【隠れた桜の名所】潜龍山 多宝院と多賀谷氏|御朱印(下妻市)

この記事でわかること
  • 独特の由緒
  • 桜の見頃
  • 御朱印のいただき方

面従腹背。。表向きは従いながらも裏で牙を向いていること。昨年、政治の世界で何度も耳にしたような気がします。

良い意味ではありませんが、実際にはそういうことってありますよね。そう、茨城の歴史をたどってみても。。発見してしまいました!

この記事では下妻市の多宝院と開基となった多賀谷たがやしをご紹介します。桜の名所としても知られているお寺ですよ♪

多宝院とは

多宝院

多宝院

多宝院は釈迦牟尼仏(釈迦如来)をご本尊とする曹洞宗の寺院です。

場所は下妻市の下妻乙。本城の市役所から県道357号を北に5分ほど進み側道に入ったところ。ちょっとわかりにくいですが、一応案内はあったかと思います。

由緒を公式サイトから引用します。

多宝院の前身は宗派、寺名ともに明らかではないのですが、「常陸国河内群大串村字寺山」にあったとされ、開創は建永年間(1206)、御開山は嵬天和尚であったと伝わっています。「寺山」という地区は大宝八幡神社の南方三町ほどにある小丘陵であり、ここは下妻地域を治めていた多賀谷公の所領に属し、西南は大宝沼に面していました。

天文年間(1535)、下妻城三代目城主の多賀谷左近大夫家植公は当時の住職であった少伝宗誾和尚と出会い深く帰依し、現在の地域に伽藍を建立の上、境内三万三千四百十二坪を寄進しました。その時より家植公の御法名「多宝院殿龍山祥潜大居士」を以て、寺名を「潜龍山 多宝院」と称し、少伝宗誾和尚を御開山としています。なお、少伝宗誾和尚は美濃の生まれで早歳に出家し、結城の乗国寺住職であった仲明栄主和尚を尋ね師弟の縁を結んだため、当院は結城の乗国寺を本寺としています。
多宝院の歴史/多宝院公式

結城の浄国寺の末寺で多賀谷氏の菩提寺というのがポイントです。

当寺、多賀谷氏の主君は結城氏です。結城氏は禅宗を信仰しており、浄国寺(洪水にあう前は福厳寺)の開基になっています。多宝院は浄国寺の末寺ですから主君と家臣の関係が寺院にも見られるということですね。

ただし。。多賀谷氏と結城氏の関係は大変微妙です。

多宝院が建立される前。享徳3年(1454年)辺りから、多賀谷氏は結城氏の承認を得て下妻地方の寺院に土地の寄進をはじめました。次々と寄進を進めた理由は領内の地位を高めるため。やがて水面下で結城氏と対立関係となります。

寛正3年(1462年)には多賀谷祥永(朝経=高経?)が主君である結城成朝を殺害するという事件が。。どうやってこの件を落ち着かせたかわかりませんが、とにかく面従腹背です。

明応8年(1499年)には主従関係があるはずなのに多賀谷氏は一時的に結城城攻め込んだりしました。一方で結城氏の命令に応じて兵を出したりするから不思議です。

多宝院の創建には以上のような経緯があります。決してハッピーな出来事ではありませんよね。詳細までわからないのですが。。

開基となった多賀谷家植いえたねは、強大な力を持ちながらも領内の寺院の保護に努め、主君との関係を維持しましたので統治者として高い評価ができると思います。

wata

多賀谷氏の菩提寺ですが、累代の墓石はわかっていません。ただ、多宝院の開基である家植公と近隣にあった覚心院(曹洞宗)の開基である多賀谷重経公の墓石は目にすることができます。

山門

山門

山門

多宝院の山門です。じつはもともと多宝院にあったものではなく、別の屋敷から移されてきました。

多宝院は元治元年(1864年)の天狗党の乱で幕府の本陣が置かれたため戦闘の舞台となってしまいました。戦火によって伽藍や寺宝の一切を失ってしまい山門もなかったんです。

でも、こちらの山門も立派なもので素敵だと思いますよ。

MEMO

駐車場は山門の右手にあります。10台以上は余裕で駐車できますのでご安心ください。

シダレザクラ

シダレザクラ

多宝院の名物といえば桜!ソメイヨシノとしだれ桜の2種類を楽しめます。

この辺りのソメイヨシノは4月上旬、しだれ桜は少し早く開花するので、3月下旬に見頃を迎えます。

このときは3月31日でしたので、ちょうど両方が見頃を迎えていました。しだれ桜は若干散り始めていたのでもう少し早くても大丈夫でしょう。

山門をくぐってすぐ右手にあるのがしだれ桜。見事な樹勢で圧倒されました。このあと次々と参拝者がいらしてましたが、皆さん口々に「うわっ!」と驚きの声をあげていました。

本堂とソメイヨシノとシダレザクラ

本堂とソメイヨシノとシダレザクラ

本堂すぐ手前(右)にしだれ桜、もう少し手前(左)にソメイヨシノ。どちらも大変美しくて見とれてしまいます。

『茨城県の桜』にも素晴らしいお写真が展示されています。特に3本の桜を一緒に写している一枚が感動的なのでリンクからご覧ください。


参考
【下妻市】多宝院の枝垂れ桜茨城県の桜

本堂

本堂

本堂

山門の先、50mほど歩くと本堂です。

本堂は前述の通り天狗党の乱で焼失してしまいました。それから明治40年(1907年)に仮本堂を建て、平成3年(1991年)に改築されたのが現在の本堂です。

本堂の左手前には千体地蔵堂があり、文字通り千体の地蔵が安置され水子の供養をしています。

石仏の塚

石仏の塚

さらにその少し手前には墓石や石仏が積まれた塚のようなものが。かなり不思議に感じましたが、かつて徳川幕府から70石もの寺領を授かったそうなので寺内にあったものを集めたと思います。

郷土史をのぞいてみると多宝院では二月の初午の前に悪病災厄除けと安産を祈願する『坂本のだいはんにゃ』なる行事があったそう。いまもあるかはわかりませんが、住職が檀家を回って大般若経を転読してお札を配っていました。

庫裏で御朱印をお願いしている間、『般若心経』の書をいくつか目にして気になっていましたが、そのようなゆかりがあったんですね。

わたしが多賀谷氏をはじめて知ったのは牛久市の栗林義長の民話です。天才軍師の義長が非力な自軍を操って強大な敵から勝利を収めるのですが、その相手が多賀谷氏なんです。

義長は病によってこの世を去るとき、「卑怯な多賀谷氏と和解してはいけない」という遺言を残しました。その遺言を違えた主君の岡見氏は和解の席で裏切られ。。

実在の人物をよくもこんな悪役に仕立て上げたなと思いましたが、歴史をたどってみるとなるほどと思う面も多々あります。

とはいえ多賀谷氏は下剋上のある戦国時代の武将ですから、現代と違った価値観で当然です。そうした違いも楽しみながら参拝していただければよいかと思います♪

wata

『茨城の寺』には、慶長20年(1615年)に日光と筑波山神社を参拝する徳川家光が多宝院に宿泊したとあります。将軍もいらしたとは驚きですね!

御朱印

多宝院の御朱印

多宝院の御朱印

多宝院の御朱印です。御朱印料は300円です。

本堂右手の庫裏からお声掛けください。

アクセス

名称潜龍山 多宝院(曹洞宗)
住所茨城県下妻市下妻乙1035
電話番号0296-44-3365
駐車場あり
Webサイト公式サイト
SNS




まとめ

この記事のまとめ

  • 多宝院は多賀谷氏の菩提寺として創建された
  • 見事なしだれ桜が名物
  • 御朱印は本堂右手の庫裏でいただける

参考文献

茨城の寺(一)/今瀬文也