多賀谷氏崇敬の神明両社|下妻市

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神について
  • 中世時代の天照大神について
  • 御朱印のいただき方

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

天照大神は高天原の統治者として知名度バツグンだと思いますが、主祭神とする神社は意外に少ないと思いませんか?境内社や小さな祠であれば時々見かけますけどね。

じつはそれには歴史的な背景があったり。。というわけで、今回は下妻市の神明両社しんめいりょうしゃのご紹介にあわせて天照大神の信仰について触れてみます♪

神明両社とは

神明両社

神明両社

由緒

大同2年/807年
創建
永禄7年/1564年
寄進
下妻城主・多賀谷下総守政経、関本原で猪狩りの途中、当社にて休息。そのとき突然に暗雲が立ち込め天地が震え出し、政経の鼻血が止まらなくなる。神主植木宮内に懇願して当社で祈祷すると直ちに鼻血が止まった。以来、政経は畏敬して神馬と永十貫の土地を寄進した。
元亀年間/1570-1573年
社殿焼失および再建
江戸時代
朱印地を授かる
幕府より朱印地15石および除地4石を授かる
明治6年/1873年
村社列格
大正元年/1912年
一の鳥居建立
平成6年/1994年
社号標建立

ご祭神は大日霊貴おおひるめ豊受比売とようけひめです。前者は『日本書紀』にある天照大神の別名ですね。両祭神は伊勢の内宮と外宮の祭神として知られています。(内宮と外宮を合わせていわゆる伊勢神宮)

伊勢神宮はかつて天皇以外の私的な奉幣を禁じていました。それが変化したのは中世後期。荘園の拡大で神宮の運営が不安定になったことを背景に御師おんしと呼ばれる布教者が伊勢の信仰(伊勢神道)を広め寄進を集めたのでした。そのため現在の祭神はどんなに早くても室町期以降の成立かと思います。

ただし、神社の境内は「神明両社遺跡(茨城県周知遺跡)」に指定され発掘物もありましたので、この地では古代から何らかの祭祀が連綿と続いている可能性があります。ロマンですねぇ!

wata

天照大神を祭神とする神明社は15世紀頃に一気に広まりました。ただし、その頃は神宮非公認のものばかり。江戸時代創建の神明社は公認が多かったそう。

アクセス

交通の便はあまり良くありません。高速道路のIC、駅から遠いのでほぼ車による参拝になるかと思います。目印としては大宝八幡宮とイオンモール下妻から車で約15分です。

駐車スペースは一の鳥居の側であれば安全に駐車できます。ちょっと歩くことになりますけどね。

名称 神明両社
住所 茨城県下妻市江神明前1
駐車場 なし

社号標と一の鳥居

社号標と参道

社号標と参道

こちらが神明両社の入り口にある社号標。周辺は畑となっており、参道と車道が一体化しています。かつて15石を誇った神社ですので境内も広かったのでしょうね。

一の鳥居

一の鳥居

その先にあるのが神明造の一の鳥居。社号に神明とあるくらいですから、この鳥居は当然?いえいえ、神明社は奥深くてそうでない場合もあるんですよね〜

二の鳥居

二の鳥居(両部鳥居)

二の鳥居(両部鳥居)

二の鳥居は両部鳥居。神明造の鳥居の足にさらに四本脚が足されたような形です。

両部というのは伊勢神道と関係が深い両部神道に由来するといわれます。両部神道は真言宗の立場から神道を読み解く思想です。天照大神の本地仏を大日如来とするなど神仏習合しています。

ここで思い浮かぶのは、そもそも伊勢神宮は日本古来の信仰を保つ立場から仏教を忌避していたはず、という疑問。神宮では仏教に関する言葉を「忌詞」で言い換えるほどでした。

たしかにそうなんですが、実際には中世の神宮では神仏習合のようすが見られるんですよね。「中世神話」として色々と研究されていますので、気になる方はぜひ学んでみてください。

「中世神話」のおすすめ本

神楽殿

神楽殿

神楽殿

参道左手にちょっとくたびれた神楽殿。最近はあまり使われていないかな?

わたしの住む地域もそうですが、中心地を除くと少しずつ子供が減っていきますし、利用は減っていくのでしょうね。寂しいことですが。

拝殿

拝殿

拝殿

境内は広くありませんのであっという間に社殿にたどり着きます。ちょうちんを飾るのはお正月だけかな?風情があっていいですよね。

高天原の扁額

高天原の扁額

扁額には「高天原」。かっこよすぎる!!たしかに天照大神のおわす場所といえばこれ。ムチャクチャ達筆だし、ぜひ目にしていただきたいですね。

朱色の彫刻

朱色の彫刻

拝殿にある獅子や龍の彫刻は朱色に塗られていました。魔除け、災厄除けの意味でしょうか。そういえば、中世や戦国時代の天照大神は祓いの神としても知られていました。

物事は表裏一体という考えをベースに戦乱などの災厄には同時にその救いもあるとされたようで、それを広めたのも前述した御師です。当社の由緒で下妻城主の多賀谷政経の鼻血が出たり止まったりするのもそうした信仰の表れではないでしょうか。

祠(左)

祠(左)

祠(右)

祠(右)

拝殿の両脇には同じ形をした祠が2つ。これがどのような意味を持つのか不明ですが、神社では狛犬や石灯篭を左右対称に置くことが多いですよね。万物は2つのエネルギーによって成り立つとする陰陽説的な思想が根底にあるのかなと思います。

本殿

本殿

本殿

本殿ももちろん神明造。千木が外削ぎ(男千木)になっているのは神宮とは異なっていますね。天照大神は女神なので内削ぎ(女千木)が多いのですが。。中世では男神とする考えがありました。長くなるので別の機会に。

今回は中世の天照大神の一端を紹介しましたが、こうしたことを広めた御師は外宮の文献を典拠にしているので、外宮の祭神である豊受比売命もセットで祀られているのではと思います。

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豊受比売命は天照大神よりもさらに大胆な変貌を遂げた神だったりしますので、ご興味のある方はぜひ調べてみてくださいね。

御朱印

神明両社の御朱印

神明両社の御朱印

神明両社の御朱印です。境内西側の宮司宅でいただけます。

氏子の声をきっかけに近年はじまったそうですよ♪

まとめ

この記事のまとめ

  • 天照大神の信仰は室町期以降に御師をきっかけにはじまったと思われる
  • 中世の天照大神はさまざまな神格を持っていた
  • 御朱印は境内西の宮司宅でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁

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