるのはたいていこれか「鳳凰」「亀」あたりでしょう。

木鼻の獅子
木鼻の獅子

立派な木鼻のほか獅子や鳳凰の彫り物が見えました。境内はあまり日が差さないので四方を同時にキレイな撮影をすることは難しいようです。特に南側は竹林の影になっていて厳しい。

修繕の記録
修繕の記録

建物に打ち付けられた板によれば、昭和52年に寄付を募って修繕したそう。彫刻などの繊細な造形には厳しい環境ながら、建物自体が安定して見えるのはこの時のおかげだと思います。

境内社:てんぐ堂

てんぐ堂への参道
てんぐ堂への参道

続いてご紹介しておきたいのは境内社のてんぐ堂です。境内には石造の紀念碑は数多くあるものの神社の形式となっているのはひとつだけです。

本堂南東にある石段から社殿へ。この建物は本堂と同じように東側を向いています。

てんぐ堂
てんぐ堂

外側にあるのは覆屋で社殿ではありません。その一回り小さい建物が社殿です。てんぐ堂と呼ばれていますが、具体的な神号は不明です。

てんぐ堂の下駄
てんぐ堂の下駄

しかし、内部に一つ歯の下駄が奉じられてることから察するに、これが岩間の十三天狗に数えられる長楽寺に関係することは容易に想像できます。

てんぐ堂の敷石
てんぐ堂の敷石

社殿の下には巨大な石が敷かれています。これを社殿建立のためにわざわざ敷いたと考えるのは不自然。予めあったのでしょう。これが『岩間町史』にある「天狗のたもと石」または「天狗の腰掛け石」かもしれません。

やはり長楽寺と天狗伝説は歴史書で触れられるほど切っても切れない関係なのですね。それでは天狗伝説とはどのような内容なのかをまとめて説明します。

こちらの境内社は中村ときをさんの『筑波風土記』に写真付きで「天狗堂」と紹介されており、敷石については「水成岩」と説明されています。

十三天狗の伝説

十三天狗とは岩間(笠間市)の愛宕山に棲むという十三人の天狗のことです。なぜそれが八郷の長楽寺と関係するのか。『岩間町史』で簡潔に説明されていたので以下に引用します。

(一)むかし、城山(泉城址)に一二人の天狗が棲んでいた。ある日、北の方に聳える愛宕山をみて「自分たちの棲む山より高い山がある。自分たちこそあの高い山に棲むふさわしい者だ」とうそぶいて、一二人の天狗は空を飛んで愛宕山の頂上に移り住んだという。ちなみに、この城山には十二所権現という小さな祠が祀られている。

(二)むかし、愛宕山の頂上の飯綱宮には一二の天狗が祀られていたので、麓の泉村では、毎朝一二の御膳を供えていた。ある夜、「この度、長楽寺が加わったので、翌朝からは一二膳を一三膳に増やすように」とどこからともない厳かな声を村人は聞いた。村人は天狗様の声に違いないと思って、翌朝から「一二天狗様並びに一天狗様御膳」と唱えながら一三の御膳を供えるようになった。

(三)芦穂山の麓狢内村の長楽寺に親孝行な坊さんがいた。ある日坊さんは「お母さん津島の祇園を見に行きましょう。目を閉じて私の背中に乗ってください」とすすめた。母が目を閉じている間に津島の祇園に着いた。一日楽しんで、また背中に乗せて家に戻ると坊さんは疲れたと云って部屋で寝てしまった。でも、なかなか起きてこないので、心配になった母が、そっと覗くと大羽を伸ばした天狗が寝ていた。母が驚いて声を上げると、天狗はそのままどこかへ飛び去ってしまった。その後「長楽寺の坊さんは愛宕山の十三番目の天狗になった」と誰云うとなく母親の耳に伝わってきた。

岩間町史|編:岩間町史編纂委員会

もっとも有名なのは(三)です。民話として語られる場合は、母親の「津島の祇園を見てみたい」という願いを息子が耳にするところから始まります。だから親孝行とされるのです。(参考:茨城の民話Webアーカイブ

(二)は長楽寺の歓迎会を開くために膳を供えさせたとか、そのときに長楽寺の膳だけ足りなかったとかいくつかバリエーションがあるようです。わたしが初めて知ったお話はそちらの方でした。

八郷の長楽寺と岩間の愛宕山。このふたつがどうやって繋がるのかといえば、神仏習合時代における寺院の本末関係です。本末とは本寺と末寺のことで、いわば寺院同士の主従関係です。

長楽寺は同じ八郷の瓦谷にある雲照寺の末寺でした。一方、愛宕山には愛宕宮(現在の愛宕神社)が鎮座し、その祭祀は別当である密蔵院が担っていました。密蔵院は下郷(笠間市)の不動院の末寺、不動院は前述の雲照寺の末寺です。長楽寺、不動院、密蔵院は共に雲照寺の配下ですから、もちろんその宗派は雲照寺と同じ真言宗です。

長楽寺と愛宕山(愛宕宮+密蔵院)は信仰的な繋がりがあったので、民話でコラボしたのではないかと思います。

それでは十二天狗や十三番目の長楽寺という発想は一体どこからやってきたのか。わたしは長楽寺の側から生じたのではないかと考えています。

十三番目の長楽寺の誕生

薬師堂内部
薬師堂内部

長楽寺の薬師堂(本堂)は隙間から中を覗けるようになっています。それを撮影したのが上の写真です。

手前にある方形の壇はおそらく護摩壇の跡でいまは朱色の人物像が安置されています。真言宗の寺院なので弘法大師(空海)と考えるのが自然ですが、大師像で見られる五鈷杵や数珠がないため判別できません。

奥の内陣が一段高くなっており、閉じられた厨子に納められているのは本尊の薬師如来と思われます。その左右に6体ずつ配されているのは数と造形からして十二神将です。

十二神将は薬師如来を守護する存在として配され、その数が十二支と同じであることからそれぞれに十二支が割り当てられる場合があります。たとえば一日二十四時間を十二神将が二時間ごとに分担して如来を守護するといった説はこうした背景によります。明治以前であれば「子の刻」や「丑の刻」と時刻を数えました。

大黒天像
大黒天像

そしてそれらの右端にはふくよかな体格に大きな袋を抱えた姿があります。右手が欠けていますが、大黒天として間違いないでしょう。一般的な姿と違って蓮の花に乗っていますから、仏が姿を変えた垂迹神です。

大黒天は記紀神話で活躍する大国主命が仏教の大黒天と習合した存在です。神話で医薬に通じるとされることから、古くは薬師如来の垂迹神と捉えられていたようです。茨城の例だと大洗磯前神社が「薬師菩薩明神」として延喜式神名帳に記載されています。薬師は「如来」ですから、「菩薩」なら読みは「くすし」だったかもしれません。

これらを前提として十三天狗を検討してみると、その誕生には長楽寺の薬師信仰があったのではないかと思います。十二天狗とはいわば十二神将の化身です。それでは十三番目の長楽寺とはなんなのか。

ダイレクトに結論を述べる前に、上の童謡をお聞き下さい。題名は『お月さまいくつ』です。曲の冒頭に「お月さまいくつ」と問いがあり、答えに「十三七つ」と続きます。十三が十三夜を意味するともいわれますが、定説はなく専門家でも説明に窮する歌詞です。

わたしが思うに、ここでいう「月」とは月齢ではなく一月とか二月などと一年を数えるときの月です。ふつうはその数を十二としますが、旧暦では十三になることがあります。それが閏月うるうづきです。歌詞の続きにある「七つ」は一年(十三月)を七つ重ねた、つまり七歳のことかと思います。

旧暦は概ね月の満ち欠けから日付を判断していました。月は平均して29.5日で新月に戻りますから、現代の太陽暦より月平均で1日少なく、1年だと11日ほど差が生じます。

そこで3年に1度程度のペースで「閏二月」というように閏月を差し込むことで調整していたのです。これが十三番目の月の正体です。太陰暦を太陽暦で調整するから旧暦は太陰太陽暦といいます。

閏」とは本来と違うが間違いではない、という曖昧な存在です。十三天狗は十二でも成立しますが、十三でも間違いではない。むしろ十三いたほうがより正確で好ましいのです。

十二神将は十二支と結びついたと前述しました。一年の月は子の月、丑の月などと十二支で表現されることがあります。閏月は十二支では説明できませんから、そこから十三番目の存在が誕生したのではと考えられます。

こうした発想は十三天狗が祀られる愛宕山やその別当寺というよりも、十二神将に親しい長楽寺から生じたとするほうが自然だと思います。愛宕山の十三天狗の祠は悪態まつりが一年の節目(新嘗祭と同時期)に催されるため、一年を模する存在として建てられたのではないでしょうか。

まとめると十三番目の天狗である長楽寺の正体は「閏」。その起源は狢内の長楽寺の薬師信仰に由来する、です。引き続き調査を続けたいと思いますので、ご意見ありましたらぜひお寄せ下さい!

まとめ

・龍明(旧狢内)の長楽寺は真言宗の寺院。かつて天狗がいた寺といわれる

・長楽寺を名乗る天狗は岩間山の十三天狗に加わった

・長楽寺には薬師信仰があり、それから「閏」の天狗の誕生に繋がったかもしれない

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁

岩間町史|編:岩間町史編さん委員会

八郷町史|編:八郷町史編さん委員会